本能寺の変1582 第177話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第177話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
天正元年1573、八月。
そして、その三年後。
これが、二度目の越前侵攻である。
信長は、越前敦賀にいた。
八月十四~十六日。
信長は、敦賀に逗留した。
感慨や、如何に、・・・・・。
信長公、御武徳両道御達者の故、案の内の大利を得させられ、
十四日・十五日・十六日、敦賀に御逗留。
所々の人質執り固め、
信長は、越前国中へ乱入した。
同十七日。
織田軍は、木ノ芽峠を越えた。
同十八日。
信長は、武生の龍門寺に本陣を置いた。
十七日、木目峠打ち越え、国中へ御乱入。
八月十八日、府中龍門寺に至つて、御陣を居えさせられ、
朝倉義景は、一乗谷の居館を捨て大野郡へ逃げた。
朝倉左京大夫義景、我が館一乗の谷を引き退き、
大野郡の内、山田庄、六坊と申し侯所へのがれ侯。
さしも、やむごとなき女房達、輿車は名のみ聞きて、
取る物も取り敢へず、かちはだしにて、
我先に々々々と、義景の跡をしたひて落ちられたり。
誠に、目も当てられず、申すは中々愚かなり。
織田勢は、義景の行方を追った。
然るところに、
柴田修理亮・稲葉伊予・氏家左京助・伊賀伊賀守を初めとして、
平泉寺口へ義景を追ひ懸け、御人数差し遣はされ、
其の上、諸卒手分けをして、山中へ分け入りて、さがし侯へと、
仰せ出だされ、
殺戮が始まった。
毎日、百人・弐百人宛(ずつ)、一揆ども、龍門寺の御大将陣へ
括(くく)り縛(しば)り、召し列れ参り侯を、
御小姓衆に仰せ付けられ、際限なく討たせられ、
目もあてられざる様体(ようてい)なり。
朝倉義景の最期。
義景は、自害した。
一族、朝倉景鏡(かげあきら)の裏切りよる。
平泉寺の僧衆、御忠節仕るべきの由に候て、人数を出だし、手を合せ、
朝倉左京大夫義景、遁れがたき様体なり。
爰に、朝倉同名に、式部大輔と申す者、
情(つれ)なく、義景に腹をきらせ、
鳥井与七・高橋甚三郎介錯を致し、両人の者も追腹仕り侯。
中にも、高橋甚三郎が働き、比類なきの由に侯。
同二十四日。
朝倉景鏡は、義景の首を武生へ送り届けた。
この日、信長に御礼言上。
信長は、これを赦した。
朝倉式部大輔、義景の頸を府中龍門寺へ持たせ越し、
八月廿四日、御礼申さる。
名字の総領(=一門の筆頭者)と云ひ、親類と云ひ、
前代未聞の働きなり。
義景の母儀、並びに、嫡男阿君九を尋ね出だし、
丹羽五郎左衛門に仰せ付けられ、生害候なり。
信長は、義景の首を京都で獄門にかけた。
信長は、この役目を長谷川宗仁に命じた。
宗仁は、京の町衆・茶人・絵師。
首の配達人である*。
さて、国衆縁々を以て、帰参の御礼、門前市をなす事に侯。
則ち、義景が頸、長谷川宗仁に仰せ付けられ、京都へ上(のぼ)せ、
獄門に懸けさせられ、
*【参照】14信長の甲斐侵攻 4勝頼の首 小 114
信長は、勝頼の首を京へ送った。『信長公記』
長谷川宗仁は、首の配達人。
信長は、越前の国掟を定め、前波吉継を守護代に任じた。
吉継は、朝倉義景の元家臣。
前年(元亀三年)、信長に降っている。
越前一国平均侯間、国中の掟(おきて)を仰せ付けられ、
前波播磨守、守護代として、をかせられ、
同二十六日。
信長は、越前を引き揚げ、虎御前山に到着した。
八月廿六日、信長公、江北虎後前山まで御馬を納めらる。
(『信長公記』)
2 信長は、越前の朝倉氏を滅ぼした。
信長は、誇り高い男なのである。
そして、執念深い。
「金ヶ崎での失敗」
ここに、その雪辱を果たす。
【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小 159
信長は、越前を三度攻めた。
光秀は、その全てに、参陣した。
光秀は、その全てで、中心的な役割を担った。
1 信長は、越前敦賀に侵攻した。
⇒ 次へつづく 第178話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛