固定された記事
晋国の覇業三代。左伝。晋の文公、襄公、悼公の三代では晋国が覇となったとはっきり明文化されています。特に成公十八年の悼公即位の時は身寄りのない老人を恵み、困窮者を救い、税を軽減し、民を農閑期に使うという徳治政治の模範的政策が書かれています。戦争に勝つ事が覇業ではない事が明らかです。
左伝の書法。敗績を書して勝利とは書かない。戦いの結果、左伝の経文にあるのは、敗績の二文字です。負けたのは何故かを問うのが左伝の書法です。戦勝で安直な英雄主義を鼓舞しないのでしょう。ここに勝利至上主義ではない興亡の理を問いているのでしょう。戦争を美化しないリアリズムに徹しています。
城濮の戦。晋の勝利は武の勝利ではなく文の勝利である。左伝。一戦而覇、文之教也。民に義、信、禮を教化して民力を教化した事、敵の楚王をして文にして礼有り、敵す可からずと言わしめた事、殺意を抱く子玉は剛にして無礼と悪評紛々であった事です。戦闘行為の勝利は国の勝利ではないのです。
城濮の戦。楚の成王の判断は正しかった。天の味方する礼と徳のある人と敵対してはならないとする予言通り楚は敗績するのです。左伝を読む限り城濮の戦いで晋の文公率いる連合軍が勝利したのは徳と禮のおかげであって武力だけの蛮勇ではないのです。軍事だけで覇を唱えるのは禮徳を無視した覇道政治です
楚の子玉の殺意。左伝僖公二十三年。では何故楚は晋と戦う羽目になったのか?それは子玉が文公を殺す可きだと文公の流亡時代から言い続け、城濮の戦いに於いても楚王は天徳のある人と敵対してはならないと言ったにも関わらず兵を動かして王の怒りを買い、少数の兵を与えたられただけだったのです。
楚の成王、晋の文公の徳を賞賛する。左伝僖公二十三年。城濮の戦で晋に敵対したはずの楚王は文公の流亡時代から文にして礼有りと賞賛していました。天将に之を興さんとす。天に違えば大咎有りとして丁重に送ったのです。文公も城濮の戦に於いて楚に贈送の恵有りとしてその恩を忘れなかったのです。