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本能寺の変1582 第52話 9光秀という男 1フロイスの証言 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第52話 9光秀という男 1フロイスの証言 

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光秀は、兵法に精通していた。

 光秀は、勤勉家。
 努力の人だった。
 話が合うのだろう。
 信長が重用した一因でもあった。

  また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を
  深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、

光秀は、信長の天下統一事業に大いなる成果を上げた。

 フロイスは、光秀を敵対視している。
 そのことを割引いて解釈すべきである。

  ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、
  あまり謀略(という手段を弄すること)に精通していない信長を
  完全に瞞着し、惑わしてしまい、

信長は、褒美として、志賀一郡・丹波一国を与えた。

 これについては、後述する。

  信長は彼を丹波、丹後二ヵ国の国主に取り立て、
  信長がすでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入
  ━━━それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した━━━
  とともに彼に与えるに至った。
                           (『日本史』)

光秀は、度々、主を変えている。

 以下は、光秀の主人の変遷である。

  人生の前半部分       →        後半部分
  土岐氏 → 牢人時代 → 細川藤孝 → 足利義昭 → 織田信長
 
 
これらについては、後述する。

光秀は、主替えによって立身出世した。

 光秀の人生の後半部分。
 信長と、ともにあった十五年。
 光秀は、彗星の如く輝いた。

  土岐氏家臣 → 牢人 →  中間  →  足軽  → 国持大名

 これらについては、後述する。

光秀は、忠義心が希薄だった。

光秀は、下剋上の人だった。

 元亀四年1573、将軍義昭を追放=下剋上。
 天正十年1582、信長を殺害=下剋上。
 明々白々である。

 これらについては、後述する。

光秀は、立身出世のために主君を利用した。

 その様な見方も出来る。

 信長は、「天下布武」のために、有能な光秀を利用した。
 その結果、あれ程の短期間で、ここまで成し遂げることが出来た。
 光秀の貢献度は、大きい。

 光秀は、信長の熱い思いを、よくよく理解した上で、
 これに、残りの人生の全てを賭けた。
 否、信長を利用した。
 その結果が、今、この時の状況なのである。

 なるほど、立身出世はした。
 「持てる者」には、成った。
 なれど、「悩みは、尽きず」、・・・・・。

 二人は、互いに、利用し・利用される関係にあった。
 しかし、蜜月の関係は、いつまでも、続かない。

 これらについては、後述する。


 ⇒ 次へつづく 第53話 9光秀という男 2立入宗継の証言  



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