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笙野頼子『発禁小説集』 vs 杉田俊介『対抗言論』Vol.3 : 馬鹿と阿呆のからみ合い

書評:笙野頼子発禁小説集』(鳥影社)、杉田俊介編著『対抗言論』Vol.3(法政大学出版局)

先日、私の「note」記事「北村紗衣 &「オープンレター」連、危機一髪!」で紹介した、与那覇潤の「note」記事、

ープンレター秘録① それはトランスジェンダー戦争の序曲だった

の書き出しが、偶然にも次のようなものだった。

『日本文藝家協会に入っているのだが、会報(文藝家協会ニュース)の10月号に、小説家の笙野頼子さんがコラムを寄せていた。タイトルは「続・女性文学は発禁文学なのか?」。

「続」とあるのは、2021年の11月にも、笙野氏は同じテーマで寄稿しているからだ。「発禁文学」とは、同氏がトランスジェンダリズムに反対した結果、文壇でキャンセルされかけたことを指す。』

この記事を読んだ時、私はちょうど、2年前に刊行されていた、笙野頼子『発禁小説集』を読んでいたのだ。
そして、この本の冒頭には、与那覇がここで紹介している、笙野頼子が2021年の11月に「文藝家協会ニュース」に寄稿したエッセイ「女性文学は発禁文学なのか?」が収録されていたのである。

まあ、これは多少の偶然とは言っても、完全に偶然(暗合)というわけでもないだろう。要は、2年前頃に最高潮に達していた、日本における「キャンセルカルチャー」に対して、昨今「逆風」が吹き始めており、笙野頼子は、その「追い風」を受けて、2年前のコラムの「続」編を書いたと、そういうことなのではないだろうか。
また、私がこのタイミングで、笙野の2年前刊行の本を読んだのも、北村紗衣らの「呉座勇一に対するオープンレター」による「キャンセル」への批判が「再燃」してのことなのだから、両者は、内容的にもタイミング的にも、決して無関係ではないのである。

まあ、「続」の方は未読なので確たることは言えないが、今年4月に刊行された、アビゲイル・シュライアー の『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』に対する「左派からの出版妨害」事件を知って以来、私は「キャンセルカルチャー」との関係で、「トランスジェンダリズム」問題の関連書を、次のように読んできた。

(1)アビゲイル・シュライヤー『トランシジェンダーになりたい少女たち』

(2)斉藤佳苗『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』

(3)キャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実とは何か』

(4)『情況 2024年夏号 【特集】トランスジェンダー』

(5)女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会編『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』

2年前、「トランスジェンダリズム=性自認至上主義」を「女消し(女性の当然の権利を奪うもの)」であるとして批判した笙野頼子は、その結果、「トランスジェンダー差別反対」と「トランスジェンダリズム賛成」をイコールで結んで、ほとんど「同一視」する一部フェミニストや作家などの「左派リベラル」知識人から、「差別主義者」だとの一斉攻撃をうけた。

それに先立つ2018年、自民党の代議士・杉田水脈の「LGBT差別論文」を載せたことの責任を問われて、新潮社のノンフィクション雑誌『新潮45』が廃刊になった後とあって、差別問題には神経を尖らせていた出版界において、笙野はその立場を悪くし、最終的には、作家デビュー以来の長いつき合いであった、講談社とその純文学誌『群像』との関係が、絶たれてしまう。つまり、笙野頼子は「キャンセル」されてしまったのだ。

またそれによって、本来なら講談社から単行本化されるはずだった『群像』誌掲載作の作品集が刊行不能となってしまったのだが、それを鳥影社が拾って刊行したのが、今回紹介する『発禁小説集』である。

本来、講談社から刊行するだった笙野頼子の作品集が、左派からの集中攻撃がひとつの原因で刊行不能となり、それを鳥影社から刊行せざるを得なかったという事情は、ほとんど同じ経緯で、今年(2024年)4月に、アビゲイル・シュライヤーの『トランスジェンダーになりたい少女たち』が、版元を「KADOKAWA」から「産経新聞出版」へと変えるいうかたちで再演された。

しかし、今回の『トランスジェンダーになりたい少女たち』に関していえば、刊行が決まっていた「KADOKAWA」に対して出版停止を求める署名や電凸などの直接的な攻撃があったのみならず、「KADOKAWA」が出版が取り止めにした後、これを救うかたちで「産経新聞出版」が同書の刊行を引き受け、さらに「出版妨害には屈しない」という態度を鮮明に打ち出したことに対して、今度は出版社に対する圧力だけではなく、書店に対する「放火予告」などもあって、紀伊国屋書店やジュンク堂書店などが、同書の販売を控えるなどしたため、さすがにこれは「左派のやりすぎであり、キャンセルだ」との批判が高まった。
そして、前記のとおり、本来は左派の『情況』誌が、「トランスジェンダー」特集を組むなどして、こうした「キャンセルカルチャー」の問題を、2年前の「キャンセルカルチャー特集」以来、再び取り上げて問題化することにもなったのである。

(6)『情況 2022年春号【特集】キャンセルカルチャー』

そんなわけで、私としては、先般の(4)『情況 2024年夏号 【特集】トランスジェンダー』 に、

「[書面インタビュー]笙野頼子 女消しに抗して、世界権力に異議を」

として寄稿していた笙野が、『群像』誌に、実際に「どんなものを書いたために、キャンセルされたのか」というのかを確かめるため、今回『発禁小説集』を読むことにした。

上の記事「女消しに抗して、世界権力に異議を」を読んでいるから、笙野の「反トランスジェンダリズム」の主張内容自体は知っている。
だが、笙野はそれを、自身の「小説作品」に、どのようなかたちで反映させたことによってキャンセルされたのか、そのあたりを確認しておかないと、笙野の一方的な言い分だけで、講談社が不当な「キャンセル」をしたとは断じられないと、そう考えたからである。

さて、『発禁小説集』の内容だが、「目次」よりも巻末の「初出一覧」の方が、当時の事情がわかりやすいと思うので、ここでは「初出一覧」を示しておこう。
なお、ヘッドナンバーは、私がここで振ったものである。

(01)「女性文学は発禁文学なのか?」文藝家協会ニュース二〇二一年十月号

(02)「九月の白い薔薇ーヘイトカウンター」群像二〇一八年一月号
(03)「返信を、待っていた」群像二〇一九年一月号
(04)「引きこもりてコロナ書く」群像二〇二〇年十月号

(05)「難病貧乏裁判料弾/プラチナを売る」季刊文科84 二〇二一年春季号
(06)「質屋七回ワクチン二回」群像二〇二一年十二月号
(07)「古酒老猫古時計老婆」季刊文科86 二〇二一年秋季号

(08)「ハイパーカレンダー1984」書き下ろし

上の八つの収録文に、「1行開け」を入れて、4つのパートに分けたのは、次のような事情からである。

まず、最初の(01)と最後の(08)は、講談社と縁が切れ、鳥影社からの刊行が決まった後に書かれた、「まえがき」と「あとがき」にあたるものだということを示している。
つまり、後から書かれた「事情説明文」であり、問題となる本編作品は(02〜07)ということになるわけだ。ただし、本書収録にあたって、それぞれに、著者による「自作解説」などの短文が付録されていて、本書刊行の経緯が、詳しくわかる作りになっている。

また、この作品集の本体とも呼ぶべき(02〜07)を二つに分けているのは、次のような事情のためだ。
(02〜04)までは、講談社の『群像』に書かせてもらったものである。
一方、(05〜07)の方は、『群像』では自由に書かせてもらえなくなっていたところ、それまでもたまにエッセイなどを寄稿していた、鳥影社の文芸誌『季刊文科』が自由に書かせてくれるというので、書かせてもらったのが、後半の(05)と(07)、そして「政治向きの話は書かず、私小説作家らしく貧乏話だけを書く」ということで『群像』に書かせてもらい、結果として、最後の同誌寄稿作品となったのが(06)ということになる。

つまり、(02〜04)の2018年から2020年にかけての時期は、身辺雑記を書く「私小説家」ということで、笙野頼子はまだ、その時々に興味を持っていることを、比較的書きたいように書いていた。
その主たる内容が「トランスジェンダリズム批判」であると同時に安倍晋三政権批判とコロナ禍における自粛生活」ということになる。
つまり、当時の安倍政権の政策批判やコロナ対策への批判、そして、自身の「共産党支持」を中心とした政治活動などを前面に押し出したものを、笙野は書いていたのだ。

だが、「安倍政権批判とコロナ禍における自粛生活」の方は、まだしも、「トランスジェンダリズム批判」については、当時は無論、今でさえ、まだまだ一般の理解など無かったこと(当然、編集者の理解も薄かっただろう)もあって、笙野頼子の主張を「トランスジェンダー差別」であると批判する者も、文筆家の中に少なくなかった。
そんなわけで、講談社としては、「トランスジェンダリズム批判」の方を、あまり好ましいものと思っていなかっただろうことは、容易に推測できよう。

また、「政権批判」というのも、度が過ぎて、「政治性」が前面に出たものであったから、講談社・『群像』編集部としては「そんな、私小説に見せかけた政治文書ではなく、小説らしい小説を書いてほしい」というのが、たぶん「本音」だったはずだ。

(『群像』2022年10月号。この段階で、トランスジェンダリズム支持の評論家・水上文や、オープンレター発起人の一人・三木那由多の名前が見える)

そこで、笙野に対するそのような「要請」なり何なりがあって、笙野頼子が『群像』に書くものは、「貧乏話」が中心となっていくのだが、無論、笙野としてはそうした妥協は不本意なことだったので、版元としては小さいが、鳥影社の『季刊分科』で好きなことを書かせてもらうことにもなる。

そして、このよう経緯で書きためられた作品が単行本化される時機になったものの、講談社側が、笙野頼子とこれ以上つきあうメリットはないと判断して、『群像』掲載作品の単行本化を断ったために、笙野頼子は、それを鳥影社に持ち込み、『季刊文科』掲載の作品と合わせて刊行したのが、この『発禁小説集』であると、おおよそこのような経緯であった。

こうした、いささか複雑な背景があって、それぞれの作品の内容的な傾向が決まっているため、そのあたりの事情を説明するために、(01)と(08)が加えられ、さらにそれぞれに「自作解説」的な短文が付け加えられたのである。

では、個々の「私小説」作品は、「小説として」どうなのかということなのだが、はっきり言えば、『群像』編集部が「もう勘弁してくれ」と言いたくなった気持ちは、理解できるものであった、と評し得よう。

(02〜04)のあたりについては、かなり「書き直し」の指示がなされたそうだが、その結果がこれだとすれば、初稿などは、完全に「政治エッセイ」に近いものだったのだろうと、容易に推察できるからだ。
無論、最初から、そのようなものを求めて原稿依頼したのであれば、それでもかまわないのだが、『群像』が求めたのは、あくまでも「小説」であり「純文学」なのである。

この点について、笙野頼子は、自分の書くものは「身辺雑記的な私小説であり、その意味で純文学である」と主張しているわけで、それも理屈としては間違いではないにしても、そうした主張は、原稿を依頼した編集部の意向を、故意に無視するための強引な「方便」で、一種の「詭弁」だとさえ言えるものだ。だから、『群像』が、そして講談社が、笙野頼子に距離を置こうとしたというのも、「文学」の問題としてさえ、理解できないものでもなかった。
要は「小説としてつまらない、政治文書もどきなら、もういらない」ということだったのであろう。

そんなわけで、『群像』編集部の意向を強く受けて、もっぱら「貧乏話」に徹した、(06)の「質屋七回ワクチン二回」などは、たしかに「私小説」として楽しめるものに、なってはいる。だが、当然それでは、笙野の方が不満だった。

したがって、笙野頼子が、結果として講談社から「切られる」に至ったのは、笙野を「差別者」として攻撃した「アライ」と呼ばれす「トランスジェンダリズム支持者」たちの圧力が影響したというのも事実だが、決してそれだけではなかった、とも言えるだろう。

言うまでもなく、「文学」とは、人間生活の全般を扱うものだから、「政治」的なものも、そこに含まれていて当然だ。
その典型が、かつての「プロレタリア文学」や戦後の「左翼文学」なのだが、しかし、そうした「イデオロギー文学」が流行らなくなってひさしく、しかも「いくら純文学でも、ある程度は売れてもらわないと」という感じになってきた出版不況の現在、著者の政治性を、「私小説」の名の下に、むき出しに表現しようとした笙野頼子が、版元にうとまれるのは、ある意味、仕方のないことだったとは言えるだろう。

「文学」や「私小説」が、建前としてどうであろうと、「商品価値のないもの」そして「掲載責任を問われかねない作品」まで、雑誌掲載したり、単行本化したりまではできないと、そう出版社側が判断したとしても、それをいちがいに責めるのは酷なのではなかろうか。

実際のところ、「作家と出版社」の「持ちつ持たれつの関係」からすれば、「期待する作品を書いてくれなくなった笙野頼子」との関係を絶ったからことをして、それを「キャンセルであった」と単純化して語ることは、笙野頼子自身を含め、その事情説明者の、極めて「政治的な演出的身振り」としか、私には思えない。
なお、笙野自身は、講談社側の事情も当然察しているから、講談社に長年の感謝こそ述べても、露骨な恨み言を書いているわけではない。ただ、結果として、自分は「キャンセル」されたと主張しているだけである。

ともあれ、私の場合、笙野頼子については、デビュー当時から、その存在を知っており、何冊かの初期作品と論争本を読んで、「ユニークな作家」だと評価してはいたものの、好きな作家というほどではなかった。
その「神がかり」的に「独善的」な態度が、小説家らしいと言えば小説家らしいとは言え、「客観的理性を、あまりにも蔑ろにしている」という印象があり、しかもそれが、笙野の「地そのもの」ではなく、意図的に演じられている部分があり、そこが「計算高さ」とも感じられて、そうした部分で、いささか「胡散くさい」とも感じられていたのだ。

事実、こうした「評価」は、笙野頼子と「トランスジェンダリズム」との対立関係を知る以前に書いた、笙野の『会いに行って 静流藤娘紀行』(2020年・講談社)についてのレビュー(2021年7月)を「〈文学者〉という アリバイ」と題したことからも、おおよそご理解いただけよう。私はそこで、次のように書いていたのだ。

しかしながら、笙野頼子と件の創価学会員さんを比較すれば、まだしも創価学会員さんのほうに、同情の余地がある。なにしろ、その人はそれを本気で信じているんだから、そんな「妄信」が傍迷惑だとは言え、「信じてしまっているんだから、しかたないよなあ…」と思う部分もあるからだ。

ところが、笙野頼子の場合は、そうではない。
笙野の場合は、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」に、確定した「本質」や「存在そのもの=イデア」が存在するなどと、「妄信」しているわけではない。むしろ、そんなものは存在しないと理解していながら、それが在る方が好都合だから、さもそれがあるかのように「演技」しているだけなのだ(つまり、大川隆法みたいなものだ)。
その意識的な演技とは、例えば、次のようなものなのである。

『一一 論争などする時、私は自分を素直で単純な人間にするように語りを作り込む、そうすると自然と論争はしやすくなる。キャラが固まるなどとは絶対に言わないが、ひとつの論点に絞って言葉を繰り出せるのだ。』(P270)

要は「論争時に見せている私の姿は、意識的に単純化されたものであって、本当の私は、あんな単細胞ではないよ」という意味である。

そして、事実そのとおりなのだが、しかし、この「場面に応じて、自身に利するようにキャラを作る」というのは、なにも「論争」時に限った話ではない、ということなのだ。
つまり、「ふざけた」時も「キチガイめいた」時も、そして「真摯で誠実」な時も、笙野はそれを意識的に「演じている」のであり、これは笙野が、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」に、確定した「本質」や「そのもの=イデア」が存在すると「妄信しているふり(演技)」をもしている、ということを意味するのである。

では、なぜ笙野頼子は、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」に、確定した「本質」や「存在そのもの=イデア」が存在すると「妄信」している、「演技」などするのであろうか。

それは、抜き難いその劣等感を鎧い、脆弱な自我を守るものとして、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」といった「特権階級としてのレッテル」は、非常に便利なものだからである。

つまり、笙野頼子が「反トランスジェンダリズム」を語る際に、ジェンダーにおける「男女二元論」を自明視し、「曖昧なジェンダーとしてのトランスジェンダリズム」を否定して「(解剖学的な男の身体を持つ)トランス女性は、女ではない」と断じ、その上で、「トランス女性を女だと認めろ」とする「トランスジェンダリズム」は、女性の存在という事実を否定する「女消し」だと、もっぱら「女性としての党派的利益の確保」を訴えるのも、「ジェンダー」ということについて、誠実に思考した結果としての否定と言うよりも、敵としての「トランスジェンダリズム」を議論の土俵に上らせないための、故意の「演技」だと考えるべきなのだ。

言い換えれば、笙野が「トランスジェンダリズム」を「頭から否定して見せる」のは、「そちらの言い分もわかるところはあるが、しかし全面的には認められない」というような、わかりにくい態度よりも、石頭なまでに「そんなデタラメ、誰も認められないですよ」と断じる方が、無知な世間への訴求力があると、そこまで考えて、功利的に「確信犯」を演じていると、そう考え得るのだ。
そして、そういう「小利口に政治的なところ」が、「文学として二流」であると、私は言いたいのである。

笙野頼子が、「文学者」としてではなく、「一人の人間(個人)」として、あるいは「市民運動家」として発言するのなら、そうした「策」を弄しても、まあ、よくあることだ、くらいにしか思わない。
しかし、笙野頼子のように、文学者であることを前面に押し立てて、文学表現としてそれを書くのだという「猿芝居」は、いくら笙野頼子の収入源がそれしかないとはいえ、やはり、私には、悪しき「文学利用」としか思えない。
だから私は、本書『発禁小説集』や、そこに収められた作品を、優れた「文学作品」だとは認め難いのである。

言い換えれば、『発禁小説集』所収の文書を、「小説」ではなく、「小説を騙った政治文書」だとそう考えるならば、それはそれで、その内容はいかにも凡庸な「非理性的な怒声」でしかないとの評価にもなる。

そんなわけで、このようなつまらない文章が多少なりとも有り難がられるのだとしたら、それは、日頃は「文学」など読まないような、「社会意識が高いつもりの運動好きの人たち」が、ただ「笙野頼子という著名人の名前」を政治的活動の看板として利用するために、有り難がっているだけ、だとしか思えない。
要は、書かれている内容など、「凡庸」でもかまわないのだ。ただ「芥川賞作家・笙野頼子」という名前さえついていれば「利用価値がある」ものとして、ありがたく利用させてもらう、というだけのことなのであろう。

そして、最悪なのは、笙野頼子自身が、そのことに半ば気づきながらも、そうした「先生」扱いの神輿に、ありがたく乗っている点である。
つまり、私としては、文学者として「政治的な問題」と向き合うのであれば、その「有名人」としての立場にあぐらをかくのではなく、もっと真正面から問題に向き合えと言いたいのだ。
例えば、「松川事件」に取り組んだ、広津和郎のように。

そんなわけで、私は『発禁小説集』を、本質的に「文学ではない、エセ文学」だとしか評価しないし、「政治運動文書」としては「わざと知的レベルの低いところで、大袈裟に騒いで見せている、目立つことが目的のプロパガンダ文書」だとしか評価しない。それでおしまいである。

一一ただ、そんな笙野頼子の『発禁小説集』を、刊行当時に批判していた評論家がいたというので確認してみると、それは、以前に「くだらない二流評論家」として低評価を与えた、「限界研」杉田俊介であることがわかった。
そのため、どうせ大したことは書いていないだろうと思いはしたのだが、関連資料として念のため読むことにした。
だがまた、その内容は、予想した以上にくだらない、「格好つけのポーズ」ばかりが鼻につく、いかにも凡庸な評論文だったのである。

 ○ ○ ○

杉田俊介トランスジェンダーフェミニズムメンズリブ 笙野頼子『発禁小説集』に寄せて」は、『対抗言論 反ヘイトのための交差路』という聞き慣れない評論誌の第3号特集「差別と暴力の批評」の特集記事のひとつとして書かれたものである。版元は「法政大学出版局」

第1号の刊行が「2019年12月」、第2号が「2021年3月」、当該第3号が「2023年1月」の発行で、おおよそ年1回のペースで刊行されていたようだが、3号の刊行からまもなく2年になろうとしており、第4号は出ないのか、大幅に遅れているというのが窺える。

ともあれ、この「反差別」に特化した評論誌の刊行が始まったのが「2019年」だというのは、要は、その頃が「反差別」言論が、それ単品で商売になるほど盛り上がっていたということ事実を示唆していると見ていいだろう。それが、今年2024年には刊行されていないというのは、これもまた、いかにも示唆的なことなのではないだろうか。

同誌の表紙(カバー)を見ると、編集人の名前が4人並べられており、その中では杉田俊介の名前だけがひとまわり大きくなっているから、杉田が代表編集人であり、本誌の代表者だということであろう。
実際、残りの3人である「櫻井信栄・川口好美・藤原侑貴」は、見たことも聞いたこともない人たちで、著名とまでは呼びがたい杉田俊介よりもさらにマイナーな、杉田の周辺人物なのではないだろうか。

本誌第3号の20人ほどの執筆者の中で、私が知っている人物は、杉田の他には、川村湊室井光弘蔓葉信博の3人がいるだけで、全体に「同人誌」くささが強く漂う。

ちなみに、川村湊室井光弘については「Wikipedia」へのリンクを張っておくので、そちらを確認していただくとして、蔓葉信博について簡単に紹介しておくと、この人も、杉田俊介と同じ、かつて笠井潔が組織した「限界研」(旧名称「限界小説研究会」)のメンバーで、要は「笠井潔」に世に出してもらった、サブカル系の評論家である。
本号には、可もなく不可もない短めの評論文を寄せている。

本誌の巻末近くにはクラウドファンディングの御礼とご報告」という、下のような文章が掲げられていて、本誌が「同人誌」くささの理由も、これでおのずと氷解した。
同時に「この頃は、特にクラウドファンディングが流行った時期であったな」と、思い出させてもくれた。
つまり、すでに第4号には寄付が集まらなくなっている蓋然性が高い、ということなのではないだろうか。いまや、型通りに優等生的で、現実を見ない「反差別」言説は、岐路に立たされている、ということなのではないだろうか。

『本誌の出版プロジェクトは、2019年に始まりました。大学出版部を版売としつつも、法政大学をはじめ、特定の団体や組織の後ろ楯はとくにありません。財政的な支えを得るため,創刊「1号」では、大手CAMPFIRE 社の提供するプラットフォームのうち「社会問題と向き合う人のクラウドファンディング」である GoodMorning を通じて、2019年11月7日に寄付の募集を開始しました(URL:https://camp-fire.jp/projects/view/206457)。結果、総勢222名の方々から支援をいただき、総額は140万155円に達しました。お預かりした資金は、2019年末刊行の「1号」および2021年2月刊行の「2号」の原稿料や取材費、最低限必要な広告費などにすべて使用しました。可能ならば、引きつづき「4号」刊行の実現のため、再びクラウドファンディングをおこなうことを検討中です。今後もご関心とご協力を寄せていただきますよう、お願い申し上げます。』

私に言わせれば、こういう事情だから、杉田俊介が筆頭編集人で、こんな批評誌も出せたんだなと腑に落ちた、ということである。

そんなわけで、今回は、杉田俊介の「トランスジェンダー/フェミニズム/メンズリブ 笙野頼子『発禁小説集』に寄せて」なのだが、これがとにかく酷い

前記のとおり、笙野頼子の『発禁小説集』も、その「わざとらしさ」をして高くは評価しなかった私だが、杉田俊介の「カッコつけ」ばかりの無内容ぶりは、笙野頼子のそれどころではなく、それがまた、以前、杉田俊介を論じて指摘したとおりのそのままだったので、かなりウンザリさせられた。

杉田の場合、何がダメなのかといえば、やたら「評論っぽい、もったいぶった言い回しを多用している」わりには、「中身が皆無」だという点である。

前回論じた、杉田の単著『戦争と虚構』では、「享楽」「ねじれ」という、どこかで聞いたことのある「借り物の言葉」が、もったいぶって連呼されていたのだが、今回も似たようなスタイルなのだ。

たとえば、『戦争と虚構』における「ねじれ」は、明らかに加藤典洋からのいただきだとすれば、本書における、

『「男」の立場からは、やはり女性差別とトランス差別を同時に、複雑に、失語しつつ考えるべきである。これである。』(P365)

といった、勿体ぶった言い回しは、たぶん高橋哲哉大澤真幸の、悪しき猿真似であろう。
要は、そうした一流の人たちが、その個性から必然的に出てきた言い回しを、杉田俊介は、ただ「評論らしい言い回し」として使っているかたちばかりに使っているだけで、オリジナルにはあった中身が、そこには皆無なのだ。

例えば、杉田のこの論考は、雑誌サイズのA5版2段組で40ページ弱の、短くはないが長編とも言えない長さのものなのだが、その中で、何度も「勿体ぶった確認」を繰り返すことで、内容が「深い」ものであるかのような「錯覚」を読者に与えようとする、小手先芸を繰り出す。
しかしまた、批評文を読み慣れた者には、そうした軽薄な「ポーズ」が目立つばかりで、言っていること自体は、極めて平凡かつ、一方的なものでしかないのだ。

例えば、当論考が冒頭に近い部分で、早速、

『 はっきり言えば、笙野はこれらの言葉で、たんに事実を否認し、自らの不安と恐怖心を増幅させて、グローバルな反トランス的な差別運動の潮流に無意識に加担し、無残な広告塔になっているだけである。そのようにしか見えない。そのことを確認した上で、笙野のトランス排除的言説の急所を一言で射貫こう。笙野が一貫して恐れるもの、それは何か。「女」を装する「男」の存在である。つまり笙野は、トランスジェンダーの人々の中に偽装的な「男」が混在する可能性を強く怖れている。』(P359)

と断じているのだが、この『急所を一言で射貫こう。』というご大層な言い回しが、この杉田俊介という「評論家」の本質をあらわにしているのだ。

どういうことかと言えば、こんな笙野頼子自身が繰り返し語っている「当たり前の話」を指摘しているだけなのに、こうも「ご大層な言い回し」をすることで、さも「すごく本質的なことを指摘した」かのように見せかけるという、そんな欺瞞的なテクニックばかりが多用されているのである。

笙野頼子をはじめとした「反トランスジェンダリズム」を主張する人たちが、世間に「トランスジェンダリズム」の危険性を訴える場合に、真っ先に持ち出すのは、「トランスジェンダリズム=性自認至上主義」の主張とは、簡単に言ってしまえば、「性別は、当人が自分をどう感じているかで決まる(べきだ)」という主張にその伴う、現実的問題だ。
例えば、身体が解剖学的には「オス」であっても、当人が「女と思えば女」である、といういうのが「トランスジェンダリズム=性自認至上主義」。
さらに言うと、そうした認識が、当人の中で変われば「性別」も変わるし、他には、性別が「どっちとも言えない」と言う人は「男でも女でもない」ということにもなる。

無論「当人がどう思おうと、それは当人の自由」なのだが、こうした「トランスジェンダリズム=性自認至上主義」で問題となるのは、「当人の性自認を、法的にも保証して、その性別にそって、社会制度を改めよ」と主張している点が問題なのである。

つまり、身体が男であろうと女であろうと、当人が「私は男だ」「私は女だ」と主張すれば、それは「当人の性的な自己認識(性自認)」に止まらず、「法的」にもそうだと保証され、そのような社会的待遇を完全かつ平等に保証されなければならない、ということになるのである。

すなわち、「性転換手術を受けておらず、身体は男のままだが、性自認は女性だと思っているトランス女性」には、「女風呂」や「女性トイレ」を使用する「当然の権利」が保証されなくてはならない、ということになる。
そして、事実欧米においては、そのような法制化がなされたために、「男が女子トイレに入ってきた」とか「トランス女性を装った男が、堂々と女子トイレに入って、性犯罪を犯した」というような事件やトラブルが、少なからず発生した結果、「身も心の女性という従来の女性」の側からの、当然の反発が強まっているのである。

つまり、笙野頼子のいう「メケシ(女消し)」とは、実質的に「女性だけの場所や権利」が消されてゆき「女性が女性である」と訴えることさえ「差別的な認識」だとして、不可能になりつつある状況に対する、「危機感」を語った言葉なのだ。

実際、日本においても、このような世界的な動向を受けて、女風呂に女性を装って入った男が逮捕された後、自分は「トランス女性であると主張して、その犯意を否定した」というような事件も発生しているのである。

したがって、笙野のような特別な運動家ではなくても、「身体が男のままの人物」が、女風呂や女性用トイレに入ってくるのは「困る」「怖い」と考える、そんな「従来の女性」が少なからずいるというのは、ごく当たり前の話しでしかない。
そもそも、「私は女性である」と主張するその人物が、本当に自分を女性だと思っている「トランス女性」なのか、それとも「なりすましのトランス女性」なのかは、他人には確認しようがないことなのだ。
だから、「性自認による性別の法的保証」などというものが、世間の理解を十分に得ないまま通ってしまうと、「身も心も女性」である女性たちが「安心して社会生活が営めない」と主張するのは、ごく当前なのである。

そして、杉田俊介も、またもや「勿体をつけながら」認めているように、笙野頼子も「性転換を望むトランスジェンダー」の存在やその人権自体を否定しているのではなく、「性自認至上主義」の法制化による「トランスジェンダー自認の悪用」を問題としているのである。

「自分の気持ちが指し示す性別を、法的にも認めてほしいという気持ちはわかるけれども、それを法的に認めてしまっては、弊害が大きすぎるから、それはやめてほしい。そういう制度ありきのやり方ではなく、もっと具体的で細やかな社会的配慮というかたちで、トランスジェンダーの人権は守られるべきだ」と、そのように主張しているだけなのである。

『 少なくとも笙野は、「性同一性障害」の当事者の苦痛に対しては共感的であり、たとえば日本の二〇〇三年の「GID特措法」についても限定的に評価している(三一頁)。『発禁小説集」というテクストを読む限り、趣味で女装する男性(つまりトランスヴェスタイト)のこと、あるいは国内の法律に則って手術を受けたトランスジェンダーの人々のことなどは特に批判していない。言説の上で公正であるためにそれは確認しておく(笙野のトランスジェンダー理解や概念規定が十分であるとは言えないとしても、少なくとも笙野の主張に対して言論によって批判する場合も、笙野の言説に対して批判者側も公正であるべきだろう)。』(P359)

このとおりなのだが、この『言説の上で公正であるためにそれは確認しておく』『笙野の言説に対して批判者側も公正であるべきだろう』などと、批評家として「当然」のことを、ことさらに強調して「私はこのように、フェアな人間です」と大見栄を切らなければ気の済まないのが、杉田俊介という評論家の「抜きがたい体質」なのだ。

実際、前述のとおり、この特別に長くもない論考において、最初に大仰に『急所を一言で射貫』いたわりには、

『 ならば、あらためて、この躓き(stumbling)の場所(※ 論者である杉田が、身も心も男の異性愛者であり、その意味で女性を抑圧してきた側の存在でもあれば、女性の気持ちが本質的にはわからない存在であるという事実)から、私たちは、この私は、何をどう考えればいいのか。多数派の異性愛のシスの「男」として。
 ここからは、笙野頼子のテクストを傍らに置きつつ、「問題」そのものを理論的に考えぬいてみたい。』(P363)

などと、勿体を付ける。
つまり「私は、女性のことを本質的には分かり得ない男であるという現実を謙虚に認めつつ、それでもあえて、男として女性を語ることの困難を引き受け、それと対峙しよう」と、要は「格好をつけている」だけなのだ。

こんなこと、論考中でわざわざ断るまでもなく、この論考を書いている事実をして、すでに当然なことなはずなのに、「私はこんな困難なことをやってるんですよ」と、自分でアピールしないでは気が済まないのが、杉田俊介という男なのだ。

そして、このように、歌舞伎のような大見栄を切った後、すぐに『だがもちろん』と、さらに付け加える。

『(一一だがもちろん、理論とは、つねに、あくまで当事者の苦難のためのもの、現場の苦難のためにあるものであり、あくまでも二次的なものであるべきものである。とすれば、以下で展開される私の抽象的な議論は、アライ的な立ち位置からの逸脱を含むだろう。アライの姿勢を守り、自分自身の問題を語らない、という倫理からはみ出してしまうだろう。そこには多数派男性による歪曲があり、集奪があり、盗用があり、骨抜きがあるかもしれない。その点において、現在の私には無限の躊躇があり、加害へのさらなる加担に対する怯えもまたある。そのことを率直に吐露しておく。しかし、それでもなお、自分が考えさせられてしまった事柄について、フェミニズム一般にも回収し得ないトランスジェンダー理論の可能性を「男」としての自らの心身と言葉に受肉しつつ、理論の力を通して、考えうるところまで考えてみたい。行けるところまでまず足を進めてみたい。)』(P363)

「批評的な理論とは、評論家のためではなく、批評対象のためにある」などというのは、分かり切った話なのだが、それをわざわざ「私は、他人のために批評をやっています」と、ことさらにアピールしないでは気が済まないのが(以下同文)。

男である自分が語るのだから、そこには女性に対する『多数派男性による歪曲があり、集奪があり、盗用があり、骨抜きがあるかもしれない。その点において、現在の私には無限の躊躇があり、加害へのさらなる加担に対する怯えもまたある。』けれども「それでも私は、その困難を乗り越えていこう」と、頼まれもせずに「他人の不幸」をネタにしておきながら、まるで「英雄気取り」なのである。

また、この後も、こんな調子である。

『 さて、一歩ずつ、少しずつ問いを進めて、ひとまずここまでは来た。
 この場所からあらためて基本的に考えてみたいのは、トランスジェンダーとはそもそも何か、ということである。』(P378)

『 少しばかりの迂回をしょう。
 恐るべき精織さでトランス理論を記述するゲイル・サラモンは(以下略)』(P382)

『 ここでもゆっくり、おずおずと、おそるおそる理論的な歩みを進めよう。』(P389)

要は、前述のとおり、最初に「笙野頼子の急所」とやらを『一言で射貫』いた後に、『少しずつ問いを進めて、ひとまずここまでは来』ると、今度は『少しばかりの迂回』をし、さらにその後は、また『ここでもゆっくり、おずおずと、おそるおそる理論的な歩みを進め』ますよと、この論考の「構成の説明」をしているわけだが、こんな「自己解説」が、どうして必要なのか。

いうまでもなく『一歩ずつ、少しずつ問いを進めて、ひとまずここまでは来た。』とかというのは、「私は堅実に、議論を進めてきて、今やその深いところまで踏み込んだ」と、そう自分でアピールするものだし、『少しばかりの迂回をしょう。』というのも「私は、多角的に問題を論じている」ということのアピールである。
そしてさらに『ここでもゆっくり、おずおずと、おそるおそる理論的な歩みを進めよう。』というのは、「私は、さらに深いところへと、その歩みを進めていくので、読者諸兄は、私のこの困難な歩みに、どうかついてきてほしい」という、これも「深いことを語っています」アピールの一種だ。

こんな具合で、杉田俊介の議論とは、「A→B→C→D」と書けば済むものを、このようにわざわざ「A→X→B→X1→C→X2→D」と不必要な「自己賛美の言葉」を挟んでいくことで、評論を読み慣れない読者には、その「不必要な部分」だけが印象に残るように仕向けて、何やら「深いことを読まされた」気分にさせようとする態のもの、でしかないのだ。
言うなれば、「車としての性能自体は大したことのない、デコトラ(デコレーション・トラック)」みたいなものなのである。

(このデコトラは、車としての実力も、トランスフォームもあるかもしれない)

だから、もう私がこの論考を読みながら、心底うんざりさせられ、これなら「神がかりの演技派・笙野頼子の方が、まだマシだ」と思った気持ちも、ご理解いただけよう。
そもそも、こんな「不必要に勿体ぶっている文章」しか書けない者に、まともに中身のある批評文など書けるわけがないし、そもそも中身のあるものが書けるのなら、こんなに「勿体ぶったりはしない」のである。

実際、杉田俊介の笙野評価というのは、結局のところ、次のようなものでしかない。

『『発禁小説集』を通読して感じられるのは、すでに触れた「メケシ(女消し)」の暴力性に対する強い怖れである。それはほとんど現実否認的で歴史修正的で陰謀論的な妄想の域に拡張されていく。傷情的なレトリックと特異な文体のリズムを駆使して、笙野は書く。「新世紀二十年今世界中で、女という言葉が禁止にされつつある。デマではない。ネットに海外ニュースと動画がある。禁を破った先進国の女達が魔女と怒鳴られ、デモで松明に追われ、殴られている。レズビアンの一家は皆殺しにされた。他、クビ、糾弾、役職降板。不条理満載の世界になっている」。「今、女という言葉、概念、主語や医学的事実は罪なのである。例、「女性に陰茎はない」と言ったら糾弾。レズビアンの陰茎不要宣言に「矯正」要求。間引き、慰安婦、女児性器切除を「無暗に」可哀想と言うとヘイトスピーチ。月経妊娠の保護を訴えても同罪可能性」
(二七ー二八道)。
 はっきり言えば、笙野はこれらの言葉で、たんに事実を否認し、自らの不安と恐柿心を増幅させて、グローバルな反トランス的な差別運動の潮流に無意議に加担し、無残な広告塔になっているだけである。そのようにしか見えない。そのことを確認した上で、笙野のトランス排除的言説の急所を一言で対質こう。華野が一貫して恐れるもの、それは何か。「女」をの装する「男」の存在である。つまり野は、トランスジェンダーの人々の中に内装的な「男」が混在する可能性を強く揃れている。』

要は、笙野が「その神がかり的に大袈裟な表現で、現実を歪めており、結局は、世界的な保守反動の広告塔となって、そのお先棒を担がされているだけだ」という、非常にわかりやすい図式的評価にすぎない

しかしながら、笙野が書いているのは、表現的には不必要に大袈裟ではあるけれども、基本的には「事実、あったこと」であり、決して杉田が言うような『事実を否認』したものではない。
笙野は、やや大袈裟に、演技の入った語り口で、これらの「恐怖」を増幅してアピールしてはいるが、決して「ありもしないことを書いて、嘘をついている」というわけではないのだ。

むしろ、笙野が『事実を否認』していると言って、そうした「事件やトラブル」が、さも「存在しないかのように」語っている、杉田俊介の方が、明白に「嘘つき」なのである。

つまり、笙野が『グローバルな反トランス的』な潮流に乗っているというのは事実だが、その潮流が、すべて『差別運動』だとするのは、「トランスジェンダリズム推進派」である杉田俊介から見た、得て勝手な「党派的な解釈」に過ぎない。
杉田は、次のようにも書いている。

『 議論に入る前に、前提を一つ述べる。国際的に宗教右派・カルト、宗教団体が主導しているトランス差別の問題について。
 その現実的勢力の問題を無視して、近年激化するトランス差別の急速な拡散について考えることはできない。これは日本の与党政治家と旧統一教会の癒着問題にとどまらず、グローバルでトランスナショナルな現象である。宗教右派、カルト宗教団体は、例えば、同性婚反対、女性の権利拡大大反対、あるいは性的マイノリティ一般への批判、等々がすでに自分たちの勢力拡大のための有効な戦略にならない、世界中の民衆を味方につけられない、という現実を思い知った。そのために、新たなマイノリティ当事者の分断を戦略的に持ち込むことにした。それが女性とトランス当事者の敵対性のフレームアップであり、あるいはLGB/Tの間の分断である。そのような反ジェンダー運動の圧倒的な現実を無視するわけにはいかない。』(P363〜364)

つまり、この『グローバルな反トランス的な差別運動の潮流』とは、反動保守的な宗教勢力が、背後で糸をひくものだという「陰謀論」を語っているのだ。

もちろん、宗教がしばしば保守的なのは事実だし、その影響力が絶大だというのも事実なのだが、彼らの意図するところが、単に『勢力拡大のため』であり、打算のみであるかのように言うのは、あまりにも一方的であろう。

彼ら「信仰者」の言うことが、客観的に、正しかろうが間違っておろうが、宗教には、曲げることのできない「真理としての教義」があり、それが近代や現代の知見とぶつかるなら、これに反対するのというのは、ごく自然なことで、決して「損得打算」の問題ではない。彼らにとっては、まさに「信仰・信念・理想」の問題なのである。
したがって、杉田俊介がここでしているのは、不誠実かつ通俗的な「印象操作」でしかないのだ。

この評論文が書かれた当時、「(旧)統一教会」が世間的な批判を浴びていたものだから、杉田俊介はここで、それと結びつけることで、「反トランスジェンダリズム」に、殊更に悪印象を擦りつけようと、このような大仰な「陰謀論」を持ち出しただけなのである。
杉田俊介ごときサブカル評論家が、世界政治の裏側たる「陰謀」を、そうも簡単かつ確信的に語れるということ自体が、そもそも無理のある話なのだ。

無論、「統一教会」が「トランスジェンダリズム」に反対しているというのは事実だろう。だが、だからと言って、「反トランスジェンダリズム」を訴える人たちが、皆「宗教保守派に操られている」かのように言って、「悪の勢力」呼ばわりの印象操作をするのは、明らかにアンフェアであり、批評としても「不誠実」との誹りは免れない。
あれほどしつこく「私は誠実です」アピールをしたところで、その内実は所詮このとおりなのである。

まあ、自分で自分の「誠実さ」をアピールしてばかりいるような輩の言うことなど、もとより信用に値しないという、これは、その分かりやすい実例だと言っても良いのではないだろうか。

結局のところ、当論考における杉田の結論とは、次のようなものだ。

『 すると理論的には、(※ 私たちが問われている)問いは次のようになる。
 場所や時間や関係によって、性のあり方が無限に多元的に変化し変容しうるような(※ 理解困難な)他者を(※ あえて)受け入れ、信頼し、共存すること。そうした(※  容易には理解し難い)他者の存在の様態もまた平等に当たり前(※ の存在)である、と認識する(※ 呑み込む)こと。プレデター(※ 女性に危害を加える捕食者としての犯罪者)をも(※ 最終的には)愛すること。問われているのはそうしたこと(※ 困難な理想)である。笙野頼子は、性自認という概念が恣意的な意志に基づくならば、成りすましや悪意の存在を排除できず、それは「女」にとって極めて危険である、と批判した。しかし、(※ 加害者である犯罪者をも含む)他者とともに生きる一一他者の根源的なトランス性(※ 男であるか女であるかは、他人にはわからないという性格)と共に生きる一一という倫理(※ 理想)は、原理的に、それが本人の意識や意志による性自認(※ でしかない)かもしれず、様々な要因から不如意に重層決定される(※ 曖昧な)アイデンティティであるかもしれない、それがどちらなのかわからない、という根源的な性的決定不能性をも(※ 私たちは)受け入れねばならない、という(※ 極めて困難な)当為(※ なすべきこと)を意味する。(※ 困難な理想であるからこそ)そこに倫理がある。その人(※ 理解困難な他者)は、己の性自認を間違えることもありうるし、性的同一性の形成に失敗することもありうるし、それを事後的に訂正することもありうるのだ。他者性とはプレデター的な他者性であり、そしてそれ(※ プレデター的な犯罪者性)はこの私(※ たち)の中にもある(※ のだから、お互い様で、それを認め合うべきだ)。
 それだけではない。ここは絶対に認めねばならない。他者とは根源的に一一これもまたもはやトランスの人々に限られないことを強調したい一一なりすます他者、騙す他者でもありうるのだ。性暴力や性犯罪をもゆるすべきだ、という意味ではない。非合意な性的接触は許されないし、誰もが他人から理不尽に心身を侵襲されるべきではない。そのような(※ 自らを守る)性的権利と自由を万人が持つはずだ。しかし、まさにその性的な権利と自由のためにこそ、自分の性を間違えて訂正する他者、成りすます他者、騙す他者の存在を許容し、歓待しなければならない。そこに正しい他者/間違った他者の線引きは根源的に不可能なのだ(※ 彼らは私たちでもあるのだから)。
 「男」としてのこの私のセクシュアリティもまた、場所や時間や関係によって、偶然的に、無限に多元に別様に変化しうるのであり、たとえ今まで一度も変容可能性や性的違和を感じたことがなかったとしても、(※ 誰もが、私と同様に)そう考えるべきなのである。とすれば、この自分もまた誤る自己、訂正する自己、成りすます自己、騙す自己でありうる、という恐怖を完全に抹消し、抑圧することは(※ 当然)できない。そうした潜在的に恐るべき変容可能性(内なるプレデター)を消し去ることなく何度でもこの点に戻ってくるが、「男」たちは、暫定的な「男」の特権的ポジションを自覚的に引き受けながら、ヘテロセクシズム的で家父長制的な(※ 現在の)法・制度・構造の変革(※ 革命的な改変)にコミットしていくべきである。』
(P391〜392、※ は引用者補足)

何も難しい話をしているのではない、ここで杉田俊介は、「自分を含めた誰もが、犯罪者になる可能性を秘めた存在としての人間なんだから、すでに犯罪者なった人のことを拒絶してはならない」と、本当は、自分でも出来はしないとわかっている「観念的な理想」を語って、笙野頼子ら「反トランスジェンダリズム」派の「現実主義」を、無責任に否定しているだけなのだ。
遠くの理想を語ることで、当面の問題に対処しようとしている人のことを「浅はかで無考え」扱いにしているのである。

だが、杉田俊介は、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すのだろうか?
心臓をひと突きにされたら、その時に差し出す、別の心臓でも持っているつもりなのだろうか?

上のように書いたからといって、その日から杉田は、見知らぬ他人が自分の家に勝手に上がり込んできて、勝手に飲み食いすることを許すわけではない。
自分が率先して、常識的な制度の革命的な改変を、具体的にするわけでもなければ、犯罪者を容認するわけでも、ましてや「歓待」するわけでもない。

つまり、杉田自身も、相変わらず「犯罪は防止されなければならないし、犯罪者は罰せられなければならない」と考えている点では、笙野らと、何も変わらないのだ。
ただ、無責任にも躊躇なく、実行する気もない理想を、平気で語れるか否かが、笙野と杉田の違いでしかないのだ。

ただ杉田俊介は、「トランスジェンダリズム」の問題というのは、今ここですぐ、自分に関わる問題ではないというのを見てとって、笙野たちに「犯罪者をも愛しなさい」と、ご託宣をたれ、現実問題から「話を逸らしている」にすぎない。

笙野たちだって、「陰茎のある男は、女じゃない」といった、いささか乱暴ではあれ「分かりやすい言葉」でアピールしていたとしても、「トランスジェンダー」そのものを否定しているわけではないのだ。
ただ、みすみす新たな「犯罪者=プレデター」を生む蓋然性の高い「トランスジェンダリズムは認められない」と、そう言っているだけなのだ。

一一言い換えれば、「犯罪が起こらない。女性が、トランスジェンダリズムによる法改正の犠牲になることは一切ないと、そう杉田俊介が保証できるのならば、トランスジェンダリズムも認めよう」ということなのだ。

だが、無論、杉田俊介にそんなことが「保証」できるわけもないし、このような法律が施行されれば、そんな新種の「プレデター」が生まれてきて、犯罪を犯すというのは、すで「先進国」で現実化され、実証されている事実なのである。
また、ある新しい権利・権益を認めるからには、それまでに認められていた他の権利を一部制限することになるというのは、分かりきった事実なのだが、それを、観念的なレトリックで煙に巻くというのは、人として、そもそも不誠実なのである。

それなのに、犯罪被害がこの先、どれくらい生まれようとも「私たちは犯罪者をも愛するように努力していかなければならないのだ」などと主張して見せたところで、それは「無責任」だとの謗りを免れないのだ。
そんなものは「財源のない、ばら撒き政策」と同様の、人気取りのための「欺瞞」にすぎないのである。

そんなわけで、この杉田俊介のような人物が、善人ヅラをして、「トランスジェンダリズム支持者」である「アライ」であると名乗っているのだから、「反トランスジェンダリズム」の人たちが、「アライ」を「話にならない狂信者」だと考えて敵視するのも、やむを得ないところなのだ。

杉田俊介の当論考については、他にも言いたいことが山ほどあるが、それをひとつひとつ拾い上げていては切りがないので、このくらいにしておく。

だが結局のところ、「反トランスジェンダリズム」の人たちを、狂信的な「男女二元論者」にしてしまっている元凶は、杉田俊介を含む、「トランスジェンダリズム」を支持し推進する側の狂信性なのである。
トランスジェンダーそのものには同情心を持っている人たちにさえ、「キチガイに対抗するには、キチガイになるしかない」、自分の身を守るためにはそれしかない、という気持ちにさせてしまっているのだ。

私が、「トランスジェンダリズム推進派」とその「反対派」の問題について、最初に読んだ「反対派」の理論書である、斉藤佳苗の『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』レビューで、「トランスジェンダリズム」の推進派と反対派の両者を、

『馬鹿と阿呆の絡み合い』

でしかないと評したのは、やはり間違ってはいなかった。

私が「性自認を認めるとしても、それは今すぐここで、法的にという話ではない」と注文をつけて、「トランスジェンダリズム推進派」の強引なやり方をも批判するという「両睨みの批判」も、両者が共に「独善的」だから「どっちが勝っても、きっと勝った方が、やり過ぎてしまうだろう」とした「警告」も、「笙野頼子と杉田俊介」という、それなりに名のある者同士のやり取りにしてこの程度なのであれば、そうした危惧も当然のことだというのが、ご理解いただけようはずだ。

問題は、こういう「ひとまず、自分たちの方が正しいのだから、多少ハッタリでもいいから、こちらの正義をアピールすべき」というような態度を、双方の関係者が採っており、もはやそれが、自己暗示による「信仰」の域に達している、という点にある。

もはや両者は、マイノリティたる「トランスジェンダーのため」ではなく、「自分の信仰のため」に、是が非でも相手を倒さなければならないという、そんな「宗教戦争」を戦っているのだ。

だから私たちがしなければならないのは、どちらが正しいという「間違った二者択一をして、一方に加勢する」ことではない。
そうではなく、双方が共に「誤った信仰」によって、世界を不安定化させているという事実を、何度でも指摘し続けることなのである。

本当の意味での「本当のこと」を、決して語ろうとはしない、狂信的な「偽善者」たちを、決して野放しにすべきではないのである。


(2024年12月5日)


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