おもいかえせば、"本当に楽しいことをしているとき"は、自分の挙動など省みていない。対象と一体化しているのだ。鏡をみるとき、カメラで自己を映すときほど、なにかに困っていて、迷っているときなのだ。ここは盲点でもあった。答えは、すぐ其処に有る。だから一緒に楽しいことをしようではないか?
おもいかえせば、自己をふりかえり、省みるときなど、おおかた何かに悩んでいるときであった。つまりは、そんなときに、鏡をとおして、"ほんとうのじぶん?"、を見つめたところで、いやになって、失意にまみれてしまうのも当然のことなのだ。
亡父は普通の勤め人だったが、ちゃんとその後。自分が亡き後の諸々について一筆を認めてくれた。大変にありがたかった。親の役目の1つであろう。認めた頃、わたし達にざっともしてくれた。約1ヶ月後に自宅で大吐血、数か月後に帰らぬ人になったから、自分の死期を悟っていたのかも知れない。
宇宙の記憶はアカシックレコードに完璧に保存されてるか知らんけど、人間の記憶は実にええ加減で、特に自分に都合の悪い記憶はきれいさっぱり消されてしまったりする。全身の細胞は数年で全部入れ替わるらしいから、それも無理もないか。忘れたと言わせんように、本人に自筆で一筆書かせとくべきやな。