傲慢であることは人間の可能性を低く見積もること 謙虚であることは人間の可能性の広さを信じること。自分はこのように解釈している 希望が見えない社会で人間の可能性を信じ続けられるか? どれだけ歴史・伝統・文化が優れていてもそれらを使いこなす人間を信頼できるかが一番重要ではと思う
人間を見限りきるのは死んだ後でいいと自分は思っている 生きているうちは人間の可能性を信じて生きていく 多くの先祖の次世代を思う心、慈愛の意志の先端に今の自分はいる 無限に近い不屈の意志を曲げてよいという理屈は存在しえない 今この世にいるのならば、その感謝と役割を果たしていく
肯定することよりも、論破したり上げ足を取ったりする方が簡単である。人間は全生物の中で唯一しょうもないつまらないことで生き方を左右される 人間を見限る理由は山ほど出てくる、しかしそれは事実というよりもそのほうが楽だからではないかと思う つまらない生き方ではないものもある
量子力学では観測することで可能性の波が点に収束します。スポーツの世界を見ているとこれが明らかで、日本人選手が海外で活躍することが普通になってきました。最初の1人目が観測し、その後も観測されたこの状況は可能性の波から点に収束し「できるんだ」と子ども達が確信する状態になっています。
私は、AIを使いこなしつつ、利点と欠点を見極め、AIの限界とAIにない人間の可能性を考察していますが、AIの検索結果には、数は多くないものの、初歩的間違いがあり、人間は、その間違いに気づき、削除できる能力がなければなりませんが、専門が異なる故、判断に迷う問題に遭遇することもあり。
いま目に見えている者だけに基づいて未来を予想することは人間の可能性と成長を見落としているという点で全く道理にかなっていない 権力に対する理にかなった信念などはあり得ない。あるのは権力に対する屈服である。権力は現実的なものに思っている人は多いが歴史から見ればとても不安定なものだ
日本の絵師勢が「作画AI」を脅威と捉える理由の一つは、画風や作風を模倣される過程で作品が持つ作家自身の「身体性」を奪われると感じるからではないか。 しかし、機械の計算力が人間の創造性を超えることはない。 https://note.com/ouma/n/n3de679302a9d