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人間の可能性について|個人的な体験から考えたこと

大学の卒論を、卒業してから初めて読み返した。
書式のバラつきで読みづらかったり、専攻が何だったのか不明なくらいあちこちへ話が飛んでいたり、まぁ色々と未熟な内容だったが、考えていることは社会人経験を積んでからもずっと変わっていないと感じた。
暗いことを考える習慣を手放せないわけではない。だがふとした時に芽生える疑問には、時間をかけて答えを出したい。それは私の幸せだ。
そこで、ある体験について、現時点での考えをまとめてみたい。

知人に、小児性愛障害の傾向があるという人がいる。中学生の頃、面識のない他の児童に性的虐待をしそうになったらしい。
先日久しぶりに見たその人は、幸せそうだった。
学生時代は課外活動で部長を務め、元々人望の厚い方だったが、社会人になって始めた副業が軌道に乗り始め、充実した日々を送っているそうだ。

しかし、私はその人の成功を素直に祝福できなかった。
というのも分からなかったからだ。
私の知っているその人と本当に同じ人なら、なぜ何事もなかったかのように今生きているのか。いや、実は「何事もない」なんてことはなくて、本人も苦しみ続けているのだろうか。
いずれにせよ、その人はその人の人生を放棄することなく、生きていかなければならないのだ。

当時聞いた話によると、その人は両親含め、家族に過去の出来事を語ったことがないらしい。知っているのは、私ともうひとりの知人の二人だけ。ある時会話の途中で「まだ言っていない秘密がある」と切り出したので、「隠していないで話してよ」と言ったら、語り出した。
聞いた後、私は迷わずその人を責めた。「なぜ自分にその事を話したんだ。そういう事は一生胸の内にしまって墓場まで持っていくことだろう。ただ何もできない私に重荷を負わせただけだ。」するとその人は少し怒ってこう言った。「訊いたのはそっちだ。訊かれたから答えただけだ。」
確かに私は、隠し事はしないでほしかった。だがその人は、知った私がどう感じるか想像しなかったのだろうか?ずっと抱えてきた罪悪感から解放されたかったのか、「今のあなたは人の役に立って真っ当な生き方をしている。あなたは成長した。これまで1人で抱えてきて辛かっただろう」と慰めてもらえるとでも思ったのか。もしくは本当に何も考えておらず、成り行き任せで口にしたのか。
こうも言われた。「将来自分に子供ができたり、友人に子供がいたら、そういう目で見てしまうかもしれない」「だが自分の中では過去のことだ。あなたが傷つくようなことは絶対にしない。子供を産むか産まないかは自分達が決めていいことだ。最初から諦めるのは間違いだ。」
だが、信頼できる根拠は何もなかった。

当時私はその人との結婚を考えていた。
それは初めて内面的な話のできる相手だった。私自身親が殆ど働きに出ていて、面と向かって自分の話をできる環境で育たなかったこともあり、その人の存在は限りなく心強かった。私の性格の危うい一面にも気付いていて、それが「決して異常/正常の二択で測れないものであり、多かれ少なかれそうした傾向を持ったまま生きている人達はたくさんいて、その傾向が強いか弱いかの違いだけだ」と教えてくれたのは、他ならぬその人だった。なのに、いや、だからか。上記の話を聞いた時は騙されたような気持ちだった。結婚して子供を持つ選択肢を既に奪われたと思った。
その人のことは今でも嫌いにはなりきれないが、それを私に話した事とその伝え方に対しては、未だに心の中で整理しきれていない。

その時から私はずっと考えている。
一歩間違えれば他人への暴力へ発展する衝動を抱えた場合、行動に出る人とそうでない人の違いは何か。
踏み止まれる人はなぜそれができるのか。
一線を越えてしまう人はなぜそうなるのか。
もしそれが成長段階のことで、子供が今まで知らなかった自分の一面や、自分でも理解できない感情に気付いてしまったら、どうなるのか。それでも他人を傷つけず、法に触れず、幸せに生きていくにはどうすればいいのか。

ここからはまだ個人的な仮説に過ぎないため、中途半端な点もあることはご容赦いただきたい。

私は元々、加害者/加害者になる手前の人がいたら、酌量の余地があるかどうかは別問題としてまず背景を考えがちだ。現状に至るには、生まれてからその時点までその人の時間に関わったすべての人・物事が無関係ではないだろう。かといって今そう在ることを選択しているのは本人であるから、環境のせいにするだけでは何も前に進まない。
ならば、欲求そのものをどう捉えるべきか。

小児性愛障害に関しては、私が今までに調べたり知人から聞いたりした話を総合すると、原因をある程度特定できる後天的なケースと先天的なケースの両方があると思う。それは外的・内的ストレスの裏返しかもしれないし、そうでない場合もある。その事は他のあらゆる欲求にも当てはまるのではないか。
後者──先天性の場合、その衝動は普遍的な「方向性」の一種だと考える。明確な根拠があるわけではないが、本人にすら理由を説明できない感覚は確かに私の中にも存在するからだ。その欲求は理解されづらい。だが見て見ぬふりをするかそもそも気付いていないだけで、誰にでも「傾向」としてあると思う。つまり、いつどんなきっかけで覚醒するか分からないだけで、潜在性はある。問題なのはそれが在ることではなく、当人がそれを落ち着いて正しく理解する手段を持てなかった時の反応だ。向き合い方が分からず、かつその感情の向く先である相手を人として正しく認知できなくなった場合、犯罪に発展するリスクもあるだろう。

私が影響を受けた本に、ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムが書いた『悪について』という作品がある。
個人的な解釈をごく簡単にまとめると、「人間には善にも悪にも傾く可能性がある。それを自覚して初めて自立し、善に向かうことを選択できる」ということだ。それを知っているだけでまだ救いはある。だがそれができないと、次第に選択の自由を放棄し、善性と悪性のバランスを保てなくなる。

思うに、フロムがこの説を導いた背景にあるのは何らかの外的・内的要因のある症状であり、原因抜きに独立して存在する欲求については明確に書かれていない。ただ彼のいう「自覚」は、問題を考える上で参考になる。

仮に主体が子供の場合、成長過程で良識のある大人と共にその症状に向き合うことができれば幸いだ。他者を傷つけてしまう可能性も含めて自分の人格の一部として認識し、対策を考え、バランスを取って生きる訓練を積めるだろう。だがその機会を得られなかった時、特に家庭で保護者から過度に期待または執着されてきた場合には、それが欲求の直接の原因でなかったとしても、行動に出てしまいやすいのではないか。
自分にはある種の衝動が芽吹いている。しかしそれは言葉にしづらい感情で、自分でもうまく捉えられない。学校の義務教育の範疇では、それがどんな心理で、他者へ向けられた場合何が起き、どう飼い慣らせば共存できるものなのかまでは教えてくれない。同年代の友達にも、ばかにされるかもしれない。かといって家庭で口にしたら、周りの大人の中にある自分の良いイメージを破壊することになるから、認めてもらえなくなる恐れがある。そのため隠れて欲求を晴らす方法を探した結果、衝動が負のベクトルへ傾き、他者を害する行動へ発展するのではないか。さらにその記憶から立ち直れないまま大人になった場合、同じ行為を繰り返すかもしれない。

では、実際に今苦しんでいる人はどうしたらいいのか。

もし依存性があり自力でのコントロールが難しいならば、治療・再発防止プログラムの実績のある病院にかかって集中的に治療するという選択肢はある。認知行動療法や自助グループへの参加を通し、時間をかけて自分の中で起きていることを知るのは克服への一歩だと思う。
依存性はないが、未だに過去に何かしら罪の意識を抱えているならば、本気で考えて言語化するのはどうだろう。当時なぜそのような行動に出た/出そうになったのか、それが相手へどんな影響を与えたのか、今後そうならない保証はあるのか/どうすれば可能なのか。少なくとも徹底して考え抜くことができていれば、この記事の最初に書いたケースのように──何も知らない誰かに不用意に事実を伝えて傷つけることはないと思う。

それでもなお「黙っているわけにはいかない、誰かにわかってほしい」と感じるならば、それは感情的に救われたいということだ。
相手を選んで、「聞いてほしいだけだ。嫌われるかもしれないことは覚悟の上だ」と意図を伝えた上で話すのであれば、その後も関係を続けられるかもしれない。
それが難しい場合は、何らかの表現手段を使って昇華した方がいい。私はそれが芸術の可能性だと思う。去年公開された映画『怪物』は私の問いに少しだけヒントをくれた。

映画の終盤、登場人物のある少年と彼の小学校の校長先生が、学校で二人きりで話す場面。彼女は彼を音楽室へ案内し、トロンボーンを手渡して、吹き方を教える。少年の吹き方はわるくない。そこで彼は、誰にも言えなかったある想いを初めて口にする。校長先生はそれを受け止めたあと、ホルンを手に取って、息を吹き込む様子を見せながら言う。「誰にも言えないことはね」「ふーって」響き渡る、荒々しく哀しい咆哮のような2つの楽器の声。

この場面は何か決定的なメッセージをわかりやすい形で伝えてはいない。けれど、言葉にできない感情を代弁するものとして、音楽を描いていると思う。
本作には二人の少年が登場するのだが、彼らの親達はいずれも息子達を理解できない。一人は息子を異常者扱いすることで支配下に置き、日常的な暴力を正当化するわかりやすい加害者だが、もう一人は息子を深く愛するが故に、突然の変化を受け入れられずパニックに陥る。彼らに共通するのは、子供がなぜそう在るのかを問う前に、自分にとっての正常さを押し付けている点だ。
校長先生も途中まではそうした「視えていない」大人の一人に見えるのだが、実は彼女にも秘密がある。前述の場面で彼女が少年の話を受け止め、否定しなかったのは、そのせいだろう。

個人的な考えだが、基本的に芸術はその多くが、作者の何らかの報われない思いを別の形で表現したものだと思う。
作り手自身がそう意識しているかどうかにかかわらず、作品にしていく過程こそが、ある意味既に救済なのではないか。創造すること、つまり声をあげること。それは人に仕組まれた生存本能の一種だと感じる。
また他者への影響という点で考えると、仮にひとつひとつの作品がそれを作った誰かの嘆きを再生しているなら、きっとそれは別の誰かを救うためにも存在している。すべての芸術は鏡であり、自分の身に起きたことを理解する手がかり、理解して前に進むための道程だ。そうして世代や場所の隔たりを超えて助け、助けられ存続していけるよう、人はできているのかもしれない。
本題から少し外れてしまったが、自己表現の手段と場所があることは希望だ。芸術に触れること、自分の手で何かを創り出すこと。それはいつ始めても、全く遅くはない。

この記事を私は自分のために書いている。
心理・精神分析の専門知識に裏打ちされた分析ではないから、主観に寄っていて間違った点もあると思う。どこかでこれを読んでくれた当事者の誰か(加害者/被害者問わず)を傷つけてしまっていたら申し訳ない。

現時点で追究すべきことはまず3つ。
他者を傷つけるリスクのある欲求のうち、
1.外的/内的ストレスに起因するもの(A)とそうでないもの(B)の違いは何か?
2.Bは自力で制御可能か?Yesの場合、どうすれば可能か?
3.エーリッヒ・フロムが『悪について』で定義した「退行の段階」の詳しい構造

これらについては今後きちんと検討したい。