中野美代子 『中国の妖怪』 : 〈木を見て森を見られない読者〉 には不向きな書。
書評:中野美代子『中国の妖怪』(岩波新書・1983年)
著者が本書で、何について書きたかったのか、それは一読明白だと思ったのだが、思いのほか世のなかには、「読めない読者」が多いようである。
したがって、著者の書いたことに「屋上屋を架す」ような説明になるかもしれないが、煩を厭わず書いておきたいと思う。
本書は『中国の妖怪』というタイトルだが、「中国の妖怪を紹介した、妖怪事典」のようなものを期待すると、そんな読者には、本書の記述は「難しすぎて」ついていけずに、不満を持つことになるだろう。
つまり、本書の参考文献にも入っている、著者自身が好きな、澁澤龍彦の『幻想博物誌』だとか、ボルヘスの『幻獣辞典』のような「(幻想的な存在の)イメージを楽しむ」といったものを、本書に期待すると、期待はずれになってしまうこと間違いなしなのだ。
中野が本書で書きたかったのは、そういう「イメージとしての不思議な生物・妖怪」のたぐいではなく、そんなものを生んでしまう「人間というものの面白さ」なのだ。
「中国の妖怪」の発生史や変遷史を跡づけ検証することによって、「中国人の精神誌」あるいは「中国人の想像力の特質」を描こうとしているのである。
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本書における「妖怪」という言葉の使い方について、中野は「妖怪の定義」という見出しのついたところで、次のように語っている。
この一見、平易に書かれた「当たり前」の主張を、しかし、正しく理解できる者は、そう多くはないはずだ。
中野はここで、中国の歴史的文書にあらわれる「神たち」も「妖怪たち」も、実在しない「非現実の存在」であることでは同じなのだから、人間型だとか怪獣型だとかという(空想内的な)区別はせずに、「大括りに妖怪と呼ぼう」と言っているのである。
だから、この「妖怪」には、言うなれば、「イエス・キリスト」も含まれているし「グレイ」や「ネッシー」や「ツチノコ」のたぐいも含まれる、ということである。
もちろん、中野が本書で論じているのは、中国の歴史的文書にあらわれる「妖怪たち」であるから、私が上で挙げたようなものは登場しないが、考え方としてはそういうことなのだ。
実在しない「不思議な生態の、生き物のようなもの」という意味で、私(中野美代子)はそれらを、大括りに「妖怪」と呼びますよ、と言っているのである。
つまり、中野には、「神」であれ「妖怪」であれ、そういうものが「実在する」という前提での議論をする気など、さらさらない。言うなれば、そういう唯物論的な「立場」を、明確にしているのである。
例えば、蛇に「ツノが生えている妖怪」と「翼が生えている妖怪」と「脚が生えている妖怪」がいたとして、ここに「(蛇に)腕が生えている妖怪」が登場した場合、この「腕蛇」を、独立した「妖怪」と考えるべきなのか、それとも「ツノ蛇」「翼蛇」「脚蛇」のいずれかの変種として、そのいずれかに帰属させるべきなのか、といった、いかにも「オタク・マニア」的な、「擬似生物学」的な議論をする気はない、ということだ。
あるいは、一一「キリスト教会」が東西教会(東方教会=正教会と、西方教会=ローマ教会=カトリック教会)に大分裂したきっかけである、「聖霊」は「父なる神のみから発する(東方教会の神学)」のか「父なる神と子たるイエスから発する(西方教会の神学)」のかという、神学的対立たる「フィリオクェ問題」について、「どちらが正しいのか」などと論じるほど暇ではない。なぜなら「父なる神」「子なるイエス・キリスト」「聖霊」のいずれも『現実の形態や生態をこえている』存在、つまり「人間の欲望が生み出した、空想の産物」でしかないのだから、「聖霊はどこから発出されるか」などというのは「(趣味的な)擬似問題」でしかなく、本質的には意味がない。それよりも、そういう「ありもしないものについても、意味もない議論」を、多くの人が本気で行うという、「その時代と場所」における心理的な「規範」の方にこそ、私は興味がある。一一というようなことなのである。
これでもまだ難しければ、もう一つ譬え話をしておこう。
「ルパン三世」の着ているジャケットは「青緑」「赤」「ピンク」「青」といろいろだが、「いずれが本物で、いずれが偽物か?」なんて議論には興味がない、というようなことだ。
つまり、中野が興味を持つのは、「蛇」に「ツノ」や「翼」や「脚」のついた「擬似生物(?)」を生み出してしまう、人間の想像力と欲望のあり方や、そのときどきの「人間精神のかたち」であり、その形成を促す「規範」の存在なのである。
だから、中野は、妖怪が登場する場所としての「山」における異界論の部分で、中国の「山水画」に描かれた風景が、人々の「理想郷の夢」を反映したものであるにもかかわらず、人々が何を欲望し、その絵に何を見てのかといったことには見向きもせず、もっぱら「技術論」を語って事足れりとする「美術史家」たちを批判して、次のようにいう。
つまり、『中国の山水画の歴史』に関する「美術史家」の議論というのは、「針の上で天使は何人踊れるか」といった「スコラ哲学(瑣末神学)」と化している、と批判しているのである。それらは「完全に無駄とは言わないが、最も大切なところを、完全に見落としている」という批判だ。
(※ ちなみに、現在のキリスト教神学では、この中世神学的な設問について「そんな意味で言った(議論した)のではない」という、言い訳に忙しい)
つまり、中野美代子の興味は「妖怪というイメージそのもの」ではなく「人間の想像力の結晶としての、妖怪というイメージ」にある。
だからこそ、本書では、その「イメージの変遷」を追いつつ、その変化の意味を考察することになる。
「妖怪」というのは、「実在」物ではないからこそ、時代に従って、どんどんと変化していくため、例えば「麒麟とは、こういう生物である」などと、確定的に「(生物分類学的)定義」を語ることなど、もともと不可能なのだ。
言うなれば、『ゲゲゲの鬼太郎』に水木しげる風の「麒麟」が登場したり、ちょっと古いがアニメ『妖怪ウォッチ』に変な「麒麟」が出てきたとしても、それを「偽物」と呼ぶことはできないのである。なにしろ「正解(本物)」など、もともと存在しないからだ。
そんなわけで、中野としては、ただ「中国には、こんな妖怪がいますよ。その性格はこうですよ」などといった調子で、ずらずらと妖怪を紹介するような「妖怪事典」的なものを書く気など、毛頭なかった。
要は、こうした輩は「専門家」ぶって、「オタク的知識」だけはやたらに振りまわすけれども、「想像力」と同時に「読解力」も足りないのだ。
例えば、ある「新作ミステリー小説」を評価するのに、その「文学的」な部分については、まったく理解が及ばないので、そこには口を噤んでおいて、ただ「この作品のメイントリックは、乱歩の『類別トリック集成』のこれこれに当たり、もはや陳腐なものである」といった指摘することで、なにやら「専門的に批評したつもりになっている」オタクと、まったく同質なのである。
で、こうした実例は、本書の「Amazonカスタマーレビュー」にも見ることができるか。
レビュアー「leonido」氏は「5つ星のうち3.0」をつけた上で、「気になった点いくつか」と題するレビューで、こんなことを書いている(全文)。
なるほど、「leonido」氏は、「この手の知識が豊富」な方なのだろう。
しかし、本書で中野が、何を書いているのかを「理解」してはいないから、中身の評価には触れないまま、わざわざご苦労にも、こんな「校正」結果だけを投稿したのでもあろう。これで「マウントがとれる」と思ってだ。
中野が意図したところを正しく理解しておれば、こうした細かなミスをあげつらっただけで、「5つ星のうち3.0」をつけたりはしないだろう。つまり、「マイナス2点」分について、その弱点を「内容に即して」説明したのではないだろうか。「ここが、こうで問題だ」と。
言い換えれば、それができないから、「粗探し」に専念した、ということなのだ。
そしてこれは、森村誠一が『悪魔の飽食 「関東軍細菌戦部隊」恐怖の全貌!』(1981年)で、それまで日本国内での認知度が低かった「731部隊」を告発的に紹介して大反響を受けた際、それを快く思わない「保守派」が、同書に収録された多数の写真の中の1枚が、キャプションとは違ったものだったという「ミス」を大々的にあげつらって、さも「同書の内容は、すべて嘘」であるかのように喧伝したのと同じ手口であり、また、「南京大虐殺」が、中国政府の主張する「被害者30万人」ではなく、「半分以下だった蓋然性が高い」という研究結果をもって、「南京大虐殺は無かった」などと主張したりしたのと、まったく同じ手口なのである。
つまり、この「leonido」氏は、単なる「オタク」なのか「学者」なのかは、匿名なのでわからないが、どっちにしろ、「読めない読者」だということだ。
また、別のレビュアー「志村真幸」氏も、本書に「5つ星のうち3.0」をつけた上で、「龍の図像」と題するレビューで、
と書いているが、これほど「ズレた読み」もない。
というのも、中野は本書で、これまで語られたことのない「龍」の発生「仮説」を、資料の渉猟と考察によって提出しているのだから、『発展途上の発想をそのまま書き記したといった感じ』というのは、まったく的外れだ。
この言い方では、中野が、仮説構築のために、自ら行なった『資料の渉猟と考察』を、まったく語らず、アイデアだけを語っているかのようではないか。
それに「龍」というイメージが「どこからどのようにして生まれたのか」という問題については、なにしろ「大昔」の話を「少ない資料」によって考察推測する作業なのだから、比較的蓋然性の高い「仮説」の構築することはできても、決して「正解」に到達することはできない。
その意味で、「完全な立証」は原理的に不可能であり、永遠に『証拠不十分』でしかあり得ない、言うなればこれは「知的探求の終わりなき旅」なのである。
それとも「志村真幸」氏は、「龍は、私が、かくかくしかじか動物を参考にして創造したものです」という原作者の手になる「直接資料」が出てくるとでも思っているのだろうか。また、そうした「古文書」なりが出てきたとして、そこに書かれていることが「すべて」であり「事実そのもの」だと、立証可能だとでも思っているのだろうか。
「志村真幸」氏の物言いは、「キリスト教原理主義の創造論者」が、「進化論」を語る科学者に対して、「あなたは、猿が人間に進化するのを、その目で見たとでもいうのか」と難癖をつけるのと似たようなものなのである。
また、レビュアー「佐藤栄一」氏は、レビュー「日本版ボルヘス?」の中で、
と、中野が、中国の「龍」や「蛇の妖怪」と、メキシコの「ケツァルコアトル」の「直接的影響関係があるのでは?」と語っているかのように理解したようだが、中野がここで問題にしているのは、中国の「饕餮紋」と「ケツァルコアトル」の像に付された四角く『太い渦巻き状の紋様』(P54)が似ている、という話である。
つまり、人間には「似たような想像力が働く」という話ではあっても、「同じような蛇の神様がいる」というレベルの話と「まったく異なる時代と場所で、直接的影響関係なしに、非常によく似た(聖なる)紋様が発生している(のは、はたして単なる偶然か?)」という話とでは、議論のレベルが違うのだ。
ともあれ、このように本書を読んだ者の中ですら、著者・中野美代子が、本書で何を語っているのかが、まったく理解できず、それでいて、「自分はわかっている」などと勘違いしている、「読めない読者」が少なくない。
だから、私は、「蛇足」かと思いつつも、このような文章を書かないではいられなかったのである。
(2023年7月16日)
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