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小説あれこれ

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記事一覧

テッド・チャン「息吹」

21世期の最も重要な作家のひとり、テッド・チャン。「あなたの人生の物語」以来、17年(!)ぶり2冊目の短編集です。寡作にもほどがあるだろう、と言いたくなりますが、これだけ密度の濃い傑作が詰まった短編集はそうあるものではないでしょう。
卓抜な着眼点、論理的で明晰な文体、巧みな語り口によって科学の最新知見を元にした複雑な話もスムーズに読ませてしまいます。プロットによっては、シニカルになったりペシミステ

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イタロ・カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」

言葉の魔術師と評された、イタリアの作家、イタロ・カルヴィーノの最後の長編です。
カルヴィーノの長編は毎回趣向が凝らされているのですが、本作のそれはメタフィクションによる読書論。
こう書くとややこしく感じる方もいるかもしれませんが、彼の魅力的な語り口は難解さを感じさせません。
本作の書き出しはこうです。

<あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている

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中上健次「奇蹟」

優れた小説には、俗にまみれたものを聖なるものに、醜悪なものを美に変える力があることを再認識させてくれる大傑作。

若くして非業の死を遂げた極道、中本タイチの生涯を彼の後見だったトモノオジが回想する形式で書かれていますが、単純な振り返りではなく、独自の趣向が凝らされています。

かつては三朋輩のひとりとして、路地を取り仕切っていたトモノオジですが、現在の彼はアル中で隣町の病院に運びこまれており、

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森茉莉「甘い蜜の部屋」

森茉莉は言葉の名パティシエ。今回久しぶりに再読してつくづくと感嘆しました。

この小説は、父・森鴎外との蜜月の日々を、彼女が持てる限りの言葉の技巧を凝らしてつくりあげた、文庫版にして500頁以上に及ぶ、巨大なデコレーション・ケーキといえるでしょう、

主人公のモイラは父に溺愛されて育ち、魔性を秘めた女性に成長していきます。彼女は自分が美しく、愛される存在であることを本能的に覚っていますが、

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安部公房「方舟さくら丸」



コロナの時代に読む安部公房といえばこれでしょう。

建築用資材の地下採石場の洞窟に巨大な核シェルター設備を造り上げた、<ぼく>こと通称「もぐら」が、シェルターに「乗船」する許可証である、「生き残るための切符」を携え外出したとき、自分の糞を餌にして生きる昆虫「ユープケッチャ」が売られているのを発見します。

完璧な閉鎖系といえるユープケッチャの生態に魅せられた「もぐら」は、買い占めを図る

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中村邦生編「この愛のゆくえ」ポケット・アンソロジー

これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛
(松坂慶子「愛の水中花」より)

岩波文庫別冊で「ポケットアンソロジー」として発行された2冊のうちの1つです。

「愛」というテーマは魅力的でありながらも漠然としていますが、編者の中村さんは古今東西の作品を目配りよく取り上げて、未知の作家・作品に出合う喜びと、既知の作品を新たな視点から捉えなおすことができる愉しみを読者に提供してくれています。

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チェスタトン「新ナポレオン奇譚」

「ブラウン神父」シリーズで知られている英国の作家、チェスタトンの最初の小説。
写真では「チェスタトンの1984年」と大きく書かれているのは、小説の舞台が1984年のロンドンであるからだけではなく、私がもっているこの改装版が出たのが1984年であるからです。現在はちくま文庫版が入手しやすいと思います。

本作が執筆されたのは1904年なので、当時から80年後の未来が描かれているのですが、さて、チ

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ミシェル・トゥルニエ「メテオール(気象)」

この小説は、「卵形の愛」に充足していた双生児、ジャンとポールの物語と、彼らの叔父である、5つの町のごみ捨て場を支配する「ごみのダンディー」ことアレクサンドルの物語が、三人称の叙述と一人称の語りが交錯する形式で書かれています。

2つのテーマはほぼ並行して進行していきますが、この小説を序盤から中盤にかけて牽引するのはアレクサンドルの物語です。同性愛主義者の彼は、異性愛者は自然や道徳と一体化することで

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篠田一士「二十世紀の十大小説」

篠田一士は丸谷才一とも親交のあった評論家で、小説はもちろん、詩歌から批評に至る文学全般に広くて深い知識をもっていました。本書は1988年に刊行された長編評論で、質・量とも読み応えある一冊です。

世界文学のなかから10冊を選ぶという試みはモームの「世界の十大小説」が有名ですが、篠田のこの評論の主眼は、彼自らが生きた「二十世紀」の小説の独自性とはなにか、それまでの小説とはなにが異なるのかをつまびらか

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金井美恵子「柔らかい土をふんで、」

本作は金井美恵子さんの数ある作品の中でも、ひとつの極点に位置するものだと思います。冒頭の一文を途中まで引用します。

<柔らかい土をふんで、そうでなくてももともと柔らかいあしのうらは音など滅多にたてずごく柔らかなふっくらとして丸みをおびた肉質のものが何かに触れる微かな音をたてるだけなのだが、固いコンクリートや煉瓦の上や、建物の一階分だけ正面の壁と床にチェス盤のようにだんだらに張った灰色と黒の大理石

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マニュエル・プイグ「赤い唇」

映画化もされた「蜘蛛女のキス」が有名なアルゼンチンの作家、マニュエル・プイグの2作目となる長編小説。
発端は、ブエノスアイレスの月刊誌にフアン・カルロス・エッチェバーレという男性が29歳の若さで結核により亡くなったという記事が掲載されたことでした。その記事を読んだネリダ・フェルナンデス・デ・マッサという、現在は人妻となっている女性が、フアンの母に手紙を送ります。ネリダとフアンは10年前恋仲だったの

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筒井康隆『驚愕の曠野』

この長いながいお話、とうとうこんなに読んできてしまいました。・・・どうやら「おねえさん」が子供たちに読み聞かせをしているようです。ふむふむと肯いてページを繰ると、いきなり「第332巻」とあるのに驚かされます。どれだけ長いお話―それもようやく半分近くまでいったという長さ―を読んできたのでしょうか。しかも物語の舞台は荒涼とした世界で、登場人物は絶えず裏切りや暴力におびえ、巨大な蚊になやまされながら生き

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ウイルキー・コリンズ『月長石』



この小説についてよく引き合いに出されるのは、20世紀を代表する詩人(代表作は『荒地』ですが、現在ではミュージカル『キャッツ』の原作となった『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』の作者と紹介する方が分かりやすいでしょうか)であるT.S.エリオットによる「最大にして最上のミステリ」という言葉です。とはいえ、今となっては本作より長いミステリは多数あります。それに最上かどうかは人ぞれぞれとしかいいようが

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谷崎潤一郎『細雪』

谷崎潤一郎『細雪』

谷崎潤一郎はながらく「無思想の作家」と称されていました。これについては、いや『春琴抄』のように美に殉じる姿勢や、『痴人の愛』や『瘋癲老人日記』のようなマゾヒズム、フェティシズムだって「思想」と呼べるのではないか、と言い返すことができるでしょう。しかし、久々にこの『細雪』を読み返して思ったことは、無思想であるがゆえの傑作ではないか、ということでした。

大阪船場の旧家、蒔岡家の四人姉妹を主公として物

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