単なる人生訓ではなかった儒教の真の姿-祖先崇拝と政治が交わる場所。知っているようで知らない、でも知っておきたい『フワッと、ふらっと、儒教の法史学』
日本の習俗や日本仏教にも溶け込み、日本人の考え方や、のみならず社会制度までにも少なからず影響を与え、また法事等の儀式にも大きな影響を与えている儒教思想を概観していきます。
なお、本稿は、社会学者小室直樹氏(1932-2010)や、東京工業大学名誉教授橋爪大三郎氏等の学説をベースにした、宗教社会学的見地からの考察であることを予めご了承ください。
儒教や仏教及び宗教学としての儒教・仏教学は、様々な宗派や学派があり、思想的に非常に多様で、各宗派や各学説によって死生観や他の概念の捉え方も様々で、下記に述べる内容等が唯一の捉え方ではないということもあらかじめご了承頂ければと存じます。
日本では、単なる人生訓や道徳論と考えられている場合も少なくないと思われる儒教にも、死生観や魂の救済についての思想があります。
その内容は、以下のようなものです。
儒教では、人の魂には、
魂(精神をつかさどる天の陽気からの魂)
と、
魄(肉体をつかさどる地の陰気からの魂)
とがあり、
人が亡くなると、魂は天に昇って神となり、
魄は地に潜るとされています。
遺族は、魂を祀る為に「位牌」を廟に祀り、
魄を地に返すために土葬しなければならないと儒教では考えます。
なお、死者は、死後も生前と同じように生活すると、儒教では考えられているようでした。
人が亡くなった場合の、儒教の祭祀の手順は次のようになります。
まず人が亡くなった場合、声をあげて悲しみ泣き、招魂を行い、
さらに、屋根に登って北に向かい、死者の名前を大声で呼び、天に帰る魂を呼び戻そうとします。
その後、さらに詳細な手続があって、
悲しみの舞踏を舞ったり、
泣き女(魂呼ばいや悪霊払いを兼ねた、泣くことによって悲しみを表すことを、生業とする儀式師)
を加えたりします。
そして、その後も細々とした祭祀があるのですが、前述したように葬儀の終盤には土葬を行うということになります。
ちなみに、日本は、儒教よりも仏教の影響のほうが強かったため儒教葬は、殆ど行なわれませんでしたが、
朱子学(南宋時代の儒教の学問体系。江戸幕府の官学)に傾倒した水戸光圀(徳川光圀、水戸黄門)は、儒教葬を奨励したと言われています。
そもそも、儒教教団とは、このような原始儒教に基づく儀式を、人々に教えるために生まれたものだといわれています。
なお、弔いのための祭祀はその後も続きます。
なぜなら、子孫が祭祀を行えば、魂と魄が天地から戻ってきて復活すると考えられているからです。
このように復活するためには、子孫が末永き保たれ、かつ子孫が先祖を敬ってくれることが必要です。
子孫が長く保たれるためには、まず第一に政情不安があってはなりません。
ゆえに、儒教においては「良い政治を求めること」が教義となります。
「良い政治が必要である」と考える非常に珍しいといえば、珍しい教義と言えることでしょう。
次に、子孫が先祖を敬ってくれないと祭祀が行われませんので、祖先崇拝も教義となります。
祖先崇拝とはまず、祖先はとにかく偉いと考え、またゆえに偉い祖先から出た自分達も偉くて正しいと考えることです。
加えて、その偉い祖先から出た、親族一同も偉いと考え、親族間の団結を固めるわけです。
大陸は、平原が続くところです。
いつ異民族が襲ってきて土地を追われるかわからないなかで、
不動産やその所有権などを頼れる財産と考えることもできず、
貴金属も奪われればおしまい、緊急時に役立つものは血縁で結ばれた親族しかないということから、
魂の共済とともに、親族間の団結を固めるためのこのような考え方が出てきたものと思われます。
儒教の祖先崇拝は、このような事情から生じたものですので、日本で考えられるよりも遥かに強固で厳格です。
「親族間の団結」と前述しましたが、ここでいう親族とは、通常「宗族」のことを指します。
これは、同じ姓を名乗る祖先崇拝を行う、数百から数万人規模の、父系血縁集団のことで、「氏族」といったほうがわかりやすいかもしれません。
日本人が考えるような、せいぜい6親等内の少人数の親戚とはスケールが全く違うものです。
日本的な「ムラ社会」では、「一緒に働く」という協働性があってはじめて生まれる「共同体」であるので、
「血縁」があったとしても、日頃一緒に働いていない人は、「共同体の一員」とはなりません。
「遠くの親戚よりも近くの他人」なわけです。
儒教的な「血縁社会」は、協働してようがしてまいがそんなことは関係ありません。
「血縁」さえあれば共同体となれます。
祖先が同一であれば
(以下のような下剋上した戦国武将などのように血縁カリスマが欲しいがために、強引に系図操作した祖先ではダメです。
それは、「血縁社会」では許されざることです。
本当に血縁がある祖先を持たなければ共同体の一員にはなれません。
それゆえに儒教的思想においては「系図」を非常に大事にします)
その祖先から数百代離れている子孫同士であっても、一瞬にして共同体の一員となります。
なので、例えば、世界中に散らばっている面識はないけれども、
同宗族(韓国の場合は同本貫:日本でいえば同本姓)の人たちが、
みんなで金を集めて、同じ宗族の、
金はないけれども学力のある人に、
学費として渡し、アメリカに留学させる・・
というようなことができるわけです。
(日本では苗字が同じ「佐藤」だけれども、面識のない全く見知らぬ「佐藤太郎君」に学費を渡すなどということは普通考えられないことでしょう)
儒教の影響の強い地域では、姓の数が日本に比べて圧倒的に少ないのも、このような考え方によるものかもしれません。
儒教的な親族構造は、徹底した「父系血縁集団」です。
なので父系の姓を、数千年に渡り、改姓もせずに、ずっと受け継ぎます。
だから、姓の数も極端に少なくなります。
日本の場合は、江戸時代以前から、本姓
(これは本来少なかった。本姓は、天皇から賜わった同祖を表すファミリーネームで、源・平・藤原・橘や秦氏、菅原氏、穂積氏(穂積氏は、物部氏と同族。今は鈴木氏と名乗っている場合が多い)等、数えるほどでした。古代は今より人口がはるかに少なかったことでしょうし、それでこと足りたのでしょう)
を何のためらないもなく平気で変えて(そうしたものを「名字・苗字」といいます)、
(伊勢に赴任した藤原氏が「伊藤氏」を称したり、佐野に赴任した藤原氏が「佐藤氏」を称したり、木工寮(国交省のようなもの)の役人になった藤原氏が「工藤氏」を称したり・・)
次々に仮の通称である苗字を作り出しました。
だから、ファミリーネームが世界的に見ても非常に多くなっています。
(この点については以下をご参照ください)
ただ、このような措置は実用的であったとは思います。
中韓のように同じ姓の者が非常に多い、
例えば、あっち向いてもこっち向いても、みな藤原とか源だったら誰が誰かわかりませんから・・。
(なお今は、明治以降の法令の縛りにより法的には新しい苗字を勝手に作れなくなってしまっています)
儒教的な祖先崇拝は一族をまとめ、一族が基盤である農業の生産性をあげることにも寄与しました。
そして、これほどまでに、血縁関係が強固であると、社会は安定します。
過去に確定した、祖先の時代の人間関係をもとに、ほっておけば不安定で不確実になる、現在の人間関係を確定するので社会が安定します。
また、このような考え方は伝統主義であり、この伝統主義から派生して世襲主義が生まれてきます。
それゆえ、あらゆる地位は世襲されることとなり、子は親の職業を継げるので、自分で自分の職業を開拓する必要がなくなるため、社会が安定するわけです。
しかし、それでは社会が固定化してしまいます。
とりわけ政治の世界においては、
支配者の宗族でないと官僚になれないとなって、公平性を欠き、
それが原因となって、政治の乱れを呼び寄せる可能性があります。
そこで、官僚の役職と宗族を切り離すために、科挙制度や宦官制度が生まれてくることになります。
科挙制度は、試験によってエリートを選抜し、
官僚機構を構築する制度ですが、
エリートは思い上がって勝手なことをし、政治が腐敗する可能性があります。
そこで、エリート官僚に対する、カウンターバランス(対抗勢力、均衡勢力)システムとして、
皇帝の私的補佐をする役目である、
去勢された宦官という役職を置き、
科挙エリートと宦官が、
相互にチェック・アンド・バランシズをするというシステムができたわけです。
(日本において科挙制度が根付かなかった理由については以下をご参照ください)
宦官は、論理的思考に優れているわけではないのですが、
ペーパーテストだけが、よくできる官僚が、苦手な分野である経験と直感が役立つ分野において、力を発揮しました。
このように、流動性と固定性を上手く組み合わせた制度になっており、とりわけ科挙制度があるので、頭脳明晰でさえあれば、
どんな地位の出身者であっても、官僚になれる道が開けており、
不公平感を解消するためにも役立つシステムではあるのですが、
万能のシステムはないのが世の常で、この科挙制度にも欠陥がありました。
人はやる気があって精進さえすれば、
誰でも学問などはできますので、
学問をすれば、甘い蜜が吸えるとなれば(昔の大陸の官僚は非常に甘い蜜が吸えたのでした)、
誰しもがその道を目指すようになります。
なので、勉強できる環境がある者が、大勢官僚を目指し、都市にやってくることになります。
そうやって都市に人口が集中し、
そして彼らは、農産物の生産に携わりませんから、
農村の税負担によって、増殖する都市の生活が支えられることになります。
また、誰でも官僚を目指せるといえども、やはり有利なのは官僚の子供達でしょう。
勉学は、「金」と「時間」がないとできないもので、日々の仕事に追われ、時間がない人にとっては、物理的にできないということになります。
その点、官僚の子供達は、親の財力もあり、また勉学に打ち込める時間、暇も十分あり、勉強できる環境が整っています。
一方、農村の子息は、不利になり、官僚にはなれない、税負担は増えるということで、
しまいには、農村の人達が怒って暴動が起こり、
それが発端となって、王朝は打倒されるということが、300年に一度ぐらい起こり、それが歴史の中で繰り返されるということになります。
なお、王朝が変わる場合、新たな王朝の正統性の根拠が必要となります。
そのために「天」という思想が使われます。
祖先崇拝が根底にある社会では、
「皇帝の祖先も皇帝でなければならない。」
となってしまうのですが、そうなると、新たな王朝の正統性がなくなっていまいます。
そこでまず各宗族の祖先をずっと遡ると、天帝にたどり着くと儒教では考えます。
天帝は天のことで、絶対的支配者です。
皇帝は、天の天命を受け、天子となり、また絶対的な天の天命を受けて支配するわけですから、
その支配は正しい、
天子の行う政治も絶対的である
という論理のもとに君臨し、
「皇帝の祖先も皇帝でなければならない。」というロジックをかわすわけです。
これなら、祖先が皇帝でないものも皇帝となれるわけです。
この天の思想から、
「易姓革命」、「湯武放伐論」
(「徳を失い、天が見切りをつけ、天命を失った王朝は倒される」というような思想)
がでてくることになります。
ちなみに、日本の江戸時代の儒者山崎闇斎や山鹿素行などは、この湯武放伐論を、
「結局は臣が帝を倒すことを容認する屁理屈に過ぎない。
このような理屈を認めていたから、中国ではコロコロと王朝が代わった。
そんなことでは中華(世界の中心かつ最も優秀)とは言えない。真の中華は万世一系の日本である。」
とし、
このような思想が、尊王攘夷論を生じせしめ、
江戸幕府を打倒し、明治維新へと向かう源流となっていきました。
儒教の重要な考え方の1つを否定することで、
新たな局面を切り開こうとしたわけですが、そのためには儒教をかなり勉強しなければなりません。
しかし、いつの時代でも、世襲の安定した良い地位にあるものはあまり勉強しないものです。
勉強などしなくても、よい血筋と遊んで暮らせる財産があるということをプライドとすることできますので。
なので江戸時代に、儒教を熱心に勉強した者は、
下級武士や町人、農村上層部の人達の、
いわゆる
「マージナルマン(境界人:どの集団にも完全に所属できず、各集団にまたがって境界的に存在する人達)」
だったといわれています。
また、このような下級武士を中心とするマージナルマン達が、明治維新を担ったということも、ご承知のところだと思います。
これらのマージナルマン達は、反面教師的にはとはいえ、儒教を熱心に学んだため、儒教の中核の考え方である
「学問をすれば誰でも出世ができる。統治者ともなれる。」
という思想が、無意識的に腑に落ちていたのでしょう。
それも、明治維新の原動力となったものと思われます。
ところで、原始儒教は、前述したように魂の救済的な宗教らしいことを述べていたわけですが、
中興の祖というか、
むしろ実質的な儒教の創始者である孔子は、
「怪力乱神を語らず(あの世のことは語りません)」
と述べ、
現実的な、この世のことしか興味がなかったようです。
そして、その思想の中核が、
「政治万能主義」、
「徳知主義(支配者の倫理性と努力が安定した国家運営を招き、それによりよき政治ができ、よき政治ができれば万事は解決する。)」
と、
家族や血のつながり、「祖先崇拝」の重視です。
儒教の基本的徳目は、五倫五常です。
五倫とは、
父子の親(父子は自然的な親愛の情で結びついている)、
君臣の義(主君と臣は道徳・倫理に基づき結びついている)、
夫婦の別(夫婦は各々役割が異なる)、
長幼の序(年長者を敬わなければならない)、
朋友の信(友はお互い信頼しあわなければならない)
のことで、
五常は、
仁(人を思いやること)
義(すべきことを利や欲に捉われずにすべきこと)
礼(上下関係で守るべきこと)
智(知識を重んじ学問をすべきこと)
信(誠実であること等)
の徳のことを指します。
なお、小室直樹氏によれば、儒教が現代日本に最も多大なる影響を与えたものは、
生活や思想面ではなく、
明治以降に取り入れられた官僚制
(ここでいう官僚制は、何も役所のものだけではなく、日本においてあらゆる組織に見られる官僚制を指しています)
と、
科挙神話(ペーパーテストの点がよければ偉い人というように考える神話。小室氏の言葉では「受験制度」)
であるとのことです。
また、本家の官僚制は、宦官というカウンターバランスシステムがあったわけですが、
日本ではそれなくして官僚制を取り入れたため奇態な行動様式となっているとしています。
小室直樹氏によれば、カウンターバランスシステムがなければ、必然的に腐敗するのが官僚制だということです。
儒教は、純粋な姿で日本人の生活や思想面に影響を与えたわけではありませんが、
ただ位牌などは、儒教の死生観が仏教に溶け込んだものであったりしますし、
法事なども、儒教の影響を受けていますし、
変則的とはいえ、日本の習俗、価値観、社会制度にまで、深層的な影響を及ぼしているものですから、
それらの由来を知るという点では、このような儒教理解も必要になってくるものと思われます。
もともと位牌は仏教によるものではなくて、儒教の考え方に基づくものでした。
「位牌」は、「位を記した牌(札のこと)」で、
由来は儒教にあるとする説が一般的です。
儒教の儀礼用具として、
死者の官位・姓名を書く霊牌である、
「神主:(招魂再生のための依り代)」
というものがあるのですが、これが「位牌」の原型だとされています。
位牌では、官位・姓名の代わりに「戒名(仏の世界での名)」を記します。
江戸時代、「戦国時代、大名並みの力を持っていた寺院勢力の力を削ぐ必要がある」と考えた幕府から
「葬祭と戸籍事務だけやっておけ!」
と言われた寺は、
そもそも葬祭は寺院の仕事ではないため、
どうやってやったらいいのかわからなかったのかもしれません。
だから、儒教の儀式から多くの作法を取り入れたのかもしれません。
献花や燈明、線香、墓なども、儒教に起源があるという説もあります。
(日本の庶民が墓を建て始めたのは江戸時代中期辺りからだと言われています)
前述のように儒教では、
人は魂(精神)と魄(肉体)から成り立ち、
生きている間はこれが一体となっているけれども、
死ぬと分離し、魂は天上(雲)に、魄は地下に潜ると考えます。
つまり、この世界に死者は、形は変われど、まだいると考えます。
そして、子孫が祭祀を行い、招魂すると魂と魄が再び共存し、再生すると考えます。
魂は天上にいるので、誰も盗んだりはできませんが、
魄(ようするに骨)は、
盗まれる可能性があるため、子孫がそうされないよう管理する必要があります。
でないと、再生できませんから。
そこで、魄の管理施設が必要となるわけですが、儒教ではそれを「墓」というわけです。
また、魂を呼び戻す際に、目印が必要となると考えて、依り代としての神主(つまり位牌の原型)を設けます。
招魂する際には、線香を焚いて、煙によって、依り代への道筋とし、墓に酒をかけて、魄も呼び戻し、魂魄の再度の一体化を図ります。
こうすることによって、先祖はまた子孫と会話ができると儒教では考えるわけですが、
その後はまた、魂魄は分離し、天と地に戻っていくと信じているようです。
このような儀式は子孫が行うため、子孫が絶えると再生できなくなるため、
子孫繁栄が必要、そして、子孫が安心して暮らせるためには、政治がしっかりしていないといけない、
だから、
「政治が第一、そのためには、科挙に合格した徳あるものが官僚にならなければならない。」
という、
魂魄再生の話から始まって、
最終的には「政治学・行政学」的結論となります
よって「政治・行政よければ全てよし。そのためには科挙だ!」となって、
あまり魂のことには触れず、「怪力語らず」となるわけです。
仏教では、死者は解脱していなければ、
輪廻転生し、どこかで生活しているため、
魂を呼び寄せて、復活させたりすることはできないと考えるため(なお輪廻は方便であるとする派もあります)、
霊の依り代(依り憑かせる対象物)も必要ないとするのが本来的な考え方だと思われます。
このように考えると依り代は仏教の考え方と相容れないことになります。
なにしろ、現世は地獄よりもよろしくないところ、迷いのバーチャルな世界と仏教的には考えたりしますので、
依り代を作って、迷いの世界に招魂再生させるなんてとんでもないこととなりますし、
輪廻すると現世とは完全に断絶されると考えるので、そもそも招魂再生は不可能で、
また、中陰(四十九日・中有・バルト:生と死・陰と陽の狭間・転生する猶予期間)が過ぎると、
死者と現世に生きる者との縁は切れるとするからです。
ですので、位牌も墓も墓参りも、先祖供養も、祖先崇拝も、本来仏教的なものではないということになります。
(仏舎利は仏教でも重視されますが、それは偉大な釈迦に対する敬意を表し、神聖化しているものであって特別なものです)
なので、それらは全て招魂再生のための、
もともと儒教的なものであって、
それらが仏教と習合され、さらに、日本古来のアニミズム思想とミックスされたと考えてよいのではないかと思います。
先述した先祖供養を続けるという儒教の習わしは盆の考え方にも通ずるもので、盆も本来儒教の考え方に基づくものと考えてよいことでしょう。
「盂蘭盆経という仏教経典に基づくものでは?」という考え方もありますが、
盂蘭盆経は偽経(インドに原典がなく中国で作り出された経)だと一般にいわれています。
仏教伝来時、穏やかに中国内において、仏教を布教するために、
(儒教や道教との敵対を避けるために)
儒教の民間信仰との習合を目指して、このような偽経が作られたのではないかと考えられています。
墓や位牌を作り、墓参りや先祖供養をしたりするのも同様、仏教と儒教との習合と考えてよいものだと思います。
(なお、個人的には由来や理由、形式がどうであれ、歴史を紡いで今に繋げた先祖を敬い感謝の念を捧げることは尊いことだと思っています)
こうして、中国において変容した仏教が日本に伝えられ、
また、それが日本古来のアニミズム思想ともマッチしたため、
日本の習俗として定着するに至ったものと思われます。
参考文献)