本能寺の変1582 第176話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第176話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
信長は、無事、京に入った。
四月三十日。
信長は、朽木経由で京に着いた。
朽木→京、距離、凡そ50km。
しかも、山中路。
夜、遅かったと云う。
四月晦日、朽木越えをさせられ、
朽木信濃守馳走申し、
京都に至つて御人数打ち納めらる。
(『信長公記』)
卅日、丁卯(ひのとう)、天晴、
弾正忠信長、亥の下刻(23時頃)帰陣と云々、
(「言継卿記」)
光秀は、若狭から、京に帰った。
五月六日、雨降る。
光秀と丹羽長秀は、若狭の武藤友益から人質を受け取った。
この日、針畑越えにて、無事、都に到着。
則ち、武藤上野守母儀(ぼぎ)を人質として召し置き、
其の上、武藤構へ破却させ、
五月六日、はりはた(針畑)越えにて罷り上(のぼ)り、
右の様子言上候。
(『信長公記』)
六日、癸酉(みずのととり)、雨降る、
(「言継卿記」)
朝倉・浅井軍との間に、戦いはなかった。
フィクションに、惑わされてはいけない。
朝倉・浅井軍との間に、戦いがあったとの事実は、未だ確認されて
いない。
むしろ、戦いらしい戦いはなかったのではないかと思う。
討死・負傷者等の被害についての記述も見当たらない。
つまり、織田方は、朝倉・浅井側に、つけ入る隙を与えなかった。
それほど、見事な撤退だった。
信長の逃げ足の速さを見れば、それが分かる。
家臣どもも、急ぎ、主君の後を追ったものと思う。
グズグズしていれば、後で何を言われるかわからない。
裏を返せば、朝倉・浅井勢の動きが鈍重だったということ。
すなわち、光秀の見通しが的中した、・・・・・。
ということも、できるのではないか。
それ故、光秀は、若狭へ行くことが出来た。
〃 、人質を回収することが出来た。
〃 、武藤構へを破却させることが出来た。
〃 、京に帰ることが出来た。
〃 、秀吉も、無事だった。
〃 、池田勝正も、同。
斯くして、信長の反撃が始まった。
同、元亀元年1570。
六月、姉川の合戦。
九月、本願寺の参戦す。
十二月、志賀の陣。
信長は、生涯最大の窮地に追い込まれた。
元亀二年1571。
八月、江北に出陣。
九月、叡山焼討。
光秀、志賀一郡を拝領す。
坂本城、築城開始。
元亀三年1572。
三月 江北出陣①
光秀、琵琶湖西岸、木戸・田中をせめる。
七月 〃 〃 ②
光秀、明智水軍の活躍。
八月 前波吉継、降る。
十二月 武田信玄、参戦。
三方ヶ原の戦い。
元亀四年1573
正月 義昭、謀叛を企てる。
異見十七ヶ条。
二月 光秀、近江石山・今堅田を攻撃す。
三月 信長、出陣。
細川藤孝・荒木村重、臣従す。
四月 上京放火。
五月 信長、佐和山にて大船をつくる。
七月 義昭追放。
近江高島郡攻撃。
光秀、木戸・田中両城を拝領す。
天正元年1573 七月二十八日改元。
八月 越前侵攻。
朝倉氏、滅亡。
浅井氏、滅亡。
⇒ 次へつづく 第177話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
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