浅井長政の裏切り察知は必然だった?:「金ヶ崎の退き口」を地形・地質的観点で見るpart6【合戦場の地形&地質vol.3-6】
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・明智光秀など「戦国オールスター」が絶体絶命の大ピンチに陥った「金ヶ崎の退き口」。
前回は、信長連合軍のもともとの討伐目標であった佐柿国吉城(若狭国豪族の武藤氏の居城)から越前国の金ヶ崎城(朝倉義景配下の居城)までのルートを確認しました。
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ではいよいよ、朝倉義景の本拠地である一乗谷(いちじょうだに)へ向かいましょう!
進軍ルートの全体像
まずは地図を広く見て、織田信長・朝倉義景・浅井長政それぞれの進軍ルートを見てみましょう。
上図の赤丸が、朝倉義景の本拠地である一乗谷(いちじょうだに)です。
古地図かつくられた当時(1838年:江戸時代)は、残念ながら一乗谷城は消失していて記載がないため、村名を手掛かりに特定しました。
赤矢印が織田軍の進軍ルート、黒が朝倉軍、青が浅井軍です。
古地図では、朝倉・浅井両軍が通る街道の方が太い赤で描かれており、広い街道だったと考えられます。
合流点付近を拡大しました。
織田軍は峠を越え、細い街道を進軍。
一方の朝倉・浅井軍は大きな河川沿いの広い街道を進軍。
これを見るだけでも織田軍の劣勢を想像できます。
例えば、織田軍が2列でしか進軍できない状態で広い街道に合流してくるタイミングで、5列の軍に挟み撃ちにされたら、ひとたまりもありませんよね。
金ヶ崎城からの街道
では現在の地形図で、織田信長連合軍の進軍ルートを見てみましょう。
進軍ルートの全体像です。
古地図では、織田軍はまっすぐ東に進んでいるように見えますが、実際には北東方向に進んでいます。
こうして見ると、やはり織田軍と浅井軍の行軍ルートの大きな違いが分かりますよね。
1本の谷地形をほぼ真っすぐ進む浅井軍に対し、織田軍は小さい谷から小さい谷に乗り移るようなルートです。
進軍スピード、兵の体力の消耗具合を考えても、浅井軍の方が有利だったと思われます。
そして織田軍が浅井軍の裏切りを知った場所が、上図黄丸の木ノ芽峠(きのめとうげ)でした。
このまま赤点線のように進軍すれば、完全に挟み撃ちになるのが分かります。挟み撃ちに遭えば来た道を戻るしかなく、しかも途中には難所の木ノ芽峠があります。当然、退却のスピードは落ち、全滅しかねません。
浅井長政の裏切りをこの木ノ芽峠で知ったのは、織田信長の幸運だったと思います。ここを通過した後だと、かなり厳しかったでしょう。
でもおそらく、単なる幸運だけではないと感じます。
それはどういうことでしょうか?
木ノ芽峠周辺の地形
拡大して詳しく見てみましょう。
拡大図を見ると良く分かるのですが、木ノ芽峠と浅井軍の進軍ルートは非常に近いのです。直線距離で約1.5km。
道はありませんが、山歩きに慣れていれば1時間もあれば行ける距離だと思います。
つまり、軍隊は通れないにしても、物見(偵察)が察知するには十分近い距離かと思います。
このように考えると、織田軍が木ノ芽峠で浅井軍の動きを察知できたのは必然なのではないか?と思えてきます。
方位の概念
古地図を見始めてつくづく感じていたのは、江戸時代当時は、方位や角度が不正確だということです。
これによって、半島のかたちが微妙にゆがんでいたり、河川の流路が不正確だったりと、気になるところが沢山ありました。
今回にしても、街道の方向が全く違うことにより、だいぶ戦局に影響を及ぼしたように感じます。
もう1度見ましょう。
この古地図は1800年代のものなので、戦国時代はこれより不正確な地図だったと思われます。
このような地図を見れば、まさか木ノ芽峠と浅井軍進軍ルート(北国街道:ほっこくかいどう)が近いなんて思わないですよね。
日本で「方位や角度の概念」が生まれたのは、どうも江戸時代中~後期以降のようです。
今回はここまで。
お読みいただき、ありがとうございました。
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