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本能寺の変1582 第181話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第181話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
信長は、突破口を見出した。
各個撃破。
先ずは、南。
伊勢長島へ。
これが、長島の一向一揆殲滅戦である。
同年七月、信長は、長島へ出陣した。
〃 〃 、信長は、陸路を三方向から攻め寄せた。
〃 〃 、信長は、水軍に出動を命じた。
〃 〃 、織田軍は、大鉄炮を多用した。
〃 〃 、信長は、一揆勢を殲滅しようとしていた。
信長は、光秀の報告能力の高さに驚いた。
光秀は、京都以西=五畿内方面を担っていた。
すなわち、石山本願寺。
通称、「南方=みなみかた」。
光秀は、洞察力に優れていた。
「見る心地に候」
信長の心の奥深くに入り込んでいた。
以下は、光秀が送った大坂近辺の戦況報告に対する、信長の返書である。
この中に、「南方の趣、書中、具に候へば、見る心地に候」、とある。
信長は、超多忙。
報告を重視した。
「きわめて」
光秀は、そのことを、よく心得ていた。
詳細、かつ、具体的。
分かり易かったのだろう。
ベタ褒めである。
「気に入った」
その、見事さに大いに満足。
否、驚嘆、している。
(端裏上書)
「明智殿(光秀) 信長」
先書の返事、廿七の日付、今日披見候、
切々、▢▢▢寔(まこと)に寄(奇)特に候、
次、南方の趣、書中、具(つぶさ)に候へば、見る心地に候、
先度、荒木(村重)合戦已来、異なる子細なきの由、尤(もっと)もに候、
この時、光秀は、鳥羽近辺にいた。
石山本願寺は、京の南西十里(40km)ほどの位置にある。
光秀は、「鳥羽近辺」にいて、その動きを監視していた。
其の方在陣の所、鳥羽近辺の由、是れ由断なきの通り相聞こえ候、
敵、何時も川を越し候はゞ、係(懸)け合ひ一戦、然るべく候、
▢▢必物やしみ仕り候て、聊爾(りょうじ)の儀これある事に候、
其の意を得、分別簡(肝)要に候、
伊丹(親興)の儀、兵粮これなきに於いては、定めて落居必然に候、
仍って、両城、相躵(やがて)の由に候、
則時には攻め入ること、成るべからず候、
取り出だす(進攻)に於いては、後巻におよぶべく候哉、如何、
分別次第に候、
こちらは、長島攻めの様子について。
将(はた)又(また)、此の表の様躰、
此の中(=過日)、細々、申し越し候へども、
尚以って、申し遣はし候、
篠橋と云ふところ、また大鳥居、此の両所、
昨今、弥(いよいよ)、執り巻き候、
両所ながら、兵粮、一円なきこと、慥(たしか)に相聞こえ候、
五、三日までは、相延ぶべからず、落居たるべく候、
この両所に、一揆の中にても随分の者ども、楯籠り候、
是れをさへ、攻め崩し候へば、根本の長嶋、同前に候、
長嶋のこともこれあるの外、雑人原(ばら)、北(にげ)入り候て、
正躰なきこと、推量の外にて候、
はや、城中に、男女の餓死、ことの外多き由、相聞こえ候、
近日中に、片付くだろう。
彼此(かれこれ)以って、爰許(ここもと)の隙、近日、明くべく候間、
軈(やが)て、開陣す(兵を引きあげる)べく候、
その後、上洛する、と言っている。
然る上は、上洛せしむべく候条、万端面談を期(ご)し候、
謹言、
(天正二年)
七月廿九日 信長(黒印)
(「細川家文書」)
同年八月、信長は、逃げだす者たちを赦さなかった。
〃 〃 、信長は、一揆勢を長島の本坊へ追い込んだ。
〃 〃 、一揆勢に、餓死者が続出していた。
〃 九月、信長は、一揆勢を欺いた。
〃 〃 、これに、残党どもが激しく抵抗した。
〃 〃 、信長は、一揆勢二万を焼き殺した。
これらについては、後述する。
⇒ 次へつづく 第182話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛