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江戸時代に大ブームを起こした!「太郎稲荷」が主役になる日。「初午祭」 

戌の日や丑の日・・・12日に一度巡ってくる十二支の動物の名前がつく日たち。戌の日は安産にあやかる日、土用の丑の日はうなぎを食べるという習慣は現在も根強くあるのではないでしょうか。

今回は、その中の「午の日」のお話。

午の日とは?

午の日はどんな日か皆さんご存知でしょうか。

十二支の午に当たる日を指し、干支と同じ順番で12日ごとに巡ってきます。そして2月の一番最初の午の日を、「初午の日」と呼んでいるのです。
この日は、全国の稲荷神社の祭日として親しまれています。

令和6年(2024年)は2月12日が初午の日で、当宮の太郎稲荷神社でも「初午祭」を斎行いたしました。

なぜ午の日に稲荷神社なの?

穀物の神様が稲荷山(伊奈利山)に降臨したのが和銅4年(711年)の初午であったことから、「お稲荷さん」の名でおなじみの稲荷神社の祭日として親しまれるようになりました。豊作、商売繁盛、家内安全などを祈願する初午祭が全国で斎行されています。稲荷神社の本社は、稲荷山の麓にある京都・伏見稲荷大社です。

「稲荷」の由来

「稲生り」に由来し、農村では「稲荷神」を祀っていました。この風習と、稲荷神の使いとされるキツネは家を守るという考えが結びつき、稲荷信仰が広がりました。

稲荷神社にはなぜ狐なの?

古来、田の神は稲刈りが終わると山にのぼって山の神になり、春になると山からおりて田の神になると考えられてきました。狐は春がくると山からおりて田んぼのネズミを食べ、秋になると山へ帰ることから、稲荷神の使いであると考えられたのです。稲荷神社にはいつも狐がそばにいます。

三柱神社の太郎稲荷の狐。「太郎」という名前の説もあります。

初午の日には、「お稲荷さん」を

初午の日にいなり寿司を食べると”福”が来ると言われています。
「初午にいなり寿司を食べる」慣習は、稲荷神が五穀、つまり稲作にもまつわる神様であることから、お供えの油揚げに、収穫した米で作ったすし飯を詰めたのが由来といわれます。神様への感謝の気持ちが詰まっていますね。

油揚げと稲荷寿司をお供えいたしました
午の日にちなんで、立花うどんのお稲荷さんときつねうどんがおすすめです。

立花家「江戸屋敷の春の行事」

大名家であった江戸時代にも、立花家江戸屋敷にて、春の行事として、毎年2月最初の午の日は「初午」を斎行していたことがわかります。

初午当日は、屋敷内の西稲荷と東稲荷に参詣していたようです。また、十一日は、唯一宮祭礼が斎行されていました。唯一宮は、宗茂と誾千代の神号を奉安するため、柳川山王宮(現日吉神社)の東北に勧請(かんじょう)された神社で、三柱神社の前身にあたります。

2月の季節の御朱印は、太郎稲荷神社です。とっても可愛いです。

太郎稲荷神社とは?

元々は柳川藩立花家下屋敷の庭にあった屋敷神です。8代藩主鑑寿は、在符時にたびたび訪れていることが日記からもわかっています。

太郎稲荷、江戸で大ブームを起こす!

数年ごとに疫病が流行した江戸時代の人々は、神仏や影響力のある人間を祀り、病への不安解消や病気平癒を願ってきました。

太郎稲荷は、その江戸時代に大ブームを起こします。
享和3年2月中旬頃(1,800年頃)の麻疹の流行の際に立花家の嫡子がかかったものの、毎朝の太郎稲荷への参拝のおかげで軽く済んだという噂が広まり、疫病よけの神様としても信仰されるようになったのです。ちなみに、太郎稲荷は江戸期に3度流行したそうです。

江戸ならびに近在の老若詣群集する事夥(おびただ)し。
あけの年いよいよ賑ひ。参詣のともがら道も去りあへず。

徳川実紀より

徳川実紀(江戸幕府の公式史書)には、享和3年2月中旬頃から江戸とその近在からも老いも若きも群集して参詣するようになったと書かれています。年が明けるとさらにエスカレートし、太郎稲荷の参詣者で道が大渋滞をおこすまでになってしまったようです。

また、「享和雑記」にも「此の稲荷の参詣ばかりは言語にも筆紙にも尽くしがたき様子」と記され、なんと、流行中は午の日の参詣者数は浅草観音や上野大師を凌ぐとされています。

立花家に残る史料の方でも、太郎稲荷は大変繁昌していて、特に午の日には参詣者の数で混雑し、参詣者同士での喧嘩や口論まで始まってしまうという有様だったようです。さらには、毎月の賽銭は百両もあろうかという勢いで、柳川藩にとっては予想もしていない副収入でした。

三柱神社の隠れスポット。ぜひ見つけてみてください。

太郎稲荷が生んだもの

太郎稲荷の流行はさまざまな波及効果を生みます。太郎という狐を主人公にした、太郎稲荷御利生記という本も作られています。

また、浮世絵にもなっています。歌川芳盛が描いた「流行諸願請取所」です。こちらでは、太郎稲荷大明神と、清正公大神儀とが、ご利益の名声を競って争っている場面が描かれています。当時の庶民の信仰を二分した神様ということかもしれません。

その他にも様々な媒体に登場していることから、江戸の人々に愛されていたことがわかります。

三柱神社の初午祭の様子

現在の太郎稲荷 東京と柳川

実は、柳川には当宮の太郎稲荷の他に、日吉神社にも存在しています。そして、現在の江戸(東京)にも太郎稲荷はあり続けており、旧下屋敷と、旧上屋敷の2ヶ所に存在しているのです。
二つの太郎稲荷は現在でも地域住民の方々に大切に維持管理されています。
ぜひ関東の方々は訪れてみてください。

西町太郎稲荷神社(〒110-0015 東京都台東区東上野1丁目23)旧上屋敷
太郎稲荷神社(〒110-0013 東京都台東区入谷2丁目19−2)旧下屋敷

江戸上屋敷 下谷西町の太郎稲荷
立花家史料館と太郎稲荷を守る地域の方々。

以前、立花家史料館の植野館長たちが江戸上屋敷 下谷西町の太郎稲荷を訪れた際の写真。許可をいただき、拝借いたしました。
そして、下記写真は、令和6年(2024年)当宮(三柱神社)の初午祭の写真です。

東京と柳川。何百年の時を経て、それでも太郎稲荷がそれぞれの土地で愛され、受け継がれていることに、感動し、心新たにした私たちでした。

引用文献:『図説立花家記』

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