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本能寺の変1582 第58話 9光秀という男 3土岐氏 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第58話 9光秀という男 3土岐氏 

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第三代将軍足利義満は、土岐氏を危険と見た。

 表があれば、裏もある。
 義満は、土岐頼康を警戒していた。
 何しろ、濃・尾・勢、三ヶ国の守護。
 東西を分断する交通の要衝。
 土岐の桔梗一揆。
 その、武力は強大だった。
 となれば、当然である。

義満は、将軍専制政治を目指した。

 以下、義満の略歴を示す。

 1538 正平十三年/延文三年  義詮の子として生まれる。
 1368 正平二十三年/応安元年 征夷大将軍に就任。
 1378 天授四年/永和四年   花の御所に移る。
 1379 天授五年/康暦元年   康暦の政変(管領細川頼之を罷免)。
 1388 元中五年/嘉慶二年   富士遊覧。
 1389 元中六年/康応元年   厳島神社参詣。
  〃    〃   〃      土岐康行の乱。
 1391 元中八年/明徳二年   明徳の乱(山名氏を討伐)。
 1392 元中九年/明徳三年   南北朝合一。
 1394 応永元年        将軍職を嫡男義持に譲る。
 1395 応永二年        九州探題今川貞世を罷免。
 1399 応永六年        応永の乱(大内義弘を討伐)。 
 1401 応永八年        日明国交の樹立(日本国王)。
 1404 応永十一年       勘合貿易が始まる(朝貢貿易)。
 1408 応永十五年       急病により死去(享年五十一)。

義満は、富士を遊覧している。

 信長の富士遊覧から、遡ること、凡そ、二百年。
 「歴史は、繰り返す」、のである。
 これには、理由があった。
 信長、また然り。
 単なる物見遊山にあらず。
 
 厳島神社参詣について。
 信長は、おそらく、中国大遠征の時に、行うつもりだったのでは
 ないか・・・・・。

 信長は、故事に明るい。

 以上、参考までに。

義満は、有力守護の排除を画策した。

 先ず、手をつけたのが土岐氏であった。

土岐頼康が死んだ。

 嘉慶元年1387。
 享年、七十。

土岐康行が頼康の跡を引き継いだ(世安家)。

 頼康は、実子がいなかった。
 弟(頼雄)の子を養子(康行)にしていた。

 康行は、従弟の詮直(あきなお)を尾張守護代とし、弟満貞を将軍義満に
 近侍させていた。

義満は、康行を挑発した。

 満貞には、野心があった。
 義満は、それを巧みに利用した。
 満貞を尾張守護に任命。
 土岐氏の分裂を図った。

 嘉慶二年1388。
 満貞が尾張へ下向した。
 詮直がこれを迎え撃った。
 満貞は、京へ逃げかえった。
 義満に、報告。
 一族内の争いが「康行謀叛」へ発展した。

康行は、罠に嵌まった(土岐康行の乱)。

 康応元年1389。
 追討軍が編成された。
 義満は、一族の土岐頼忠にこれを命じた。

康行は、没落した。

 明徳元年1390。
 謀叛は、鎮圧された。
 康行は、三ヶ国を失った。

義満は、土岐頼忠を美濃の守護に任じた(西池田家)。

 頼忠は、土岐頼清の子。
 頼康・頼雄の弟である。
 幕府方に与し、康行と戦った。
 この家系を土岐西池田家という。
 すなわち、美濃の土岐守護家は、世安家(嫡流)から西池田家(庶流)に
 切り替わった。

 ⑥土岐康行―頼忠―頼益―持益

土岐氏は、解体された。

桔梗一揆は、崩壊した。

以後、土岐氏は衰退への道を歩む。


 ⇒ 次へつづく 第59話 9光秀という男 4教訓 


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