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禮の達人、孔子出現の予言。左伝昭公七年。魯国の孟僖子は禮は人の幹なり。禮無ければ以て立つ無し。として吾は聞く将に達者有らんと。孔丘と曰う。としました。之は17年後の予言だと言われています。まだ孔子は17歳ぐらいとされているからです。彼の子の猛懿子は論語で孝を問う問答が残っています
孔子は昭公と共に国外に去ったのか。左伝昭公二十五年。貝塚茂樹さんによればこの年孔子36歳。昭公と共に斉国に去ったとします。しかし、白川静さんはまだ若輩の孔子は魯国の重職にないので君主の従臣として随行するはずがないとします。孔子が斉国にいたことは確かですが、この時なのか疑問です。
季平子の時代。左伝昭公二十五年。季平子は天子にしか許されない禘の祀りを行い諸侯の怒りを買います。論語にある八佾の舞を行ったのです。魯国の君主である昭公も激怒したでしょう。季平子の自宅を襲撃し、逆襲された昭公は、国外追放となり七年後異国で亡くなります。魯国は七年間、空位となるのです
政在季氏三世。魯君喪政四公。左伝昭公二十五年。論語でも、禄之去公室五世、政逮於大夫四世。とあります。季文子、季武子、季平子の時代に政権が奪われ、宣公、成公、襄公、昭公は民を失ったとされています。周王朝の礼制に於いて無礼非道のものとされますが、時代は季氏すら下剋上の餌食となります。
文王の九徳。左伝昭公二十八年。心能制義。曰度。徳正應和。曰莫。照臨四方。曰明。勤施無私。曰類。教誨不倦。曰長。賞慶刑威。曰君。慈和徧服。曰順。擇善而従之。曰比。經緯天地。曰文。文王は無私無欲の義の心で天地和合の文徳を万物万民に施すと共に法度と刑威により信賞必罰を明らかにします。
季武子の時代。左伝。近隣の小国邾国、莒国が国境を侵すようになると季武子は兵権と課税権を公室から剥奪し三桓のものとしました。兵の機動力をあげようとしたのでしょう。更に大国斉国まで国境を侵すようになると盟主晋国が動き、平陰の大戦となったのです。これで魯国の国益は守られたのです。