中上健次「奇蹟」

優れた小説には、俗にまみれたものを聖なるものに、醜悪なものを美に変える力があることを再認識させてくれる大傑作。

若くして非業の死を遂げた極道、中本タイチの生涯を彼の後見だったトモノオジが回想する形式で書かれていますが、単純な振り返りではなく、独自の趣向が凝らされています。

かつては三朋輩のひとりとして、路地を取り仕切っていたトモノオジですが、現在の彼はアル中で隣町の病院に運びこまれており、巨大な魚のクエに自身が変化する幻想に苦しめられています。そのさなかにタイチの死が知らされ、トモノオジは幻想の中でタイチの生涯を回顧していきます。

さらに路地で生まれたほとんどの赤子の面倒をみた産婆である、オリュウノオバによる回想も加わるのですが、オリュウノオバはこの時点で
既に死んだ存在であり、トモノオジの幻想の中に現れて、彼と対話を重ねながらタイチの思い出を語っていくのです。

この夢幻能を思わせる語りの構成と、「トモノオジ」「オリュウノオバ」「タイチ」等、登場人物の名前が片仮名で記されていることが、中上ならではの濃密な文体とあいまって神話的な言語空間を織りなし、通常の価値観ではとうてい首肯できるものではないタイチの言動に輝きを与えています。

タイチは、かつて「千年の愉楽」で描かれた、
「高貴にして澱んだ」血統である中本の一族で、これまでの中本の一族同様、若くして滅びゆく運命の下に生まれていることを自覚しながらも生きていくのですが、こうした血のつながりによる運命の反復構造も、本作の神話的色彩を強めています。

極道の勢力争いや暴力などの描写が生々しく読者に迫ってくる一方で、先に述べた神話的言語空間により、「路地」の狭小な世界でのできごとが普遍的な世界観に高められている。このリアリズムと神話的要素がぎりぎりのバランスで両立しているのが本作の最大の魅力といえるでしょう。濃厚な小説で酔いしれたい方に、ぜひ手に取ってもらいたい作品です。

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