天正14年(1586)12月15日は戸次川の戦いで敗れた豊後の大友義統が豊前龍王城へ逃れた日。3日前に豊臣先遣隊の援軍とともに島津軍に敗れた。義統は勢いに乗った島津家久にわずか1日で本拠の府内を追われるが、家臣の吉弘統幸が殿を務め追撃を遅らせたおかげで高崎山城を経由して逃れた。
文禄2年(1593)1月26日は文禄の役における碧蹄館の戦いで小早川隆景、立花宗茂らが漢城奪還を目指す明軍の李如松を破った日。明軍は騎兵中心の編成だったが戦場は狭隘な渓谷で前夜からの雨で足場も悪かったという。ここは強みを生かす場所か殺す場所かというのを見極めて臨めているかですか。
天正14年(1586)7月27日は島津軍が岩屋城を落とし高橋紹運が敗死した日。秀吉が西国無双と言う立花宗茂の実父で大友氏の名将。5万対数百でも島津の損害大。これで島津の侵攻は鈍化し豊臣軍九州上陸で撤退。紹運にはとても及ばないけど、この奮闘があったからと思える自分事って何だろうか。