本能寺の変1582 第169話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第169話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
信長の言い分。
信長は、初めから、越前に攻め込むつもりだった。
武藤友益は、そのための隠れ蓑(みの)。
真の狙いは、朝倉義景。
以下の書状は、それに至った経緯の説明。
すなわち、軍事行動の正当化。
言い分である。
一、彼の武藤は一向に背かざるのところ、
越前(朝倉)より、筋労(圧力)を加え候、
遺恨繁多に候の間、直ちに越前敦賀郡に至って発向候、
(朝倉)手筒山・金前(崎)両城を踏まえ相支え候ひし、
時刻を移さず、
先ず、手筒山に攻め上り、即ち、乗り入れ、
数百人を討ち捕り、落居候、
金前(崎)城に、朝倉中務大輔(景恒)楯籠るの間、
翌日、攻め破るべき覚悟に候のところ、
懇望の間、用捨を加え、追い出だし候、
両城、共に以って、存分に任せ候、
(「毛利家文書」「七月十日付毛利元就宛信長覚書」一部抜粋)
信長は、義景が武藤友益を煽動した、と言っている。
「非」は義景にある、との理屈であった。
言いがかり・こじ付けに他ならない。
しかし、それにも増して、強い理由があった。
「遺恨繁多」
遡れば、織田氏も朝倉氏も、先祖は足利氏の有力一門、越前守護、斯波氏
の被官だった。
ともに、その守護代の家柄。
先祖の時代から、ライバル関係にあった。
そもそも、それが出発点。
そして、美濃と越前は互いに国境を接している。
信長は、『天下布武』を標榜し、西の隣国、近江の浅井氏と同盟、上洛を
果たした。
そして、南の隣国、伊勢を攻め、これを手に入れた。
また、東の隣国、信濃の武田とは、友好関係にある。
「力こそ正義」 → 「領土拡大」
これが、信長の信念。
となれば、次のターゲットは、当然、北の隣国越前の朝倉氏となる。
したがって、それは宿命だった。
信長にとって、越前侵攻は既定路線。
義景は、生かしておけぬ相手だったのである。
「国中御乱入なすべきのところ」
同二十六日。
金ヶ崎城、降伏。
疋壇城、落城。
幷(ならび)に、金ケ崎の城に、朝倉中務大輔(景恒)楯籠り候。
翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、
色々降参致し、退出候。
引壇の城、是れ又、明け退き候。
則ち、滝川彦右衛門・山田左衛門尉両人差し遣はされ、
塀・矢蔵引き下ろし、破却させ、
(『信長公記』)
織田軍は、木の芽峠を越え、越前平野に雪崩れ込もうとしていた。
すなわち、「国中」=くになか、へ。
太田牛一は、そう、言っている。
木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、
(『信長公記』)
「国中へ行に及ぶべき候と雖も」
信長は、後日、元就に、次のように説明している。
毛利から、敦賀は見えず。
外交上の牽制とはいえ、何とも、威勢のいい、都合のいい話である。
則ち、国中へ行(てだて)に及ぶべき候と雖も、
備・播表へ出勢の儀、内々、約諾申すの条、
時宜示す合すべきために、
金前には番手を入れ置き、先ず帰洛候つる事、
(「七月十日付毛利元就宛織田信長覚書」「毛利家文書」一部抜粋)
国中への侵入について。
信長は、誰よりも猜疑心が強く、用心深い。
それ故、ここまで生きのびた。
朝倉・浅井の動勢、未だ、定かならず。
信長にとって、これが最大の関心事であったはず。
光秀もまた、このことを警戒していた。
「越州口幷に北郡、何れも以って別条の子細これなく候」
それらに対する状況掌握・確認等が不十分だったように思う。
このような局面で、はたして、「国中」へ突入するだろうか。
「国中御乱入」・「国中へ行」、とある。
だが、これを鵜吞みにしていいものか。
「無謀」、・・・・・。
疑問が残る部分である。
【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小 166
光秀は、浅井長政の動向を警戒していた。
信長は、まだ気づいていない。
同じ頃。
京。
信長から、書状が届いた。
おそらく、二十六日に書いたもの。
金ヶ崎城を修築するため、大工・鍛冶等を送れ、とある。
信長は、まだ、気づいていない。
越前の儀、日々、沙汰ども有るの間、弾正忠宿へ罷り向かふ、
留守の衆、
島田但馬守・佐藤三川入道・猪子外記入道・鷹師衆等、雑談、
福角・森伝兵衛・毛利河内守等、討死、と云々、
(中略)
信長自筆状、到来、と云々、金之崎之城、渡すの間、作事すべく、
番匠・鍛冶・をか引等七十人計(ばか)り、下すべの由、これ有り、
と云々、
(「言継卿記」四月二十九日条)
⇒ 次へつづく 第170話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前