本能寺の変1582 第187話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第187話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
そこには、狂気の世界があった。
この時、先頭を走ったのが光秀と秀吉だった。
同二十二日。
信長は、府中にいる。
前回(十七日)に引きつづき、これで二度目。
村井貞勝に、越前の状況を報せた(①~⑩)。
①貞勝は、京都所司代兼広報官。
頻繁に、連絡を取り合っていた。
二日後、これらのことが公家たちへ伝わる。
廿日の書状、今日廿二、府中に至り到来、披見候、
一、此の表の様子、去る十七日に申し遣わすの状、則ち相届く由、
其の意を得候、
信長は、絶対専制君主。
即決、即断。
そのために、「報告」を重視した。
その「上手」・「下手」が家臣らの能力を判断する一の基準となった。
中でも、気に入っていたのが光秀であった。
「まるで、見ているようだ」、と絶賛している(「細川家文書」天正二年
七月廿九日付)。
それと、秀吉。
秀吉は、要領がよい。
そして、この村井貞勝だろう。
これに対して、その真逆を行ったのが佐久間信盛であった。
信盛は、それが一因となり、やがて失脚する(『信長公記』天正八年)。
②信長は、十七日~二十一日のことを話した。
そこには、狂気の世界があった。
織田軍による殺戮が各所で繰り広げられた。
まるで、競い合うが如し。
「首を刎ね」、「くひをきり」、「くひを切り」、「くひをきり」、
「切り捨て」、「首を刎ね」、「切り」、「くひをきり」、と続く。
一、木の目・鉢伏追い破り、
西光寺・下間和泉(頼総)法橋・若林、
其の外、豊原西方院・朝倉三郎以下首を刎ね候後、
人数を四手にわけ、山々谷々残すところなく捜し出し、
くひをきり候、
十七日到来分二千余、生け捕り七八十人これ在り、
則ち、くひを切り候、
同十八日、五百・六百つゝ、方々より持ち来り候、
一向数を知らず候、
十九日、原田備中(直政)守・滝川左近(一益)進を、
茶箋(信雄)・三七郎(信孝)・上野(信包)介に相副え遣はし候、
其の手より六百余、
氏家(直通)・武藤(舜秀)手にて、一乗の然るべき者ども三百余、
柴田修理亮(勝家)・惟住五郎左衛門慰(丹羽長秀)、
朝倉与三、要害を構え楯籠り候を攻め崩し、
左右の者六百余を討ち捕り、生け捕り百余人、
則ち、くひをきり候、
廿日、ひなかたけと申す山へ、
玖右衛門(菅屋長頼)慰・前田又左(利家)衛門慰、
其の外、馬廻りの者どもを遣わし、
千余人切り捨て、生け捕り百余人、
これも則ち、首を刎ね候、
茶箋・滝川の手にて、大滝・白山に於いて籠り屋を追い崩し、
六百余、
其の外、平野土佐(定久)・あさみ、
鉄炮の者ども、五十・六十つゝこれを切り、
生け捕り十人・廿人つゝ到来、数を知らず候、
廿一日、佐久間甚九郎(信栄)手にて五百余、生け捕り十余人、
即ち、くひをきり候、
何とも、凄まじい光景である。
「身の毛がよだつ」とは、正に、このこと。
恐ろしい時代であった。
諸将たちも、これに倣った。
この時、先頭を走ったのが光秀と秀吉だった。
信長が見ている。
諸将たちも、これに倣った。
柴田勝家、然り。
丹羽長秀もまた、然り。
信長にとって、光秀は使いやすい存在だった。
信長は、満足した。
全て、思惑通り。
使いやすい存在だったのだろう。
二人は、それを心得ていた。
信長は、厳命した。
「山々谷々残すところなく捜し出し」
「籠り屋を追い崩し」
将兵たちは、これを徹底した。
③信長は、朝倉景健を生害させた。
一、朝倉孫三郎、風尾の要害に楯籠り、
色々、懇望せしめ候と雖も、赦免せず、
昨日廿一、生害させ候、
彼ら被官、金子兄弟以下、首をはね候、
④柴田勝家と丹羽長秀は、千余を斬殺した。
一、廿一日、柴田・惟住方より千余切るの由、注進候、
同日、氏家・武藤かたより二谷を撫で切りにし候て、
数を知らざるの由、申し越し候、
生け捕り三十六人これ在り、
其の内、河野代坊主了源、これも即ち、くひを切り候、
(「高橋源一郎氏持参文書」「織田信長文書の研究」1/2)
⇒ 次へつづく 第188話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?