古典100選(90)信長公記

おとといの記事「戦略的に生きるということ」で織田信長が登場したが、本シリーズ90回目にしてようやく登場することになった。

今日の作品は、知る人ぞ知る『信長公記』である。

時は、永禄8年から11年(=1565年から1568年)の間であり、信長がまだ30代の頃である。

このとき、室町幕府の第13代将軍だった足利義輝が三好氏に殺害され、最後の第15代将軍の足利義昭が信長を頼って、後に室町幕府滅亡へとつながっていく。

では、原文を読んでみよう。

①永禄十一年戊辰以来、織田弾正忠信長の御在世、かつ、これを記す。
②先の公方光源院義輝(よしてる)御生害、同じく御舎弟鹿苑院殿、その外、諸侯の衆歴々討ち死にの事。
③その濫觴(らんしょう)者、三好修理大夫天下の執権たるに依つて、内々、三好に遺恨思し召されるべきと、兼ねて存知、御謀反を企てらるるの由、申し掠め、事を左右に寄せ、永禄八年五月十九日に、清水詣と号し、早朝より人数を寄せ、すなはち緒勢殿中へ乱れ入る。
④御仰天なされ侯ふといへども、是非なき御仕合せなり。
⑤数度斬つて出で、討ち崩し、余多に手負はせ、公方様御働き侯ふといへども、多勢に敵はず、御殿に火を懸け、終に御自害なされ侯ひ訖(おわ)んぬ。
⑥同じく三番日の御舎弟鹿苑院殿へも平田和泉を討手にさし向け、同じ刻に御生害。
⑦御伴衆悉く逃げ散り候ふ。
⑧その中に、日頃御目を懸けられ侯ふ美濃屋小四郎、いまだ若年十五、六にして、討手の大将平田和泉を斬り殺し、御相伴仕り、高名比類なし。
⑨まことに御当家破滅、天下万民の愁歎これに過ぐべからず、云々。
⑩しかるに次男御舎弟南都一乗院義昭(よしあき)、当寺御相続の間、御身に対し、いささか以つて野心御座なきの旨、三好修理大夫・松永弾正方より宥め申され侯ふ。
⑪もつともの由仰せられ侯ひて、しばらく御在寺なさる。
⑫ある時、南都を潜かに出御ありて、和田伊賀守を御頼みなされ、伊賀、甲賀路を経て、江州矢島の郷へ御座を移され、佐々木左京大夫承禎(しょうてい)を頼み思し召すの旨、種々様々上意侯ふといへども、すでに主従の恩顧を忘れ、同心能(あた)はず、結局、雑説を申し出だし、情けなく追ひ出だし申すの間、頼む木本に雨漏れ、 甲斐なく、また、越前へ下向なされ訖んぬ。
⑬朝倉の事、元来、その者にあらずといへども、 かの父上意を掠め、御相伴の次に任じ、我が国に於いて我意に振舞ひ、御帰洛の事、中々詞に出だされざるの間、これまた、公方様御料簡なし。
⑭この上は、織田上総介信長をひとへに頼み入られたきの趣き、仰せ出だされ、すでに国を隔て、その上、信長沽弱の士なりといへども、天下の忠功を致さんと欲せられ、一命を軽んじ御請なさる。
⑮永禄十一年七月二十五日、越前へ御迎へのため、和田伊賀守、 不破河内守、村井民部、島田所之助を進上なさる。
⑯濃州西庄立政寺に至りて公方様御成り、末席に鳥目千貫積ませられ、御太刀・御鎧・武具・御馬色々進上申され、その外、諸侯の御衆、これまた、御馳走斜(なの)めならず。
⑰この上は、片時も御入洛御急ぎあるべしと、思し召さる。

以上である。

上記の文章は少々難解ではあるが、越前国の朝倉義景も登場していることが分かるだろうか。

戦国大名の勢力図や遺されている古い文献資料は、当時の大名たちの力関係を知るためには大いに参考になる。

足利義昭が織田信長を頼るようになった経緯など、過去の私のnote記事の『【続編】飛鳥・奈良時代からの歴史をたどる』シリーズの(20)〜(23)も読んでいただければありがたい。

マガジンに収録されている。

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