本能寺の変1582 第57話 9光秀という男 3土岐氏 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第57話 9光秀という男 3土岐氏
土岐頼康は、濃・尾・勢、三ヶ国の守護を兼任した。
頼康は、頼遠の兄頼清の子。
頼貞の孫にあたる。
文保二年(1318年)生れ、~元中四年/嘉慶元年(1387年)没す。
足利尊氏・義詮・義満の時代を生きた。
興国三年/康永元年(1342年)。
叔父頼遠の刑死後、美濃守護を継承。
正平六年/観応二年(1351年)。
観応の擾乱での活躍により、尾張守護を与えられた。
その後、伊勢守護を兼任。
頼康は、土岐氏の全盛期を築いた。
濃・尾・勢は、東西交通の要衝地。
土岐氏は、これら主要三ヶ国を押さえる守護家となった。
頼康は、尊氏以来の功臣。
幕府の重鎮。
将軍家の信任は篤い。
頼康は、文武両道の人であった。
頼康は、風雅の道にも秀でていた。
「新千載和歌集」・「新拾遺和歌集」・「新後拾遺和歌集」など、
勅撰和歌集にも多くの歌を残している。
光秀にとって、土岐頼康は憧れの人だった。
光秀の明智氏は、土岐氏の一族。
頼康は、その全盛期を築いた人物。
一族の誇りであった。
光秀が、その名を知らぬわけがない。
幼い時から、幾度となく、聞かされたことだろう。
光秀には、頼康と相通じるものがあった。
光秀は、文武両道の人。
武人としてのみならず、風流の道にも通じていた。
正しく、土岐頼康と同じではないか。
心の支えとしていたものと思う。
土岐氏は、土着性のきわめて強い一族だった。
土岐氏は、鎌倉期に、美濃に土着した。
そして、天文の終わり頃、斎藤道三によって、土岐頼芸が追放され、
その美濃支配は終焉した。
すなわち、土岐氏は、1200年代から、1500年代にかけて、
300年以上の長きに亘って、美濃に君臨していたのである。
土岐氏は、一族の結束が強かった(桔梗一揆)。
その間に、多くの庶流が枝分かれし、美濃の各所に定着して、
「土岐一揆」といわれる強力な武士団を形成した。
これが、土岐氏の軍事力の中核となった。
土岐氏の家紋は、「桔梗」。
それ故、「土岐の桔梗一揆」とも呼ばれた。
土岐氏は、一族の数が多い。
明智氏・浅野氏・饗場氏・池田氏・石谷氏・一色氏・揖斐氏・今峰氏・
植村氏・大桑氏・大竹氏・小里氏・金山氏・金森氏・神戸氏・島田氏・
菅沼氏・仙石氏・高山氏・妻木氏・遠山氏・蜂谷氏・原氏・肥田氏・
深沢氏・舟木氏・世保氏・・・・・等々。
明智氏も、その様な家の一つだった。
土岐氏は、清和源氏。
摂津源氏の流れ、美濃源氏の嫡流家。
室町幕府の重鎮。
濃・尾・勢、三ヶ国の守護家。
正に、名家名門。
光秀の体内には、土岐の血が脈々と流れていた。
光秀は、土岐明智氏の出。
旗印は、水色桔梗。
光秀の誇りだった。
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