本能寺の変1582 第53話 9光秀という男 2立入宗継の証言 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第53話 9光秀という男 2立入宗継の証言
「立入左京亮入道隆佐記」
以下は、立入宗継の日記である。
光秀の素性を知る上で、最も重要な史料の一つ。
是非とも、じっくりと、目を通していただきたい。
前代未聞の大将なり。
時は、天正七年1579、六月十日。
場面は、丹波八上城を攻め落とした光秀が、捕らえた城主波多野秀治を、
安土へ護送する途中、京を通過した時の模様である。
丹波国、惟任日向守(光秀)、
御朱印を以って、一国下行(げぎょう=下賜)せらる、
時に理運、申し付けられ候、
前代未聞の大将なり、
坂本城主、志賀郡主なり、
立入宗継は、歴史の証人。
宗継は、この行列を見ていた。
光秀に対して、感嘆の声を上げている。
興奮状態が伝わって来る。
多喜郡高城、波田野兄弟、
扱いにて送らるゝの刻、路地に於いて、からめ取り、
安土へ、馬上にからみつけ、
つゝをさしほだしをうち、
はたの、おとゝい(一昨日)、はたもの(磔)に上せられ候、
前代未聞なり、
天正七年六月十日、京都を通るなり、
光秀は、土岐氏の家臣だった。
これが、動かぬ証拠である。
美濃国住人、土岐の随分衆なり、
明智十兵衛慰、其の後上様より仰せ出され惟任日向守になる、
弓取りはせんじてのむへき事に候。
光秀は、希望の星。
憧れの的だった。
名誉の大将なり、
弓取りはせんじてのむへき事に候、
(「立入左京亮入道隆佐記」)
光秀は、随分衆だった。
「随分衆」とは、身分の高い者をいう。
「立入左京亮入道隆佐記」には、荒木村重の謀叛に関する記事もある。
その中の、関係者処刑の場面に、身分の高い女房衆たちの最期の様子が
描かれている。
立入宗継は、ここでも、「随分衆」という言葉を、同じ意味で、用いて
いる。
しかし、そのレベルがどの程度なのかがよくわからない。
家中における地位の高低を、「上」・「中」・「下」に三分類した場合。
光秀の明智氏は、果たして、何れに、属したのだろうか。
「随分衆」というからには、「下」ではなかろう。
「貴種」、すなわち、血脈が尊重された時代である。
明智氏は、土岐氏の一族。
その分流の一つである。
嫡流家は、幕府奉公衆の家柄だった。
ところが、光秀は「足軽」として、召し抱えられている。
したがって、嫡流家筋ではない。
庶流である。
また、所領・居城等については、信頼し得る確実な史料等が残って
おらず、ハッキリしない。
おそらく、大身=「上」クラスではなかったように思う。
すなわち、それ程、身分の高い家柄ではなかった。
さらに、
光秀の妻が、妻木氏の出であること、
細川藤孝と出会ったこと、
信長の家臣になったこと、
出世のスピード、
これらのことも、考慮せねばなるまい。
以上の観点から、
光秀の明智氏は、土岐氏の家中で、低からず、高からず、
すなわち、「中」クラス程度の家臣だったのではないだろうか。
⇒ 次へつづく 第54話 9光秀という男 2立入宗継の証言
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