谷崎潤一郎『細雪』
谷崎潤一郎はながらく「無思想の作家」と称されていました。これについては、いや『春琴抄』のように美に殉じる姿勢や、『痴人の愛』や『瘋癲老人日記』のようなマゾヒズム、フェティシズムだって「思想」と呼べるのではないか、と言い返すことができるでしょう。しかし、久々にこの『細雪』を読み返して思ったことは、無思想であるがゆえの傑作ではないか、ということでした。
大阪船場の旧家、蒔岡家の四人姉妹を主公として物語は進んでいくのですが、終盤のクライマックスに向けて盛り上がっていくという構成ではなくて、絵巻物のように季節ごとのエピソードが並べられていくので、「作者はこれを言いたかったのだ」という主張は見えにくいものとなっています。一応、三女・雪子の縁談話がメインといえばいえるのですが、最後の最後になって結婚が決まるくだりも特に力がこもった筆致で書かれているとは思えないのですね。にもかかわらず、本作は無類に面白くて充実した読後感を与えてくれる作品になっているのです。
また、「源氏物語」にしばしば例えられることが多い本作ですが、必ずしも王朝的な「美」に溺れるような書き方はされていません。確かに花見や月見、蛍狩などのシーンは美しく描かれています。けれどもそれ以上に目立つのは健康や体調不良についての描写で、そもそも冒頭からして幸子がヴィタミンBの注射を頼むことから始まっていますし、最後は結婚が決まり上京することになった雪子の腹具合がおかしくなり、とうとう上京当日となっても下痢は止まらず、「汽車に乗ってからもまだ続いていた。」の一文で、中公文庫版で930頁に及ぶこの大作は終わるのです。他にも雪子の目のふちのしみや、自由な生き方の四女・妙子の死産なども年中行事と同じくらいの重みをもって扱われているのですね。単純な唯美主義ではないのです。
この小説のもつ豊かさは「王朝の美を現代に蘇らせ」たり、戦争に向かう時代背景の中、そこから屹立する美を提示した、といった単純なスローガンで収まるものではありません。中公文庫版の田辺聖子さんの解説の言葉を借りれば、『上方の「おんな文化」に目を開かされた』谷崎が、その持てる技術を尽くして「おんな文化」を表現した作品なのです。今回読み返して、他人の前では無口で、電話に出るのも嫌がる(そのおかげで縁談がひとつ破談になる)、そのくせ自分の主張は通そうとする「雪子」というのはめんどくさい人だな、とつくづく感じたのですが、田辺さんによると、「まさしくこれは大阪女の一典型」であって、「谷崎さんはいたく興をそそられ、渾身の力と愛着をこめて描いている。」というのですから、自分の器の小ささを自覚せずにはいられませんでしたねえ。初読の際は自由な生き方を模索する四女・妙子に共感しながら読んでいた記憶があるのですが、今回はもっぱら本家と、両極端な生き方の妹たちの間にたって苦労する幸子・貞之助夫妻にシンパシーをずっと抱きながら読んでいたのは年齢を重ねたせいでしょうか。
先日、私のタイムラインに「小説とは、作者の思想信条や問題意識を披露する場ではないし、溜め込んだ苦悩を吐露するための媒体でもない。具体性を積み上げることで自らの外側に広がる世界を照らし出し、作品という形で現前させる言語芸術なのだ」という文章が流れてきました。小説家の磯崎憲一郎さんの評論の一部だそうです。その定義の是非はともかく、『細雪』はまさにこの定義にぴったりとあてはまる、とびきりの小説といえるでしょう。さすがは「大谷崎」、と唸るしかありません。