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北朝天皇の正統性について

 わが国では戦前に南朝正統論が「政治決着」されて北朝の天皇が否定され、戦後の歴史学界では北朝の年号を用いるなどデ・ファクトの存在としては北朝の天皇が認められているものの、歴史学者が戦前の南朝正統論を批判することは「政治的中立性」を口実に行われていないようである。
 では政治的に色のついている皆様はどうかというと、保守派の間では南朝正統論が主流であり、左側は南朝と北朝のどちらが正統かには興味がないようである。
 その結果、未だに政府は歴代天皇から畏れ多くも北朝の天皇を排除しており、今上陛下が「後光厳天皇」の事績に触れるなど北朝の天皇の正統性を認める立場を鮮明にしておられるにもかかわらず、政府もマスコミもスルーしていることは以前にも述べた。
 だが、北朝の天皇を歴代から排除することは、次の二つの問題を無視しているといえよう。
 第一に、これは歴史学上の話として、そもそも歴代天皇の全てが天皇として即位していたわけではない。それを後世の政府が明確な基準もなくある天皇は歴代に数えて別の天皇は歴代に数えないというのは、本来歴史学を志すものであれば批判するべきことではあるまいか。
 第二に、これは思想上の話として、天子が同時代に一人しかいないという思想が本当に正しいのか。むしろ我が国の歴史を本当に顕彰したいのであればかかる思想は有害無益であると、私は考えるのである。
 この2点についてやや詳しく論じさせていただきたい。
 まず第一の点であるが、そもそも神武天皇の御代に「天皇」なる称号があったと言っている歴史学者は、神武天皇実在論者を含めて皆無である。
 さらに、歴史上は天皇号が追号される例も存在しており、こちらは明確に天皇に即位した事実はない。
 つまり、歴代天皇とは必ずしも「天皇として即位した天皇」を指すのではない。ただ、奈良時代以降に天皇が追号された場合においては今の政府は歴代に含めていないが、一方で政府は明治時代に追号された弘文天皇や淳仁天皇は歴代に含めている。
 こういうと、弘文天皇はともかくとして淳仁天皇が即位の儀式を行ったのは歴史的事実ではないか、という意見があるかもしれない。
 しかし、それを言うと北朝の天皇も即位の儀式を行っているのであり、これはダブルスタンダードである。
 また北朝の天皇が三種の神器を持っていなかったことを問題視する者もいるようであるが、神武天皇の御代から即位の儀式に三種の神器を使っていたかは疑問であるし、少なくとも後鳥羽天皇は明確に三種の神器無しで即位した天皇であり、三種の神器無しで即位したという理由で歴代から削除するのもダブルスタンダードである。
 畏れ多くも陛下についてダブルスタンダードを政府が弄ぶことは不敬であるが、何よりも歴史学者は政治的中立性を本当に唱えるのであれば、学問的根拠皆無な政府のダブルスタンダードに追従してはならないであろう。政府見解の範囲内で学問をするというのであれば、戦前の反省を何らしていないということである。
 さて、私はなるべく文体において自分が尊皇家であることを疑われないように書いたつもりであるが、ネトウヨとかいう人種は私の文章を読んで「こいつは歴史学の成果を用いて尊皇精神を否定しようとしているに違いない」等と邪推しかねない。
 言うまでもなく私は超保守派であるが、そもそも尊皇思想は歴史学の検証に耐えられないような虚構の上に立つ思想ではないと信ずるのである。
 そこで第二の点に移るが、古代中国においては天子は世界に一人しかいないという思想があり、それが日本にも輸入されて、天皇陛下が万世一系であることが賞賛された。
 しかし、中世以来現代に至るまで「中国では王朝交代が起きているが、日本では万世一系であるから、日本のほうが素晴らしい」等という戯言を述べている者がいる。
 そもそも天子の権威は一国にだけ及ぶものではなく、他国にも及ぶべきものであり、だからこそ中国は他国の天子が皇帝を名乗ることを(原則としては)許さなかったのである。
 だから「天子は唯一の存在である」という思想と天皇の万世一系を賞賛する思想とを両立させようと思うのであれば「中国の歴代王朝の天子はすべて偽物である」と高らかに宣言せねばならない。果たして尊皇思想とはそのような中二病患者の戯言なのであろうか?
 実際には当の中国において、漢の高祖は匈奴の単于を兄として自らを弟とし、それを先例として諸葛孔明は呉の皇帝の即位を認めたのである。
 歴史的事実として天子を名乗る者が複数存在しえたわけであるが、思想的にもそのありのままを受け入れないといけない。仮に国粋主義者が我が国の天皇のみを唯一の天子として中国の天子をすべて偽物としたならば、どうして畏れ多くも本物の天子たる天皇陛下が偽物の天子たる中国の皇帝を参考としたのか、皆目説明がつかなくなる。
 日本も中国もどちらの天子も正統であると考えれば、正統な天子が正統な天子を参考になさるのは何の問題もない。
 また仮に天子の権威を一国だけに及ぶものであると曲解しても、そういう論者は諸葛孔明を漢の天子の臣下でありながら呉の天子を承認した不忠の臣として糾弾しなければ筋が通らなくなるが、そのような思想に果たしてどれだけの意味があるというのか。
 天子は世界に一人であることが「望ましい」が、残念ながらそうではない現象が現れることもあるのがこの世である、というのが一番穏当な思想であろう。
 またこれを応用すると、追号された天子(日本の天皇にも中国の皇帝にも例がある)は「天命を受けていながら即位ができなかった天子」であると解釈できる。
 そのように解釈して初めて、神武天皇以来今上天皇に至る全ての天皇陛下を天子であると見ることが出来るのであり、歴史的事実と矛盾せずに尊皇思想を唱えられるのである。
 そうしてみると、北朝の天皇は仮にその即位の事実が南朝正統論の言う通り無効なものであったとしても、今上陛下を含む後世の歴代天皇によって天皇として認められ祭祀されている時点で、正統な天皇なのである。
 以上の2点を前提とした上で、そもそも北朝の天皇の即位にも正統性があったことを述べる。
 北朝初代の光厳天皇は後伏見上皇の院宣によって即位し、二代目の光明天皇は光厳上皇の院宣によって即位し、三代目の崇光天皇は光明上皇の院宣によって即位した。院宣による即位を否定しては、後鳥羽天皇をはじめとする天皇の正統性を否定する論となる。
 北朝四代目の後光厳天皇は広義門院の院宣によって即位した。女院は上皇に准ずる存在であり、これも即位の正統性を否定するものではない。北朝五代目の後円融天皇も後光厳天皇の譲位によって即位したのであるから、その正統性を否定することは出来ない。
 このように悉く有効に行われた即位を後世の者が無効であると主張することは、却って尊皇思想を毀損するものである。尊皇思想は歴史的事実に基づかない砂上の楼閣であってはならないのである。


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HINO
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