本能寺の変1582 第163話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第163話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
正月二十三日、信長は二つのことを実行した。
一、五ヵ条の条書。
一、触状。
光秀は、一月の大半を岐阜で過ごした。
おそらく、十日過ぎ~月末頃まで。
朝山日乗が、そうだったのだから。
日乗は、一月十四日、岐阜に居たと思われる。
そして、二十九日には、京にもどっている。
二十九日、丁酉(ひのととり)、天晴、天一天上、
次、日乗上人木(小)屋へ罷り向かひ、扇一本、これを遣はす、
(「言継卿記」)
光秀は、信長の心の奥深くに入り込んでいた。
光秀は、洞察力に優れていた。
信長の心を掴むのに巧みだった。
ブレーン、・・・・・。
否、懐刀、・・・・・。
おそらく、そのような立場だったのではないだろうか。
案文の作成にも、深く関与していたものと思う。
信長は、日乗に知行を与えていた。
信長は、日乗に、伊勢にて千石を扶持している。
すなわち、日乗は、信長の家臣になっていた。
これが、信長流。
六日、戊寅(つちのえとら)、天晴、
辰の刻(8時頃)、日乗上人、濃州より上洛、
木屋へ罷り向かふ、
勢州に於て、千石知行、
馬鞍・轡・天目ようへん・刀・同脇差各のしつけ、
織田弾正忠信長、これを出すと云々、
(「言継卿記」永禄十二年七月六日条)
光秀は、信長に傾斜していた。
光秀の思い入れは、義昭へではなく、信長の方へ大きく傾いていた。
光秀は、義昭に対する忠義心が薄い。
光秀は、義昭の家臣。
なれど、信長へ。
・・・・・。
これが、当時の風潮。
光秀には、それが出来た。
身軽だった。
光秀は、新参者。
細川藤孝とは、明らかに、異なる立場。
「不忠」
後世の人々の目には、そう映った。
時代が変われば、風潮も変わる。
光秀は、信長の家臣になった。
おそらく、日乗同様、扶持を与えられていたものと思う。
これまでの流れ、また、以後の展開等から、そう、判断した。
つまり、一方では(表向きは)、義昭の家臣でありながら、
もう一方では(実質的には)、信長の家臣でもあった、
わけである。
この様な変則的な状況が、これ以後、元亀三年1572まで続く。
義昭の方にも、メリットがあった。
当時の義昭は、全面的に、信長に頼っていた。
幕府の存立は、信長有らばこそ。
信長無しには、夜も日も明けぬ状態だった。
光秀は、その繋ぎ役。
キーパーソン。
信長との良好な関係を保持するための最重要人物だった。
すなわち、義昭ー光秀ー信長、三者三様、それぞれにメリットがあった。
だが、やがて、そのバランスが微妙に崩れていく。
光秀は、幕府の奉公衆に出世した。
同、二十六日。
山科言継は、年始の挨拶廻りに出かけた。
この日は、以下の面々。
歴々の中に、光秀の名がある。
今や、幕府高級官僚の一人。
廿六日、甲午(きのえうま)、雨降る、未の刻より晴れ、天一﹅﹅、
未の下刻(15時頃)より、奉公衆方へ、年頭の礼に罷り向かう、
路地次第、
竹内治部少輔、濃州へ下向と云々、
三淵大和守(藤英)、同弥四郎(秋豪)、
一色式部少輔(藤長)、曾我兵庫頭(助乗)、
明智十兵衛、濃州へ下向と云々、
摂津守、下京大和治部少輔(孝宗)、
同朽木刑部少輔(藤綱)、酒有り、
竹田法印、同治部卿、荒川與三(輝宗)、三福寺、清和院、
眞下式部少輔、疋田弥九郎、父入道出合、松林院等なり、
(「言継卿記」)
光慶が生まれるのは、この頃である。
最早、かつての貧乏人にあらず。
【参照】16光秀の雌伏時代 1光秀と越前 154
光秀は、内外から、一目置かれる存在になった。
義昭家中においても。
また、公家衆たちの間でも。
⇒ 次へつづく 第164話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
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