本能寺の変1582 第171話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第171話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
信長は、京へ向かった。
同日、夜のことだったと云う。
後日、信長が毛利元就に送った書状には、「帰洛の途中」に、「別心」の
報せがあった、とある。
これでは、順序が逆。
話の辻褄合わせにすぎない。
一、浅井備前守(長政)、別心し、色を易(か)うるの由、
帰洛の途中へ告げ来たり候、
また、信長は、浅井長政は己の家臣。
すなわち、君臣の関係にあった、と言っている。
これは、如何なものか。
彼ら儀、近年、別して、家来にせしむるの条、
深長、隔心なく候ひき、
不慮の趣、是非は無き題目に候事、
(「毛利家文書」「七月十日付毛利元就宛信長覚書」一部抜粋)
浅井長政の本意。
長政は、信長との親戚関係よりも、朝倉義景との、古くからの同盟関係
の方をを重んじた。
だが、果たして、それが、長政の本意だったのだろうか。
父久政の存在もある。
また、古参の重臣たちの中には、保守的な者、朝倉氏に近い者たちも
数多くいたものと思う。
若き長政には、先が見えた。
それ故の織田との縁組だった。
しかし、長政が、信長を重視すればするほど、そこには、当然、軋轢
が生じて来る。
己の信念を貫くことが、家中の対立を生み、そのために軍事力が低下
して、やがて、浅井は、衰滅する。
長政は、当主として、何としても、それを回避せねばならなかった。
そこに、信長との、決定的な違いがあった。
家中統率力が、まだ未熟だったように思う。
結局、長政は、彼らに迎合する道を選択した。
戦力を保持するためには、そうする他なかったのである。
一寸先は、闇。
何が起きるかわからぬ時代だった。
一手違えれば、そこは地獄。
信長の配慮。
長政は、賢明な男。
信長は、好ましく思っていた。
義弟を高く評価していたのである。
「あの男ならば」、・・・・・。
そのような思いで見ていたのだろう。
猜疑心の強い信長としては、きわめて珍しいことであった。
おそらく、そのことが、越前侵攻作戦の根底にあったのではなかろうか。
朝倉義景は、不倶戴天の敵。
なれど、・・・・・。
浅井氏は、北近江の覇者。
京へ向かうためには、その支配地を通らねばならなかった。
信長としては、長政に対して、それ相応の配慮を示したつもりだったの
だろう。
触状*は、送っている。
だが、越前侵攻については、参陣を求めていない。
「言わずとも、わかるはず」
信長流の心配りだったように思う。
だが、しかし、・・・・・、である。
その長政が、裏切った、・・・・・。
長政は、まだ、知らない。
信長の性格を。
一、裏切り者は、決して赦さず。
一、執念深く、執拗なのである。
恐ろしい男だった。
*【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小 162
信長は、近隣諸国の大小名へ触状を発した。「二条宴乗記」
朝廷は、信長の戦勝を祈願した。
同日。
京は、無事平穏。
朝廷と信長の関係は、きわめて良好だった。
事件のことなど、知る由もなし。
廿八日、乙丑(きのとうし)、天晴、小雨灌、
禁裏御三間(おみま)に於いて、
五常楽急(雅楽)百返、八幡御法楽(奏楽奉納等)これ有り、
信長、御祈祷歟(か)、
五反両度、三反両度、十六反なり、
次、太平楽急(舞楽)、二反これ有り、
御所作、箏(こと)、
親王御方、同、
四辻大納言、面箏、
予、笛、
持明院宰相、笙(しょう)、
四辻宰相中将、箏、
橘以継、篳篥(ひちりき)、等なり、
(「言継卿記」)
【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小 168
朝廷は、戦勝祈願の準備をすすめていた。「言継卿記」
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