本能寺の変1582 第164話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第164話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
信長が上洛した。
同年、二月三十日。
信長は、常楽寺から船で琵琶湖を渡り、坂本から山中越えにて京に
入った。
多くの町衆が出迎えのため動員された。
昨年十月、義昭と喧嘩別れして岐阜に帰って以来、五ヵ月ぶりの都で
あった。
二月卅日、戊辰(つちのえたつ)、天晴、五暮日、
次、禁中御作事見舞い、
日乗上人・村井民部少輔等と雑談しおわんぬ、
織田弾正忠信長、申の刻(16時頃)上洛、
公家・奉公衆、或いは江州或いは堅田・坂本・山中等へ迎えに行かる、
上下京地下人一町に五人宛(ずつ)、吉田まで罷り向かう、
(「言継卿記」1/2)
信長は、光秀の屋敷に宿泊した。
山科言継が証人である。
これを見ていた。
予(言継)、五辻歩行の間、一條京橋まで罷り向かう、
則ち、(信長)下馬せられ、一町ばかり同道、また馬に乗られ、
則ち、明智十兵衛慰所へつかれおわんぬ、
彼の所まで罷り向かひ、次、帰りおわんぬ、
(「言継卿記」2/2)
信長は、光秀を高く評価していた。
これまでの事。
そして、これからの事。
一、京のこと、
一、幕府、
一、朝廷、
一、寺社、
一、周辺諸国、
一、越前侵攻、
等々。
信長にとって、光秀は、きわめて重要な人物。
最も、頼りとする者。
「懐刀」のような存在だったのだと思う。
信長は、岐阜。
光秀は、京。
この男に、代わる者などいない。
「光秀、なればこそ」
そう、思っていたのではないだろうか。
「明智十兵衛慰所へつかれおわんぬ」
このことは、それを意味する。
正に、「蜜月」の時。
この様な関係は、天正八年1580までつづく。
【参照】4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 小 11
「一、丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし侯。」
光秀の京屋敷。
信長の宿所である。
となれば、・・・・・。
それに相応しい規模・状態だったと思う。
何れにしても「銭」が要る。
光秀には、それが出来た。
信長の、光秀に対する処遇がそれを可能にしていたのだと思う。
光秀にとっては、名誉この上も無きこと。
光秀は、感激した。
「この御方の御ために」
そう、思ったのではないか。
それが、「我が家の再興」へと通じる道。
光秀は、さらに前へ、歩を進めた。
信長は、光秀の立場を世に知らしめた。
結果的には、そうなるだろう。
光秀と信長の関係が明らかになったのだから。
動きやすくなったと思う。
先ずは、織田家中。
特に、佐久間信盛・柴田勝家らの重臣たちへ。
中でも、秀吉には、大きな刺激になっただろう。
次に、幕府。
将軍義昭、重臣たちへ。
光秀は、新参者。
最早、とやかく言う者はいない。
そして、朝廷。
山科言継ら公家衆たち。
もう、光秀の名を知らぬ者などいない。
同、京の寺社。
当時、彼らは、多くの寺領・社領を有していた。
したがって、それらに関する訴訟沙汰も多かった。
光秀は、京都奉行。
その背後には、信長がいる。
同、京の町衆へ。
さらには、近隣諸国へも。
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