本能寺の変1582 第174話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第174話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
光秀の打算。
となれば、以下ような見方が出来るのではなかろうか。
信長は、光秀とともに、越前侵攻作戦を計画した。
光秀は、この作戦の、最初から最後まで、深く関与していた。
幕府内の根回し等にも、活躍したものと思う。
信長とは、特別の関係だった。
親密ぶりからも、それがよくわかる。
柴田・佐久間等とは、関わり方が全く違うのである。
ところが、それが裏目に出てしまった。
「作戦失敗」
その原因は、信長にあった。
光秀にあったわけではない。
信長は、瞬時に、撤退を決断した。
となれば、殿軍。
光秀は、生粋の武人。
出来る男。
頭の回転が速い。
信長は、周辺事情に不案内。
だが、光秀は、よく知っていた。
「打算」
そして、結論。
「間に合う」
これが、己の生きる道。
金ヶ崎に残った。
結果、光秀の人生は、さらに、大きく変わった。
光秀、この時、四十七±四歳ぐらい。
秀吉の野心。
秀吉は、聡い男。
光秀は、秀吉と全く違うタイプの人物。
秀吉には、無いものを持っていた。
秀吉には、出来ぬことが出来た。
特に、信長と光秀の関係について。
秀吉は、羨望の眼差しをもって見つめていたものと思う。
秀吉にとって、光秀は、一歩も二歩も先を行く憧れの人物。
為すこと全てについて、常に、注目していた。
則ち、要マーク人物だった。
おそらく、そのような状態だったのではないか。
その光秀が殿軍を申し出た。
光秀は、義昭の家臣。
秀吉は、驚いた、・・・・・。
秀吉が、この辺りの地理に詳しいとは思えない。
だが、光秀のことは、よく知っていた、・・・・・。
「何か、ある」
秀吉は、信長の家臣。
鋭い勘の持ち主。
情報収集に長けていた。
「手柄」
そこに、その臭いを感じ取った、・・・・・。
そして、信長へ。
殿軍を申し出た、・・・・・。
秀吉は、これによって、来るべき浅井攻めの先鋒に抜擢される。
抜け目のない男、否、油断ならぬ男なのである。
池田勝正の場合。
光秀は、勝正の負い目を知っていた。
しかし、池田勝正の場合だけは違った。
永禄十一年1568、十月。
信長が義昭を奉じて上洛した時。
勝正は、これに抵抗した。
そして、降伏。
信長は、これを赦し、これまでの通りとし、大名として幕臣に迎え
入れた。
十月二日に、池田の城、筑後居城へ御取りかけ、
信長は、北の山に御人数を備へられ御覧侯。
水野金吾内に隠れなき勇士梶川平左衛門とてこれ在り。
幷(ならび)に御馬廻の内魚住隼人・山田半兵衛、是れも隠れなき
武篇者なり。
両人、先を争ひ、外構へに乗込み、爰(ここ)にて、押しつおされつ、
暫の闘ひに、梶川平左衛門、骼(こしぼね)をつかれて罷り退き、
討死なり。
魚住隼人も、爰にて手を負ひ、罷退かれ、
ケ様にきびしく侯の間、互に討死数多これ在り。
終に火をかけ、町を放火侯なり。
今度、御動座の御伴衆、末代の高名と、緒家これを存じ、
士力(しりき=士気)日々にあらたにして、戦ふこと風の発するが如く、
攻むること河の決するが如しとは、夫れ、是れを謂ふ歟。
池田筑後守降参致し、人質進上の間、
御本陣芥川の城へ御人数打ち納れられ、
五畿内隣国、皆以て御下知に任せらる。
(『信長公記』)
すなわち、勝正には、信長に対する負い目があった。
そのために、何としても、名誉を挽回せねばならなかった。
光秀は、このことをよく知っている。
立場こそ違えども、同じ、幕臣どうし。
勝正は摂津、光秀は京。
越前出兵、兵三千。
二人は、きわめて、近い関係にあった。
だとすれば、・・・・・。
光秀と勝正は、繋がっていた、・・・・・。
ところが、後に、このことが、裏目に出てしまう。
勝正は、あまりにも、信長に片寄りすぎた。
そのために、荒木村重ら重臣たちの反発を深めることになる。
そして、内紛。
勝正は、追放される。
これについては、後述する。
⇒ 次へつづく 第175話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前