【金ヶ崎城の地形&地質】ゆるく楽しむ日曜地質学:2023年6月25日号
仙台市は梅雨入りして2週間が経過しましたが、今のところは適度に晴れ間が出る天気です。
14日間予報でも4日に1日は晴れる予報になっています。
とは言え農家の方々は大変でしょうから、適度に雨が降りつつ、長雨にならないことを祈っています。
金ヶ崎城の地形・地質
本編では信長軍が木ノ芽峠(きのめとうげ)で浅井長政の裏切りを知ったところまでについて記事にしました。
この戦(いくさ)のクライマックスは信長軍の退却戦です。
そのため、あまりクローズアップされない印象ですが、朝倉氏の敦賀での本拠地である「金ヶ崎城」がまず落城しています。
今回は、この金ヶ崎城の地形・地質を見てみましょう。
金ヶ崎城は敦賀平野の北東部の海に面した城です。
港に適した細長い入り江になっているので、水運でも栄えたことでしょう。
そのような理由もあり、海沿いに城をつくったのかも知れません。
拡大すると「山城」であることが分かります。
標高はと決して高くはありませんが、急峻な斜面に囲まれた山です。
なお周囲の平野は埋め立て地ですので、戦国時代当時は「半島」だったと思われます。
残念ながら当時の海岸線を示す資料は見つからなかったので詳細は分かりませんが、おそらく、現在国道8号線のトンネルが通っている付近までは海だったのでは?と思われます。
と言うのも・・
実はここには、もう1つ城がありました。
その名は天筒山城(てづつやまじょう)。金ヶ崎城の支城という位置づけだったようです。
支城とは本城をサポートするための城のことで、天筒山城は金ヶ崎城の手前で敵を食い止める役割だったと思われます。
つまり、外部から金ヶ崎城に接するためには、陸伝いでは「天筒山城を通らざるを得ない」という位置にあったと考えられます。
以上より、天筒山城より先が半島だった可能性が高そうです。
それにしても、標高は高くないにせよ、急斜面ですよね。
地質図を見てみましょう。
ちょうど、細長い山地の付け根あたりに断層があります。
さすがに活断層ではないようですが、このすぐ南をトンネルが通っています(;^_^A
この断層の北の青色が古生代石炭紀~中生代三畳紀(約3億6千万~2億年前)の石灰岩です。もっと南の海で出来たサンゴ礁がプレートとともに移動し、日本列島にくっついたものです。
断層より南の黄色が中生代ジュラ紀前期~中期(約2億~1億7千万年前)の砂岩泥岩互層です。海底に溜まった砂や泥の地層が、プレートと一緒に沈み込めず、日本列島にくっついて出来ました。
どちらも古い地質で硬いので、急斜面の山になり、城として利用されることになったのですね。
しかし織田軍が攻めてきたときは援軍が遅れたため、両城とも割とあっさりと落城してしまいます。
「天の時、地の利、人の和」と言いますが、やはりいくら地形が険しくても、人が十分に機能しなければ負けてしまうのですね。
今週の予告
今週も金曜の投稿を目指して執筆予定です。
先週は余裕を持って記事を完成させていたのですが、金曜日に仕事から帰宅した時間が遅く、結局土曜の投稿になってしまいました。
では、今週もよろしくお願いいたします。