木澤佐登志 『終わるまではすべてが永遠 崩壊を巡るいくつかの欠片』 : その尊厳に賭けて抵抗せよ。
書評:木澤佐登志『終わるまではすべてが永遠 崩壊を巡るいくつかの欠片』(青土社)
この世界は病んでいる。一一そう書いても、異論を唱える人など、ほとんどいないのではないだろうか。
他人のことなど一切顧みず、自分の社会的な成功と富の蓄積しか考えていないような人間が、そのまま「成功者」として賛嘆され、競争社会からこぼれ落ちた人たちは、どこか見えない場所へと遺棄される。たまに、言い訳のようにそういう人たちに光が当てられても、私たちは「可哀想に」と感動消費したり、それをもっともらしく論評した自分に満足して、次の瞬間には、そうした人たちのことを忘れてしまう。
しかしこうした、すべてのものを「商品」と化してしまう資本主義社会は、今やそれ自身が「病んでいる」だけではなく、この地球環境の回復力をも凌駕して、地球環境そのものを不可逆的に破壊している。愚かにも私たちは、他の多くの生物を道連れにしての、自滅への道を着実に歩んでいる。一一これを、「病んでいる」と言わずして、一体なんと言おう? いや、「狂っている」と言った方が、より正確なのだろうか?
それにしても、そうした「病んだ世界=狂った世界」の中における「健康な人」とは、どういう人を指すのだろうか?
世界が病んでいるのであれば、その中の人間も病むのが自然なのか?
それとも、その病いに順応し、その病み崩れた異貌において、生きていくのが当然なのか?
だが、いずれにしろ、そうした「病んだ世界=狂った世界」に順応できない人は、決して少なくない。
「あんな姿になってまで生きていたくない。あれでは、人間として生きているとは、到底いえない」とそう考え、心や身体を病んでしまう人も少なくないのだ。健康な人間なればこそ、病んだ世界に順応できず、それへの拒絶反応として、病んでしまうという背理がここに存在する。一一そして本書著者は、そんな人の一人なのだ。
『何者かになることを強いられる時代に』と、ここで言うところの「何者か」とは、どのようなもののことなのか?
それは、この資本主義社会において「商品価値のある人間」のことだ。あるいは、人間を商品として売り捌く「奴隷商人」になることだろう。無論、前者と後者では、後者の方が断然「格上」ではあるけれども、どちらも資本主義という病いに侵されて、「人間以外の何者か」になった人たちだ、とは言えるだろう。彼らは、人間的な感情を捨て、「何者か」に変貌することで、この世界を生き抜いていく。言うなればそれは、「ゾンビ」であり「吸血鬼」みたいなものだ。見かけに大差はないのだが、その本質は、もはや人間ではなくなっているのである。
「ああなりたくはない」と思う人と、「早くああなって、楽になりたい」とそう願う人の、一体どちらが真っ当なのか?
一一しかし、ああなったとして、果たして私たちは、心底「幸福」になれるのだろうか?
「なれる」と思う人が、そうしたものへの変貌を望むのだろうが、実際にそうなった人の「本音」は、誰にもわからない。
仮に、「吸血鬼」や「ゾンビ」になってしまった人たちが、心の中では「堕地獄の苦痛」を感じていようと、もはや人間へと戻ることのできない身となってしまった彼らは、自分の「選択ミス」や、それによる「苦悶」を、正直に認めることはないだろう。彼らはきっと「私の選択は完全に正しかった。見てくれ、私はこんなにハッピーだ!」というようなポーズを、ことさらに誇示して見せることになるのではないだろうか。例えば、かのイーロン・マスクのように。
「どうして彼は、もう少し落ち着いて、穏やかに生きることができないのだろうか? 彼の心が満たされることなど、はたして本当にあるのだろうか?」と、私たちは、そう問うてみるべきであろう。
一方、本書著者は、この世界の現状をとうてい受け入れられないものと感じて、病み疲れはてている。
本書著者の木澤佐登志は「ダークウェブ」に代表される「闇の世界」に惹かれ続けてきた人だ。しかしそれは、「悪と汚辱の世界」に惹かれたということではない。
そうではなく、資本によって、あるいは、インターネットであればGAFAなどの「ビッグ・テック」によって、端から端まで区画整理されて、すべてが監視下に置かれたような日晒しの世界ではなく、「心地よく秘密めいた場所」を求めた結果が、そこであったというだけのことなのだ。
だから、著者は決して、この世界を諦めたわけではない。日々悪しくなりゆくこの世界に、それでも「闇の風穴」を開けたい、生き生きとしたリアルを取り戻したいとそう望んで、そうした可能性のあれこれを検討し、私たちにそれを提示して再考を促しているのだ。
本書は、著者があちこちに書いた、短めの論文を集めたものであり、書き下ろし本のようなまとまりはない。しかしまた、著者の興味は完全に一貫したものなので、むしろ、本書は著者の関心領域を広く示すものとして、著者の世界の見方を、多角的紹介した1冊ともなっている。本書を読めば、木澤佐登志という人がどういう人なのか、そのおおよそを知ることができるはずだ。
またそれは、本書の「目次」を一瞥するだけでも、ある程度は可能だ。
つまり、「鬱病」「マーク・フィッシャー」「現代魔女」「ダンス」「クラブカルチャー」「ニーチェ」「テクノリバタリアン」「反出生主義」「ヨーロッパ新右翼」「暗黒啓蒙(ニック・ランド)」「メタバース」「Qアノン(陰謀論)」「代替現実」「ゲーミフィケーション」「加速主義」「リヴァーブ的な世界」「ユートピア」「ノスタルジー」「ヴェイパーウェイブ」「思弁的実在論」といったことだ。
私自身、そもそも音楽やダンスには疎いし、インターネットに詳しいわけでもない。ただ、木澤佐登志の本はこれまでにも何冊かは読んでいるので、おおよそのところの見当はつくし、イメージすることもできる。一一だが、そのイメージは概ね、世間で言うところの「後ろ向き」なものであり、いささか「病的」なものだとさえ言えるだろう。
だが、最初に問うたように、この「病んだ世界」において、一見、健康そうに見える人間が「健康」なのか? そうだと言い切って良いのだろうか?
それとも、この病んだ世界への、自衛のための拒絶反応として(発熱のように)「病んだ」人間の方が、むしろまともなのか?
上に書き出したあれこれについて、著者が、どれについて肯定的であり、どれについて否定的であるか、その区別はさほど難しくはない。
要は、私たちを、「エリートたち」の設えた白日の下に晒して、管理し搾取しようとするような類いのものを著者は憎んでおり、逆に、その管理の網から逃れ出ようとする痛切な試みには、共感的なのだ。
どちらも同じように「現実逃避的」に見えたとしても、私たちを管理しようとする者たちが与えようとする「罠」について、著者は批判的なのである。そこは「約束の地」でもなければ、それを目指すための「エクソダスの砂漠=脱出先としての現実」でもないと。
無論、私たちの抵抗が、資本主義という巨大な力の前には、あまりに弱々しく見えるという事実は否みがたい。
だが、だからといって、抵抗を放棄して、おめおめと飼い殺しにされるのを受け入れられるのかと問われれば、それに諾うことのできる者はできるのだろうが、できない者には、どうしたって出来ない。
たとえそのせいで病み疲れても、やはり、そうした非人間的な力の前に膝を屈することは出来ない。それくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思えるのである。
だから、本書の終章「おわりに Ghosts in the Broken Machine」は、次のような、渾身の檄を持って結ばれている。
私たちは、この世界の外部に開かれた、本来の世界への〈エクソダス〉を試みなければならない。それが、人間の尊厳だからだ。
逆に言えば、〈エクソダス〉に見せかけた「ハック」と「チート」によって、結局はこの世界の中で、他者を食い物にしながら要領よく生き延びようとする「テクノリバタリアン」や「リーン・イン・フェミニスト」のような詐欺師たちに騙されてはならない。
私が、「武蔵大学の教授」で、自称フェミニストである北村紗衣を批判するのは、北村がフェミニストだからではなく「えせフェミニスト」だからである。フェミニズムに「ハック」した「フェミニズム・ハッカー(クラッカー)」だからだ。
「男性は敵だ」と無知な女性たちを煽り、わかりやすい「敵」を、餌として与えておけば、女性たちは「資本主義による搾取」という真の敵には、完全な盲目となる。
そして、その隙をついて、北村紗衣などの「エリート・フェミニスト」は、「テック・リバタリアン」たちと同様に、資本主義社会の上位「1%」へと、スルリと潜り込んで(リーン・インして)しまうのである。
だから、私たちは、この「資本主義社会」が、どうしようもなく堅牢なものだと信じさせようとする力に、抗わなくてはならない。
私自身、多分にそのように信じさせられてきた人間ではあるけれど、しかし、それを信じることは、他者の犠牲も「やむなし」と考えることであり、それは同時に、自分が食い物にされても「やむなし」という考えを受け入れることでもあるからだ。
私たちは、この「資本主義社会」が見せている堅牢な世界の向こう側の「現実」を、幻視しなければならない。
たしかにとてつもない難敵相手の難事業ではあるけれども、この世に絶対的に不変なものなどないのだとそう信じて、一矢報いることくらいはすべきなのだ。
「そんなの無理だよ」と、利口ぶって言うのは容易いが、それは所詮、スポイルされた「不能者」の言い訳でしかないのだから、そんな負け犬に、利口ぶる資格など、カケラもないのである。
私たちはその個々の尊厳に賭けて、どんなに病み疲れてようと、指一本を持ち上げることが精一杯だとしても、それでもそんな抵抗を選ぶべきなのだ。勝つこと以上に、諦めないことこそが、その尊厳の証しなのである。
(2025年2月2日)
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