椎名麟三 『深夜の酒宴・美しい女』 : 転向作家の 「個人的な救い」
書評:椎名麟三『深夜の酒宴・美しい女』(講談社文芸文庫)
椎名麟三に興味を持ったのは、文芸評論家・井口時男の著書『悪文の初志』で、椎名が興味ぶかく扱われていたからであり、椎名がキリスト教信徒であることを知ったからでもある。したがって、椎名麟三を読むのは、これが初めてだ。
ひとまず、手に入りやすい講談社文芸文庫の2冊、本書と『神の道化師・媒酌人』を入手したが、どうやら本書収録作の方が代表作とされているようなので、こちらを先に読んで椎名の雰囲気をつかみ、その上で、「キリスト教批判者」として椎名に興味を持った私にとって、本命となるであろう『神の道化師・媒酌人』を読もうと、そう考えた。
本書に収められているのは、長めの短編「深夜の酒宴」と、長編「美しい女」である。
「深夜の酒宴」は、椎名がキリスト教と出会う以前の作品であり、戦前の「転向体験」が色濃い、たいへん暗い作品である。
椎名の父は、元警察官であった。両親の夫婦仲は悪く、椎名の母は自殺未遂を起こしており、その直後に父親は警察を辞して『鉱業会社の庶務課長』(P346「年譜」より)に転じている。
やがて父母は別居することとなり、母が子供たち3人を連れて出て、父の援助で生活することになる。このころ母は『当時流行の、後藤静香の雑誌「希望」を愛読、修養団の婦人部支部長になった』(前同)。
その後、父親が相場に手を出して破産し、その援助が途絶える。学業成績優秀だった昇(椎名麟三)は、父の約束不履行に対する談判に出かけるも相手にされず、そのまま家出をして、果物屋の小僧や見習いコックなどの仕事を転々とする中で、社会主義に接近していく。18歳時に、母の自殺未遂をきっかけに、今の「山陽電車」に入社し、そこで労働運動に参加。2年後には日本共産党に入党している。
このように見てくると、ここまでで既に、「深夜の酒宴」や「美しい女」に登場するもののあらかたを経験していると言えるだろう。つまり「警察」「自殺(未遂)」「社会主義運動」「貧乏」「電鉄会社勤務」といったところだ。
この段階ではまだ「キリスト教」は登場していないけれども、しかしその「前身」となるのが、母親の『当時流行の、後藤静香の雑誌「希望」を愛読、修養団の婦人部支部長になった』という部分ではないだろうか。つまり「理想主義的な観念への傾倒」ということである。
本書解説者の井口時男は、椎名麟三という人を象徴するような言葉を、解説「「ほんとうにほんとう」ということ」の冒頭で、次のように紹介している。
まあ、普通に考えれば、そういうことになる。
というのも、人間は「相対的な存在」であって「ほんとうにほんとうに」と突き詰めていけば、自分を見失ってしまうのは、むしろ当然だからだ。
「ほんとうにほんとうに」の先にあるのは「絶対」であり、人間は決して「絶対」を捉えることができないのだから、自信をなくすのも当然のことなのである。
で、なぜこの奇妙な「問い」が出てくるのかというと、それは椎名に、痛切な「転向体験」があったからである。
「深夜の酒宴」の語り手の主人公である「僕」と、椎名自身の経験とが、どれだけ重なるものなのかはわからないけれども、少なくとも椎名が、自身の体験を象徴的に描き出したのが「僕」の体験であろうというのは、まず間違いないところだ。そうでなければ、書く意味がない。
この「僕」は、「治安維持法」によって違法化されていた「共産党」員として、つまり「赤」として警察に逮捕され、その厳しい取り調べ(拷問を伴ったものであったろうが、ここではそう明記されていない)のなかで、自分は「仲間の命のために、自分の命を捨てることができるだろうか」と自身を問い詰めたときに、「それはできない」「生きたい」という思いを否定できず、ついに転向を受け入れてしまった、というような心内語を語っている。
「僕」は、自らが信じた「社会主義の理想」や、その「大切な同志」のために死ぬことの出来ない、不徹底な人間であることを知って絶望し、身の程を知って転向したと、大筋このような自己認識なのである。
だから、「深夜の酒宴」に描かれる敗残の「僕」は、生への希望を完全に失った、しかし、自ら死を選ぶことさえできない人間、生ける屍の如き人間として描かれ、彼を取り巻く世界も、生きるに値しない絶望的な世界のように、「僕」の主観を通して描かれている。
一一「深夜の酒宴」とは、そんな絶望感を描いた作品なのである。
それでも、死ねない椎名は、生きてゆかざるを得なかったので、そうした状況を乗り越えるための思想を欲して、実存思想系の思想家の著作を読むも、それで救われることはなかった。なぜなら、そうした思想は、人間の「実存」を突き詰める思想であり、要は「ほんとうにほんとう」を問う思想だったからである。
椎名にとっては、その方向性は、すでに「行き止まり」でしかなかったからだ。
ところがその後、椎名はドストエフスキーと出会い、そこに「希望」を見出すことになり、同時に「文学」を志すことになる。
ドストエフスキーの何が、椎名に「救い」をもたらしたのかといえば、それはそこに、「突き詰められない人間でも、生きている価値はある」ということが語られていたからである。
たとえば(ここは私の推測だが)『カラマーゾフの兄弟』における、長兄ドミトリー・カラマーゾフが、そういった人物だろうし、椎名はそうした人物像に、自身を見出したのではないか。
自身は、イワン・カラマーゾフのような「突き詰める人間」には決してなれない「不徹底な人間」だが、ドミトリーであってもかまわないのだという「救い」を、ドストエフスキーの中に見出したのではないだろうか。
そして、ドストエフスキーの根底に、すべてを受け入れるものとしての「キリスト教」の思想を見たのではないか。だから後に、椎名麟三は、キリスト教に帰依することになるのだろう。これは、いわば必然的な成り行きだったのである。
だが、ここで気をつけなくてはならないのは、椎名麟三の見ている「キリスト教」は、自身に都合の良い「キリスト教の一面」でしかない、という「事実」である。
本書収録の2篇の中では、「キリスト教」という言葉は出てこず、ましてや「カトリック・プロテスタント」という区別には、一切ふれられていない。ただ、井口の「解説と年譜」の中で、これらの言葉が使われているだけなのだ。
つまり、椎名麟三の考える「すべてを受け入れる」ものとは、現実の「キリスト教会」ではなく、「物語(フィクション)」としての「イエス・キリスト」でしかない。だからこそ、同じ「キリスト教」であっても、絶対「正統主義」を掲げる「カトリック教会」とは、どう見ても折り合いがつかない。
当然、椎名が洗礼を受けたのが、「プロテスタント」(の一教派の)教会だったというのは、理の当然だったのだ。
個々の信徒と「神」の間で、実質的な「仲保者」としてはたらく「神の体たる教会」は、絶対に必要なものであり、「教会」を抜きにしてキリスト教信仰はない、というのが「カトリック」の信仰なのだが、その「カトリック教会」の支配から独立した「プロテスタント」の場合は、個々の信徒は「神」と直接つながるものであり、「神」は、「教会」にいるのではなく、自分の「心の中」にいる存在だと考えられ、「神と私は、一対一の関係」なのである。すなわち「近代神学」だ。
だから、椎名のキリスト教は、どうあっても「プロテスタント」でなければならなかっただろうし、事実、「美しい女」で描かれる、主人公の中に住む「物事の判断基準としての、(幻の)美しい女」は、椎名がいうところの「ユーモア」を持つ「笑う女」なのである。
その笑い方は、いうなれば「ほんとうに、困った人ね」と、微笑んで許してくれ、受け入れてくれる、「神」的なイメージなのだ。
だから、「美しい女」の主人公であり、電鉄会社に勤める「木村末男」は、次のように主張する。
ここで重要なのは、末男が『一度も本当の自分』(ここでは、漢字表記の「本当」)であったことがないことに気づき『一度は神妙にがっかりするのだが、すぐにがっかりしている自分が、ひどく面白く感じられて来るという奇妙』さだ。
つまり、末男の中にも「本当の自分」になりたいという気持ちはあるのだが、しかし、それは「ほんとう」ではないのだと気づいて、人間の(自分の)愚かさが『ひどく面白く感じられて来るという奇妙な』余裕が生まれてくる、という事実である。
これはたぶん、他作品である「神の道化師」にも通づることなのだろうが、要は「本当の人間」らしく「徹して」生きられない自分(末男)は、「ほんとうのほんとう」たる「神」を象徴する「美しい女」に従って生きているから、「本当の人間」という「観念」を生きようとしている人たちには、「不真面目」とか「体制順応的」とか「何を考えているのかわからない」とか「変なやつ」ということになってしまい、時に敵視されることもあるものの、しかし末男が、そうした「本当の人間」的な立場に対し、違った立場の「本当の人間」として対するのではないために、両者は次元を違えて本質的にすれ違ってしまい、まともに敵対することはない、ということなのであろう。
『はなはだ不徹底な人間であろうとしたのだった。何故なら、不徹底も私の数ある美徳のなかの一つだと思っているからである。』ということの意味は、彼が、「徹底的」なものとは、「本当の人間」という誤った「観念」から生まれてくる「傲慢」だと感じ、嫌っているからである。
つまり「(神に対して)不完全な人間」という身の程を知っている彼は、「謙遜」な人間であり、すなわちそれが「美徳」だということなのである。
これは、「徹底的」であることの「観念性」への批判である。
椎名麟三にあっては『イデオロギイ』に代表される「観念性」は、身の程をわきまえぬ「傲慢」なのだ。
人間とは、そういう「観念を弄ぶ」身の程知らずであってはならない。そうではなく『物へじかに手をふれ、物を動かしたり変えたりすること』としての『労働』に典型される「形而下の建設的作業」こそが、人間の身の程に合ったものであって、『イデオロギイ』に代表される「徹底を求める観念」という翼を持ってして、人は空を飛ぶことなどできない。人間は「地に足を付けて生きる」のが正しいのだ。一一と、そういう主張である。
そんな末男だからこそ、他人からは『反動』だと見られてしまうことも、当然ある。
「末男」は、「理想を語り、理想を目指す」ということはしないし、「理想に燃えている人たち」に対する態度は、少なくとも、そうした人たちからは「冷淡」であり「(腹の中での)冷笑的」であるとさえ見えてしまう。
「権力」と闘うこともなければ、「資本家」と闘うことせず、ただ命じられたままに「羊のごとく従順」に、仕事に精を出すだけの「末男」は、「社会改革者」たちの目から見れば、実のところ「現状追認主義」者であり「長いものには巻かれて生きる」だけの「保守」であり、「反動」的ですらある、ということになってしまうのである。
「理想」を目指す「社会改革者」たちは、当然のことながら、先を見越して「現在」を改革しようとする。
「今さえ良ければ、それいい」などという「近視眼」は愚かであり、忌むべきものだ。だからこそ、彼らは、輝く「未来」を建設するために、今を闘うのであり、だから『ほんとうの労働者だとか、ほんとうの人間の歴史だとか』いった、「理想像」という「観念」を、重視する。
だが、末男にすれば、それは身の程をわきまえない「傲慢」であり、人間の困った「業」だとしか感じられない。
彼の中の、「神」としての「美しい女」は、そんな「肩をいからせた勇ましさ」など歓迎しない。「まあ、それも仕方がないわね」と受け入れてはくれるだろうが、少なくとも「好意的に微笑」んではくれないと、末男は、そして椎名麟三は、そう感じ、そう主張しているのである。
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私自身、「マルクス葬送派」を名乗った笠井潔の「観念批判論」に、大きな影響を影響を受けた人間だから、椎名麟三の「イデオロギイ」批判が、わからないではない。人間は「イデオロギイ」に代表される「観念」に、憑かれるべきではない、ということだ。
それをすると、人は身の程を知らぬ「自我肥大=自己神化」の果てに、人倫を踏み外してしまう恐れが低くないのである。まさにそれが、ドストエフスキーの描いた、『悪霊』に憑かれる、という事態であり、笠井潔の描く「連合赤軍の総括殺人(山岳ベース事件)」なのだ。
だから、私もしばしば、要は「バランス感覚」であり、良い意味での「適当」であり「良い加減」でなければならない、と主張する。
けれども、私の場合は、だからといって、「徹底的」であることを否定しないし、「不徹底」を良しとはしない。
では、どうするのかというと、「徹底的」であることを求めながら、しかし「退くときは退く」「諦めるときは諦める」「できないことはできないと認める」といった「切り替え」を推奨するのである。
椎名のように、頭から「徹底は、悪だ」とするのではなく、「徹底を求めて、徹底にとらわれない柔軟さを持つ」というような、「リアリズム」である。
したがって、私のこうした立場こそが「不徹底」であるという指摘は、まったく正しい。ただし、私の「不徹底」は、木村末男の「積極的不徹底」でもなければ、自己の「転向」に発する反動形成としての「徹底嫌悪」でもない。
そんな、積極的な「徹底性」批判ではなく、「徹底できれば、それに越したことはないじゃないか。ただし、徹底すれば何でも良いというわけではないし、そもそも人間は完璧ではあり得ないのだから、できる範囲で徹底を目指せばいいんだよ」とい、ある意味では、椎名よりも「ゆるい」立場なのである。
つまり、私は、椎名麟三の「不徹底主義」を、批判する。
それは所詮、自己正当化の果ての、「逃げ口上」に過ぎないと。
実際のところ、当たり前に「徹底的」たらんとする人たちの「努力」を、人間の、身の程を知らぬ「愚かさ」として、腹の中では無意識に「嘲笑」している「木村末男」は、あるいは、「神」の権威に安住する椎名麟三は、「保守反動」であると言っても、決して間違いではない。
私は以前、「保守主義の父」と呼ばれる、イギリスの政治思想家エドマンド・バークを批判した際に、次のように書いた。
また、私は「左翼」というものの本質を、次のように書いたこともある。
つまり、どういうことかというと、椎名麟三の「キリスト教に依拠した、人間の身の程を知るという、敬虔主義」は、自己の「転向」を正当化するための「観念」でしかない、ということだ。
椎名は、そうした個人的な「救済観念」にすがることによって、「深夜の酒宴」で描かれたような「救われない庶民」を、描かなくなった。
「美しい女」で描かれるのは、木村末男の同僚であれ、妻であれ、彼らは「庶民=人間」であるにも関わらず、「観念的な高望み」つまりは「神になろうとして」、いわば自業自得で不幸になる人たちであって、正しいのは「末男の方である」ということになってしまっている。
この小説からは、「故なく虐げられた人々」の姿が、ご都合主義的に消されてしまっているのだ。
引用(4)の部分で語られた、「木村末男」の『無邪気』な『残酷』さとは、そうした「虐げられた弱者」を忘れていられる、徹底した「呑気さ」なのである。
したがって、私は「キリスト教作家」である椎名麟三を、いかにもそれらしく「糊塗された保守反動」であると評価する。
もちろん、いつも言うように「私だって完璧ではない」つまり「全能(の神)ではない」のだから、私の見解が「間違っている」という根拠をはっきりと示してもらえるのなら、いつでもこの評価を撤回しよう。
そうした意味で私は、「徹底的」であると同時に「退くべきときは退く」人間なのである。
(2023年7月22日)
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