墨子 巻三 尚同上(原文・読み下し・現代語訳)「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠
《尚同上》:現代語訳
子墨子が語って言われたことがある、『古代に民衆が始めて生まれ、まだ刑法による政治がなかったとき、思うに、それぞれの人の語ること、人ごとに正義の定義を異にしていた。このことからすれば、一人なら一つの正義の定義、二人なら二つの正義の定義、十人なら十の正義の定義があり、その民衆が多ければ、その唱える正義の定義も多かった。このせいで人ごとに自分の正義を是とし、他人の正義を非とした。それで互いに相手の意見を非とした。』と。このようなことで、父子兄弟は互いに怨悪の気持ちを持ち、家族は離散して互いに和合することはなかった。天下の百姓の、皆は水攻め、火攻め、毒薬などで互いに損ない、労働力に余裕があっても互いに助け合うことはなく、食料に余裕があり腐敗させることがあっても互いに分かち合うこともなく、より良い方法を知っていても隠して互いに教えないようなことになり、天下の乱れることは、禽獣の世界のようであった。
さて、天下がこのように乱れる理由を明らかにすると、それは政治に長がいなかったことによる。このため、天下の賢者の中から長に相応しい者を選び、推挙して天子とした。天子は立ったが、その能力をもってしてもまだ足りないとして、また、天下の賢者の中から相応しい者を選び、この者を推挙して高官に置き三公とした。天子と三公はこのように立ったが、天下は広大であって、遠い国や異国の住民のこと、物事の是非や利害の争議の弁論、政治を分かち合ってもすべてを明確に知ることは出来ず、それで天下の万国を区分けして諸侯国君を立てた。諸侯国公はこのように立ったが、その能力をもってしてもまだ不足として、また、その国の賢者の中で相応しい者を選択し、推挙して官吏に置き邑の正長とした。
邑の正長はすでに着任し、天子は政令を天下の百姓に発布して、告げて云うには、『善行を行い、また、不善を行うことを聞いたならば、皆は、それを上の者に告げよ。上の者が是とすることがらは、必ず皆はこれを是とし、非とすることがらは必ず皆はこれを非とせよ。上の者に過誤が有ればこれを諫め正し、下の者に善行があればこれを推挙せよ。上の者に皆が同調することを行い、下の者が、皆が上の者に同調することを批難しないのなら、これは上の者の褒賞することであり、下の者の誉められることがらである。』と。思うに、もし、善行を行い、また、不善を行うことを聞いて、それを上の者に報告しないのならば、上の者が是とすることがらを是とすることが出来ず、上の者が非とすることがらを非とすることが出来ない。上の者に過誤があるのに諫め正すことをせず、下の者が非難だけして上の者から皆が同調することを行うが出来ないのならば、これは上の者が下の者を罰することがらであって、また、その下の者が上の者を批難だけすることは百姓全体の利害を損ねることがらである。上の者がこのようなやり方で賞罰を行うことは、非常に明解明瞭であり誤りがない。
このような理由で里長は里の仁人である。里長は政令を里の百姓に発して、告げて云うには、『善行を行い、また、不善を行うことを聞いたならば、皆は、それを郷長に告げよ。郷長が是とすることがらは、必ず皆はこれを是とし、非とすることがらは必ず皆はこれを非とせよ。お前たちの不善の発言を止め、郷長の善言に学び、お前たちの不善の行いを止め、郷長の善行に学べ。』と。郷はどのような理由で乱れるのだろうか。郷が平穏に治まる理由を察するに、それはどうしてだろうか。それは郷長によりひたすら上手に郷を一つに同調し、それにより郷は平穏に治まるのだ。
郷長は郷の仁人である。郷長は政令を郷の百姓に発して、告げて云うには、『善行を行い、また、不善を行うことを聞いたならば、皆は、それを国君に告げよ。国君が是とすることがらは、必ず皆はこれを是とし、国君の非とすることがらは必ず皆はこれを非とせよ。お前たちの不善の発言を止め、国君の善言に学び、お前たちの不善の行いを止め、国君の善行に学べ。』と。国はどのような理由で乱れるのだろうか。国が平穏に治まる理由を察するに、それはどうしてだろうか。それは国君がひたすら上手に国を一つに同調し、それにより国は平穏に治まるのだ。
国君は国の仁人である。国君は政令を国の百姓に発して、告げて云うには、『善行を行い、また、不善を行うことを聞いたならば、皆は、それを天子に告げよ。天子が是とすることがらは、必ず皆はこれを是とし、天子の非とすることがらは必ず皆はこれを非とせよ。お前たちの不善の発言を止め、天子の善言に学び、お前たちの不善の行いを止め、天子の善行に学べ。』と。天下はどのような理由で乱れるのだろうか。天下が平穏に治まる理由を察するに、それはどうしてだろうか。それは天子がひたすら上手に天下を一つに同調し、それにより天下は平穏に治まるのだ。
天下の百姓が皆、天子に同調しても、天に同調しなければ、災い事は排除できない。今、天に疾風や霖雨が激しく襲来するのは、それは天が、百姓が天に同調しないことを罰しているからなのだ。
このようなわけで子墨子が語って言われたことには、『古代の聖王は、五種類の刑罰を制定し、それをもってその国の民を治めた。これを例えれば、巻糸に引き出す糸口があり、引き網に引き寄せる綱があるように、五種類の刑罰は天下の百姓がその上の者に進んで同調しないのを、すべてを取り込む方法なのだ。』と。
注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。
《尚同上》:原文
子墨子言曰、古者民始生、未有刑政之時、蓋其語人異義。是以一人則一義、二人則二義、十人則十義、其人茲衆、其所謂義者亦茲衆。是以人是其義、以非人之義、故交相非也。是以内者父子兄弟作怨悪、離散不能相和合。天下之百姓、皆以水火毒薬相虧害、至有餘力不能以相労、腐臭餘財不以相分、隱匿良道不以相教、天下之乱、若禽獣然。
夫明虖天下之所以乱者、生於無政長。是故選天下之賢可者、立以為天子。天子立、以其力為未足、又選擇天下之賢可者、置立之以為三公。天子三公既以立、以天下為博大、遠國異土之民、是非利害之辯、不可一二而明知、故畫分萬國、立諸侯國君、諸侯國君既已立、以其力為未足、又選擇其國之賢可者、置立之以為正長。
正長既已具、天子発政於天下之百姓。言曰、聞善而不善、皆以告其上。上之所是、必皆是之、所非必皆非之、上有過則規諫之、下有善則傍薦之。上同而不下比者、此上之所賞、而下之所誉也。意若聞善而不善、不以告其上、上之所是、弗能是、上之所非、弗能非、上有過弗規諫、下有善弗傍薦、下比不能上同者、此上之所罰、而百姓所毀也。上以此為賞罰、甚明察以審信。
是故里長者、里之仁人也。里長発政里之百姓。言曰、聞善而不善、必以告其郷長。郷長之所是、必皆是之、郷長之所非、必皆非之。去若不善言、学郷長之善言、去若不善行、学郷長之善行。則郷何説以乱哉。察郷之所治者何也。郷長唯能壹同郷之義、是以郷治也。
郷長者、郷之仁人也。郷長発政郷之百姓。言曰、聞善而不善者、必以告國君。國君之所是、必皆是之、國君之所非、必皆非之。去若不善言、学國君之善言、去若不善行、学國君之善行。則國何説以乱哉。察國之所以治者何也。國君唯能壹同國之義、是以國治也。
國君者、國之仁人也。國君発政國之百姓。言曰、聞善而不善。必以告天子。天子之所是、皆是之、天子之所非、皆非之。去若不善言、学天子之善言、去若不善行、学天子之善行。則天下何説以乱哉。察天下之所以治者何也。天子唯能壹同天下之義、是以天下治也。
天下之百姓皆上同於天子、而不上同於天、則菑猶未去也。今若天飄風苦雨、溱溱而至者、此天之所以罰百姓之不上同於天者也。
是故子墨子言曰、古者聖王為五刑、請以治其民。譬若絲縷之有紀、罔罟之有綱、所連收天下之百姓不尚同其上者也。
字典を使用するときに注意すべき文字
尚、曾也。曾、重也。 皆積累加高之意。重ね合わせ高めるの意あり。
茲、此也。 ここ、これ、の意あり。
二、分而爲二。 わかつ、の意あり
比、 批、同音異字、ひはん、の意あり。
《尚同上》:読み下し
子墨子の言いて曰く、古に民の始めて生れ、未だ刑政有らざる時、蓋(けだ)し其の語ること人ごとに義を異にす。是を以って一人なれば則ち一の義、二人なれば則ち二の義、十人なれば則ち十の義あり、其の人の茲(ここ)に衆(おお)ければ、其の所謂(いわゆる)義なるは亦た茲(ここ)に衆(おお)し。是を以って人ごとに其の義を是(ぜ)とし、以って人の義を非とす。故に交(こもご)も相非とするなり。是の以って内には父子兄弟は怨悪を作し、離散して相(あい)和合(わごう)する能はず。天下の百姓の、皆は水火毒薬を以って相(あい)虧害(きがい)し、以って餘力有るも、以って相(あい)労(いたわ)ること能はず、餘財(よざい)は腐臭(ふしゅう)するも以って相(あい)分(わか)たず、良道(りょうどう)を隱匿(いんとく)し以って相(あい)教(おし)へざるに至る、天下の乱、禽獣(きんじゅう)の若(ごと)く然り。
夫れ天下の以って乱るる所のものを明らかにするに、政長(せいちょう)の無きに生ず。是の故に天下の賢(けん)にして可(か)なる者を選び、立てて以って天子と為す。天子を立つも、其の力を以っても未だ足らずと為し、又た天下の賢をして可なる者を選擇(せんたく)し、之を置立(ちりつ)して以って三公と為す。天子三公は既に以って立つも、天下は以って博大(はくだい)と為し、遠國(おんこく)異土(いど)の民、是非(ぜひ)利害(りがい)の辯、一を二(わか)つも而(しかる)に明知す可からず、故に萬國を畫分(かくぶん)し、諸侯國君を立つ。諸侯國君は既已(すで)に立つも、其の力を以って未だ足らずと為し、又た其國の賢にして可なる者を選擇(せんたく)し、之を置立(ちりつ)して以って正長(せいちょう)と為す。
正長は既已(すで)に具はり、天子は政(まつりごと)を天下の百姓に発して、言いて曰く、善をなす而(ま)た不善をなすを聞かば、皆は以って其を上に告げよ。上の是(ぜ)とする所、必ず皆も之を是(ぜ)とし、非(ひ)とする所は必ず皆も之を非とせよ。上に過(あやま)ち有れば則ち之を規諫(きかん)し、下に善有れば則ち之を傍薦(ぼうせん)せよ。上が同をなすも而(しかる)に下が比(批判)せざるは、此れ上の賞(しょう)する所にして、而して下の誉(ほ)むる所なり。意(おも)ふに若し善をなし而た不善をなすを聞き、以って其(その)を上に告げずは、上の是(ぜ)とする所を、是とするは能はず、上の非とする所を、非とするは能はず、上に過ち有るも規諫(きかん)せず、下に善有るも傍薦(ぼうすい)せず、下は比して上は同をなすこと能はずは、此は上の罰する所にして、而(ま)た百姓を毀(そこね)る所なり。上の此を以って賞罰を為すこと、甚(はなは)だ明察(めいさつ)にして以って審信(しんしん)なり。
是の故に里長(りちょう)は、里の仁人なり。里長は政(せい)を里の百姓に発して、言いて曰く、善をなす而(ま)た不善をなすを聞くは、必って以って其を郷長(りちょう)に告げよ。郷長の是(ぜ)とする所、必ず皆もこれを是とし、郷長の非(ひ)とする所、必ず皆も之を非とせよ。若(なんじ)の不善の言を去りて、郷長の善言に学び、若(なんじ)の不善の行を去りて、郷長の善行に学べ。則ち郷は何の説ありてか以って乱れむや。郷(さと)の治むる所を察するに何ぞや。郷長は唯(ただ)能く郷の義を壹同(いつどう)し、是を以って郷は治まる。
郷長は、郷の仁人なり。郷長は政(せい)を郷の百姓に発して、言いて曰く、善をなす而た不善をなす者を聞かば、必ず以って國君に告げよ。國君の是とする所、必ず皆もこれを是とし、國君の非とする所、必ず皆も之を非とせよ。若(なんじ)の不善の言を去り、國君の善言を学び、若(なんじ)の不善の行を去り、國君の善行を学べ。則ち國は何の説ありてか以って乱れむや。國の治むる所以(ゆえん)のものを察するに何ぞや。國君は唯能く國の義を壹同(いつどう)し、是を以って國は治まる。
國君は、國の仁人なり。國君は政(せい)を國の百姓に発して、言いて曰く、善する而(ま)た不善せずを聞けば。必ず以って天子に告げよ。天子の是(ぜ)とする所、皆も之を是(ぜ)とし、天子の非(ひ)とする所、皆も之を非とせよ。若(なんじ)の不善の言を去り、天子の善言に学び、若(なんじ)の不善の行を去り、天子の善行を学べ。則ち天下は何の説によって以って乱れむや。天下の治まる所以(ゆえん)のものを察するに何ぞや。天子は唯能く天下の義を壹同(いつどう)し、是を以って天下は治まる。
天下の百姓は皆天子に上同(じょうどう)すれども、而(しか)し天に上同せざるば、則ち菑(わざわひ)は猶(なお)未だ去らず。今、天の飄風(ひょうふう)苦雨(くう)の、溱溱(しんしん)として而して至る若(ごと)きは、此れ天が百姓の天に上同(じょうどう)せざるを罰する所以(ゆえん)なり。
是の故に子墨子の言いて曰く、古の聖王は五刑を為(つく)り、請(まこと)に以って其の民を治めむ。譬へば絲縷(しる)に紀(き)は有り、罔罟(もうもう)に綱(こう)は有るが若(ごと)き、天下の百姓が其の上に尚同(しょうどう)せざるを連收(れんしゅう)する所なり。