人生の可能性について
投稿内容とは関係がない画像(いずれ関係してきます!)は、福岡県のとある公園に群生していたコツボゴケです。ふっかふっかで、つい仰向けになってる自分を撮影してもらうほどで。コケは一般的に湿度を好み、一方で水にずっと浸ると弱い種類も多いのですが、コツボゴケは水に浸っていても力強く繁殖できます。
さて、2025年が明けて、仕切り直しの投稿を開始してから今回でまだ4回目にして、「自分」の表現が固定化し始めている、なんて感じ始めています。この発信を読者の方々に「とにかく読んでいただきたい」という思いがまず第一にあるのですが、一方で書き手の気持ちとして、「ひとはこんなに振れられる」とか「人生で実現できる厚みのようなもの」も表現していきたいと思っているのです。「厚み」とはなにか?について、これは一元的、一意的には伝えたくないのですが、あくまで例えばの話、教育学的な見地(※)からの一例として、「クリエイティビティ (創造性)」という言葉には4つの誤解がある、と言われています。
①芸術的表現だと思われている
クリエイティビティという言葉に対する過小評価にも繋がっている誤解で、無論、ビジネスや日常とも結びついている。
②一部の人たちだけのものだと思われている
全く新しい発明やアイデア、美術館に収蔵されているアート作品にのみ使用すべきという考え方があるが、研究者たちは、こうしたクリエイティビティを「ビッグC」 (C reativity) と呼んでいて、一方で「リトルC」(c reativity) と呼ぶものもある。日常生活に役立つアイデアなど、自分にとって新しく有益であればよくて、誰しも「リトルC」で創造的になることが可能。
③洞察の閃きとして訪れるものだと思われている
アハ体験のようなものは創造的なプロセスのごく一部に過ぎない。多くの科学者、発明家、アーティストは、クリエイティビティは長期的なプロセスだと認識している。発明家トーマス・エジソン「創造性とは1パーセントの直感と99パーセント発汗(努力)の賜物である」。20世紀を代表する彫刻家であり、ミニマル・アートの先駆的存在でもあるコンスタンティン・ブランクーシ(ぼくが好きな彫刻家です。昨年アーティゾン美術館で展覧会がありました)は、「創造的であるとは、神からの稲妻に撃たれることではない。明確な意思と情熱(私見としてはそれが例えひっそりとした意思やまだ小さな情熱でも!)を持つということに他ならない。」
④教えることができないと思われている
クリエイティビティを育てることは可能であり、それは有機的でインタラクティブなプロセスで実現される。
今朝書き始めた時に、こんな話↑を書くつもりではなかったんですが(笑)、お伝えしたかったのは、「自分にはそんな人生無理だと思ったところから本当に無理になってしまう」ということでもあり、よい時期が訪れたり、一念発起したら、それは「いつでも始められる」のであって、「いつでも自分に厚みを持たせることができる」サポート材料(あくまで一例としてお伝えしたい)でもあるのです。ちなみに、ぼくはどんなリトルCを実現しているのか?についてお伝えすると、それは「生き方」だと思っています。おそらくほとんどの方が経験したことがない、幅のある生き方をしていると思っています。そのほうが良いとか悪いの話でもありません。それはまた追々垣間見えてくるのではと勝手に期待しています。
アートの世界を例に取った時(「アート」という言葉は広いので、ここでは「アーティスト」として生きていく場合)に、「アイコニック」であることは重要だと言われています。Sotheby'sを卒業して国内外でアートアドバイザーをしている知人も同様のことを言ってました。作品を見て、これは誰の作品か?というのが認識できると良いという考え方です。あながち誤りではないと思います。おそらく、文章の世界でも同様なのではと思います。そのほうが効率的でもあり、発信したいメッセージが伝わりやすいからです。ですから、そういったことは意識をしていきたいとも思いながら、一方で、アーティストが異なるシリーズ作品を発表すること(例えば、杉本博司の「海景」、「劇場」、「ジオラマ」、「蝋人形」、「観念の形」シリーズなど)もあるわけですが、むしろ俳優が幅広い役柄を演じることで役者としてのイメージの固定化を避けたいと考えることに近しいのですが、「自分」の表現には幅を持たせたい(「表現としての幅」という意味ではなく、あくまで「自分自身の表現」という意味です)、厚みや幅を持った自分としてアイコニックでありたいと強く思うわけです。わかりやすい例として、今やSNSも複数あって、サービスそれぞれに違いがあるので、その各々で均一な自分表現をしたくはないのです。人格が二重三重であるという意味ではなくて、「こんな自分もいる、あんな自分もいるという表現」をしたいのです。ですから、例えば自分の場合だと、Facebookで写し出される自分とInstagramで表現されている自分は、「裏表」ではなくて「これとこれ」的な横並びがあって、各々で異なる自分が表現されるよう意識して発信してきました。そして、それをさらに拡張していきたいと思っています。とりわけ、noteにおける自分には「こいつ、こんな考えもしてたのか、最悪!」という振れ幅すら持たせたいと思っているのです。ですから、ありがた〜い読者の期待を、良くも悪くも裏切ることがあるかもしれない!ということをここに宣言しておきます(笑)。
現実的に、読者の方々に定期的に、そして物理的に会うことって制限されてるわけじゃないですか。この投稿のコンセプトでもある「無作為的な寄り添い」にも関わりますが、ぼくの投稿を読んでもらうことで、「こんな生き方をしているやつがいる」とか「このひとって同一人物なの?ふしぎ〜」とか思ってくれて、そんな人間がこの世に、そしてここに存在して生き続けている、ということをぼくの拙い文章から感じてくれたら、それって「寄り添いの1つの形態」かなって思うんですよね。もともと書こうと思ってた内容から乖離してしまったから、おそらく次回に「名もなきおっさん」というペンネームへの思いを書き連ねたいと思いますが、そこにも関係してくるというか。「名があるひと」(ここでは著名人という意味です)は自分にとってどういう意味があるのかを、ふと考えてほしいというか。実は、「人生の可能性というものは、どれだけ自分自身が心底納得するような価値観を育てられるか、に依存している」と思うんです。そして、なんか知らないおっさんがここでつぶやいていて、そこにはあたたかさがあって、ちょっと暖を取れる、そんな存在でありたいとも思います。寄り添うと言いながら、そんな自分に付き合ってもらうことを強要しているなんて思われたくはないので、そういう承認欲求的なことは避けたいと思います(笑)。今回も読んでいただいてありがとうございます。また次回!
※ 出所:MITメディアラボのラーニング・リサーチ (学習研究) の教授などを務めるミッチェル・レズニック「ライフロング・キンダーガーデン 創造的思考力を育む4つの原則」