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はじまりの門前で:はじめてのバタイユ③

('DELETE Your Local Fascist'、「近くのファシストを削除せよ」とは非常にファシスト的な命令である。)

↓前編と中編はこちらから↓


ドイツ観念論からのニーチェ経由のバタイユ(とデリダ)

ではニーチェについてはどうか。これはドイツ観念論からの系譜からまとめてみよう。つまり、「カント-ヘーゲル-ニーチェ-バタイユ-デリダ」というラインで見てみよう。
まず、バタイユとカントである。この2人は主体性笑いで重なり合う。「主体性が無へと突然回帰すること」は、『判断力批判』で展開されたカントの笑い分析の鍵でもあった。カントはすでに笑いの分析において、それが意識の方向性が一瞬挫折する瞬間であることを指摘していた。しかし、バタイユはカント以上にこの問題を重視し、掘り下げようとしたと言える。
次にヘーゲルである。ヘーゲルにとって「絶対的な裂け目[the ‘absolute tear’]」は否定性の出発点であったのに対して、バタイユのそれは喜びと同時に恐怖を引き起こすものである。「絶対的な裂け目」をあらわにする歓喜の媒介としての不安。「引き裂かれる」体験は「聖なる恐怖」であり、それは不安にさせ、同時に豊かにさせ、人を世界の裏側へと開く。それは単なる苦悩を超え、共同体的な自覚とコミュニカシオンを育み、ヘーゲル的な犠牲の思想と一致する。
最後にニーチェ。ニーチェの「神は死んだ」に対して、バタイユは神は殺されるべき超越として、絶えず戻ってくる亡霊として構想しており(デリダ『マルクスの亡霊たち』を思い出してほしい。)、そのような殺戮を通じて「恐怖の深淵」にわれわれを導く。そしてこの犠牲の劇化操作によって、神は破壊されるべき対象として想起される。思想体系において絶対知が神の位置に対応するとすれば、より深い理解によってその体系を破壊することは、その抑圧的な超越性に対するラディカルな批判の契機となる。神が死んだことを深く受け入れる感性も、ヘーゲルに象徴される知の体系の理解(悟性)も、バタイユの言う「理性の犠牲」にはつながらない。
ニーチェの口を使ってナチスを批判したバタイユと、バタイユの口を使ってヘーゲルを批判したデリダ。
デリダの「死を与える[Donner la mort]」): アブラハム(贈与者)はイサク(被贈与者)に死(贈与)を与える。しかし、彼が生命を与えるとき、被贈与者はその時点では存在しない。ここに、贈り物や秘密そのものの不可能性が横たわっている。
日本の有名なバタイユ研究者の素晴らしい整理を一部借りると、以上は次のようにまとめられる:カントは「傷は一時的な歪みである」と言い、ヘーゲルは「傷は完全に治癒する」と言い、ニーチェは「傷は深まるべきである」と言い、バタイユは「傷は開いたままである」と言い、デリダは「傷は痕跡として現象化する」と言うだろう。

ニーチェをめぐるバタイユとハイデガーの対決

ここまで来ると、ニーチェとバタイユの関係を別の系譜で整理したくなる。もちろん、ハイデガー、そしてフランクフルト学派とである。確かハーバーマスが良い指摘をしていた。「ホルクハイマーとアドルノはニーチェと戦い、ハイデガーとバタイユはニーチェの旗の下に集まって最後の対決をする。」
フライブルク大学の学長と反ファシストの左翼司書はそれぞれニーチェの墓掘り人とニーチェの後継者として最後の対決をすることになる。ニーチェ自身よりもニーチェを理解していると自負しているニーチェの後継者としてのバタイユ。彼はファシスト的なニーチェ読解を行うハイデガーに対抗して、ニーチェを放蕩と恍惚の仲間として読む。ハイデガーは存在論的にニーチェを読解し、バタイユは人間学的にニーチェを読解する。または、ハイデガーにとっては存在が事を為し、バタイユにとっては人間が事を図る、といったところか。(Man proposes for Bataille, Being disposes for Heidegger.)
西洋形而上学的な「存在」は自らを差異化し撹乱することで、存在の時間性さえ蓄積・支配するという貪欲な自己完結的な構造を持つと考えるハイデガーに対して、人間の自己保存本能に基づく労働欲求が生み出す道具と交換を中心にした「限定経済」が、太陽のように見返りもなしに過剰に資源を消尽する「普遍経済」に取って代わられ、その放蕩と恍惚に現れる異質性に機能的必要性を見出すバタイユ。つまり、ハイデガーの存在差異に対するバタイユの人間異質性
主体の知識/力/倫理/秩序を蓄積/支配/抑圧/改善するのではなく、人間の現実性と物質性の次元で、自己放棄的なコミュニカシオンによって偶然な瞬間に過剰な支出を行うということ。こうなると、政治哲学における神学的構造の文脈で、シュミットの「ナチのための主権」[La Souveraineté pour les nazis]とバタイユの「ナチに抗する至高性」[La Souveraineté contre les nazis]を比較する誘惑に駆られてしまうが、出口のない深淵へと向かってしまうため次回にしよう(そう!もう次はないのだが!)。

ニーチェをめぐるバタイユとフランクフルト学派の対立

バタイユとフランクフルト学派の対立は先ほどのハーバーマスの引用の通り、ニーチェを引き継ぐのか、それともニーチェと戦うのかに起因しているといえよう。バタイユの至高的主体性は徹底的に出口のない深淵へと向かうことで、不可能性なものという「外」に開かれることとなり、主体性を対象に還元するのではなく、その束縛から解放することがその特徴として挙げられる。
しかし、どうしてもフランクフルト学派からすると、このようなバタイユの非合理的なもの探究はファシズムへの接近にしか見えないのである。またハーバーマスを召喚すると、「エロティシズムと一般経済学:バタイユ 」という論文で、彼は異質なものと同質なものとの間を超越する力としての暴力という問題を取り上げてバタイユを批判する。バタイユにとっては、ファシズムは「潜在的な至高的主体性の急性な再活性化」に過ぎないかもしれないが、ハーバーマスを含めたフランクフルト学派からすると、バタイユのいう至高性を再活性化する方法はファシズム的な暴力を媒介する以外にないのである。
その対立が最も鮮明に描かれているのが、サドに対する立ち位置であろう。バタイユにとってサドは、合理的で実用的なものの奴隷となってしまった社会において、異質性を急進的に解放する象徴的な人物として扱われている。その一方で、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』ではその真逆で、彼は、行き過ぎた啓蒙合理主義の権化であり、「薫陶から解放されたブルジョワ的個人 」なのである。ここに「書き、働き、読み、愛を交わし、食べ」ているとバタイユを批判したサルトルの言葉を思い出したのは、私だけではないだろう。
しかし、『啓蒙の弁証法』ではバタイユの名前はどこにも出てこない。一貫して当て擦りである。神話不合理犠牲といったバタイユ的な概念を批判する本書に、一切バタイユの名前が登場しない。意識し過ぎているゆえに無意識に沈澱していってしまったのである。勘の良い方であれば、「シュルレアリスムに対する戦争機械」であった『ドキュマン[Documents]』で、一度もブルトンの名前が出てこなかったことが思い出されるであろう。
例えば、カイヨワは批判的にも肯定的にも引用される。『啓蒙の弁証法』では、祭りの代用品としてのバカンスを概念化するカイヨワを取り上げ、啓蒙の過程を通じて「楽しみは操作の対象とな」り、ファシズムの「偽りの集団的陶酔」として変容してしまうと論じている。またホルクハイマーとアドルノは同書で、人間が意識を放棄し、「環境の中で自己を喪失する」必要性を論じるために、フロイトの「死の欲動」と同じような概念の例として、バタイユの概念ではなく、あえてカイヨワの「放棄の本能」という概念を紹介し、彼の動物における模倣行動を扱った論文「擬態と伝説的精神衰弱」を引用している。絶対にバタイユの名前を残さない、その意志を感じさせる。そしてユングも。一方でクラーゲスは本文と脚注でそれぞれ2回ずつ登場するが、進歩の結果としての「名もなき愚かさ」に気付いたにもかかわらず間違った結論を導き出した人物としてニーチェとともに批判の対象になっている。
まとめると、バタイユ的な遊び=賭けエロティシズム犠牲は、ホルクハイマーとアドルノにとっては、啓蒙主義の行き過ぎた残酷さからの誤った逃避であり、それらは冷笑的で操作的で功利主義的な性質を含まざるを得ない、それゆえ結果としてファシズム的な暴力に変容してしまうのである。
ちなみにアドルノは、このバタイユとカイヨワの生物学主義(そしてここに加えるのであればユングやクラーゲス)への接近についてベンヤミンの『パサージュ論』を批判している。アドルノは、彼の『パサージュ論』における弁証法的イメージ(弁証法的形象)は「低俗な唯物論」であると批判し、ベンヤミンがバタイユやカイヨワそしてユングやクラーゲスに理論的に接近していると見なしていたのである。
ベンヤミンは、おそらく躊躇していたのであろう、フランクフルト学派と社会学研究会(コレージュ・ド・ソシオロジー)との間で。「あなたはファシズムのために働いているのか!」とバタイユを叱る一方で、ホルクハイマーにいくつかの彼のバタイユに対する批判的なコメントを公表しないよう依頼している。バタイユのファシスト的な側面に大きな懐疑がある一方で図書館でバタイユの助けを必要としていたし、認めたくない理論的な接近も感じていたのかもしれない。しかしその溝は決して埋まらなかった。深淵は開いたままだ。そして離別の時間がきたのだ。ベンヤミンがバタイユに『パサージュ論』の原稿を渡したとき、彼はおそらく哲学者としてのバタイユではなく、親切な司書としてのバタイユに渡したのであろう。

現代思想へのバタイユの影響

最後に、バタイユの現代思想への影響をいくつか話して閉門したいと思う。まずはフーコー、というかバタイユを読むフーコーを読むジュディス・バトラーについて語りたいと思う。バトラーはフーコーの「作者の死」は明らかにバタイユが導入した「主体の死」という概念を発展させたものであろうと言う。
バタイユとフーコーにとっての「死」とは生物にとっての死ではなく、生命を強化する可能性としての死であることを強調する。なぜならバタイユ的なエロティシズムは「死におけるまでの生を称えること」であり、彼のいう「主体の死」は、生を高めるエロティシズムの始まりと言える。一方でフーコーにとっての「作者の死」とは「書く者に先行し、書く者を動員し、書く者を『書く』言語と結びつけるものとしての書くことの概念の始まりである」ということになる。(Butler, Judith Bodies That Matter : On the Discursive Limits of Sex, Taylor & Francis Group, 2011, p. 203)
ジャン=リュック・ナンシーの『否認された共同体』(La Communauté Désœuvrée)、あるいはモーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』(La Communauté Inavouable)はバタイユの「共同体を持たない人々の共同体」という不可能な共同体である否定的共同体[communauté négative]という概念に対するラブレターである。
悪名高いニック・ランドの反-反レイシズムや加速主義は、バタイユ的な「禁止と侵犯」の現代的な再解釈に過ぎず、反レイシズム、そして現代の奴隷制や人種差別の元凶である資本主義による搾取といった「禁止」を、「絶滅」へと加速化させることで「侵犯」するという戦略を選ぶという思想である。
またミシェル・オンフレの売れに売れた『無神学論』[Traité d'Athéologie](英訳:『無神論宣言――キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が誤っている理由』)はアクィナスを読むバタイユを読むオンフレといえる作品であろう。いずれ、ランドとオンフレ、こことは戦わなくてはならない時が来ると私は思っている。
最後にアガンベンの『ホモ・サケル』でのバタイユへの反論とそれに関わるマラブーの引用でようやく閉門できる。アガンベンは、犠牲の不可能性と権力の問題においてバタイユと対立する。彼は主権[souveraineté]を、暴力と法の境界線が定まっていない、つまり境界線が未定義な例外的な瞬間としてみなし、バタイユは生命の裸や至高的なものを聖なるものに取り込み、その政治性、特に犠牲を払えない暴力の力を分析できていないと批判する。だとすれば、犠牲の力とバタイユ独自の「権力」概念である至高性[souveraineté]との関係を再度考えなければならない。

例外はそのオーラなしには機能しない。つまり、例外であることを構成する呪われた部分なしには。伝染は侵犯的である。それを抑圧するのではなく、侵犯を再び伝染させよう。

カトリーヌ・マラブー「感染: 例外状態か、エロス的過剰状態か?アガンベン、ナンシー、バタイユ」Catherine Malabou, Contagion: State of Exception or Erotic Excess? Agamben, Nancy, and Bataill


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ペテンの配達人
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