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ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 『望郷』 : 戦前ロマン主義フランス映画の代表作

映画評:ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『望郷』1938年・フランス映画)

いま見ると「?」となる作品ではないかと思う。少なくとも私は、そう感じた。

ジャン=リュック・ゴダールに興味を持ち、彼の作品を理解したいと考えたため、ゴダールに代表される戦後フランスの映画運動「ヌーヴェル・ヴァーグ」にも注目し、その「ヌーヴェル・ヴァーグ」が敵視した「戦前フランス映画の巨匠」の一人として、私は、ジュリアン・デュヴィヴィエに注目した。

また、デュヴィヴィエは、私が好きな作家・中井英夫が好んだ映画作家で、中井のエッセイに何度か言及されていたため、映画自体は見たことはなくても、デュヴィヴィエという特徴的な名前とその作品名については、ぼんやりとながら記憶に残っていたのだ。だから「戦前フランス映画の巨匠」の中でも、まずデュヴィヴィエから見ることにしたのである。

ちなみに、「Wikipedia」によると「戦前フランス映画の巨匠」とは、次のようになる。

『彼(※ デュヴィヴィエ)は古典フランス映画のビッグ5の1人である。他の4人は、ジャック・フェデージャン・ルノワールルネ・クレールマルセル・カルネである。』

(Wikipedia「ジュリアン・デュヴィヴィエ」

「ヌーヴェル・ヴァーグ」を主導した映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』において、「戦前フランス映画の巨匠」の「誰が・どのように」批判攻撃されたのか、その細かいところまでは、私はまだ把握できていないのだが、この5人全員が攻撃されたというわけではないようである。

例えば、ジャン・ルノワールなどはむしろ、『カイエ』誌出身の「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちからも「師と仰がれ」て持ち上げられている。
マルセル・カルネは、1968年のフランソワ・トリュフォーやゴダールなど「ヌーヴェル・ヴァーグ」のカイエ派作家たちの主導した「カンヌ国際映画祭粉砕事件」における「シネマテーク擁護委員会」に所属していたから、彼らとは良好な関係にあったと見て良いだろう。

(「カンヌ国際映画祭粉砕事件」での、ゴダールとトリュフォー)

ルネ・クレールについては、

『戦前から戦後を通じて「最もフランス的な映画作家」として世界的な名声を博したことは広く知られていよう。しかし、やがて「ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ばれる若い世代の映画作家たちの台頭とともに、その栄光にも翳りが見え始め、円熟の境地を示す『リラの門』(57)などを手がけた後、監督としてのキャリアは『みやびな宴』(65)をもって終わることとなる。
(中略)
とかく誤解されがちだが、ヌーヴェル・ヴァーグは、より正確にはその中核を担った『カイエ・デュ・シネマ』誌の批評家出身の映画作家たちは、必ずしもクレールの映画をそれ自体の価値において批判したわけではない。なるほど、クレールもまた守旧的な映画作家の代表格として彼らに退けられはしたが、そうした論調の起点をなしたトリュフォーの評論「フランス映画のある種の傾向」(54)では、「良質のフランス映画の伝統」を担ってきた高名な監督たちや脚本家たちが激烈な調子で指弾される中で、なぜかクレールの名は一度も挙げられていない。また、『リラの門』評で、クレールを「既に歴史の内に入った」映画人と呼んだロメールも、後年、映画評論集「美の味わい」(84)を上梓した際には、巻頭に付したインタヴューの中で、自身が映画批評家として活動していた時期以外は一貫してクレールを称賛していたことを明かしている。さらに、ゴダールも幾度か、『巴里祭』をきわめて高く評価する言葉を述べており、瑞々しい魅力を湛えた初期の『女は女である』(61)を同作に捧げてもいるのである。』

(武田潔「今、クレールと出会えることの歓び」

とあるから、「ヌーヴェル・ヴァーグ」たちから「古い」と批判されたのは事実だが、作品そのものや、その作家的手腕を否定されたわけではなかったようだ。
では、ジャック・フェデーはどうかというと、この人はもともと1948年に亡くなっており、『カイエ・デュ・シネマ』が1951年の創刊だから、批判の対象ではなかったろう。

だとすれば、『古典フランス映画のビッグ5』のうちで、生前に「作品」そのものに対して、厳しい批判に晒された人がいるとすれば、それはジュリアン・デュヴィヴィエだということになるのではないか。
もちろん、「古いフランス映画」作家は、なにも「ビッグ5」には限られてはいないから、この5人以外にも批判に晒された人も少なくはないだろうが、デュヴィヴィエが「カイエ派」の批判に晒されたというのは、ほぼ間違いないようだ。

ところで、言うまでもないことなのだが、「批判」をすること自体は、決して悪いことではない。むしろ、批判があってこそ、その対象は健全たりえる。
だからこそ私も、映画評論家の山田宏一「日本における、フランソワ・トリュフォーの御用評論家」と評している。私としては、これは「事実を即して、その好ましくない行状を批判してただけ」なのだが、世間一般的には「苛烈な痛罵」といったことになるだろうし、無論そのことを自覚しながら、あえてこのような表現を使っているのだ。

だが、こうした「批評」としての「痛罵」や「酷評」と、悪意ある「誹謗中傷」とは、当然のことながら別物だ。
そこで、問題となるのが、『カイエ・デュ・シネマ』誌における評論家時代に、最も戦闘的だったとされるフランソワ・トリュフォーが、戦前の「古い」映画作家を批判するのに、その「身体障害」まで論ったという、ゴダールの証言である。

『トリュフォーみずから編集して出版した映画批評集(「わが人生の映画たち」)にかつてトリュフォーが、「フランス映画の墓掘り人」の異名をとるに至った批評の数々(ジャン・ドラノワとかクロード・オータン=ララといった監督を名指しで攻撃し、「連中の肉体的欠陥をあげつらうことさえ」した文章)をまったく削除してしまったことも「不誠実」以外の何物でもない、等々……とゴダールの仮借なき(※ トリュフォー)攻撃は執拗に果てしなくつづく』

これは、私が言うところの「日本における、フランソワ・トリュフォーの御用評論家」である山田宏一の著書『友よ映画よ、 わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』からの引用で、要は「歴史的事実」は消せないから、この事実自体は山田も否定しないのだが、当然のことながら、この文章は、次のように続いて、毒消しがなされている。

『のだが(ゴダールの言葉の引用はすべて奥村昭夫訳、「映画史I/Ⅱ」による)、なんだか、だんだんいじましくみじめな気持ちにおちこんでくるので(それに、トリュフオーがひたすら映画の歓びと快楽を描き、ゴダールがひたすら映画の苦しみと痛みを描く方向に走ったという、ふたりの作品行為の対比はまた別の問題になるはずだから)、このへんでゴダール/トリュフォーの内輪喧嘩の話はやめておこう。』

つまり、トリュフォーの「身障者差別」問題を、『ゴダール/トリュフォーの内輪喧嘩の話』に矮小化してみせているわけだが、このあたりが、「日本における、フランソワ・トリュフォーの御用評論家」である山田宏一の「日本における、フランソワ・トリュフォーの御用評論家」たる所以だと、そう言えるのである。

ともあれ、戦後派の若者を代表する、最も先鋭な批評家であったフランソワ・トリュフォーの「批評性」とは、所詮、このようなものであったということだ。
私が先日鑑賞した、トリュフォーの第2作(第2短編)である『あこがれ』でも、次のようなシーンがあって、トリュフォーの評論家としての「資質」が、よく現れている。

『(※ 主人公の子供たちの一人である)子どもがジャン・ドラノワ監督の『首輪のない犬』の主題歌を口ずさみながら、そのポスターを破るシーンがあるが、その映画の脚本を担当したジャン・オーランシュとピエール・ボストは、批評家時代のトリュフォーが毛嫌いしていたコンビである。』

(Wikipedia「あこがれ」

こんな人が、のちには「愛の映画作家」などと持ち上げられ、そのイメージがかなりのところ定着するのだから、「世界のトリュフォー派評論家」の手腕を評価すべきなのか、それとも「映画ファンなんて、所詮はチョロい」ものだと言うべきなのか。一一まあ、どっちも、ということなのではあろう。

さて、もともと映画ファンではない私は、まだ今のところ、『古典フランス映画のビッグ5』のうちで、デュヴィヴィエについては本作『望郷』を含めて5作と、ジャン・ルノワールの代表作『大いなる幻影』を見ているだけである。したがって、他の3人の作品は、まったく見てない。

また、先に名前の挙がった、ジャン・ドラノワクロード・オータン=ララの作品も、まだ1作も見ていないのだが、仮に、この二人の作品が、どんなに凡作駄作であったとしても、いずれにしろ、トリュフォーの「身体障害者差別」である誹謗中傷は許されないし、短編『あこがれ』での「悪意ある嫌がらせ」も許されるべきではないだろう。
世間並みの常識を欠いた「映画ファン」は許しても、この私は許さない、ということだ(公式に、きちんと謝罪しているのなら許そう)。

(フランソワ・トリュフォー監督「あこがれ」より)

だが、トリュフォーのやり口はともかくとして、「カイエ派」がデュヴィヴィエを否定的に評価したのは間違いないようなので、では具体的に、デュヴィヴィエの何をどのように否定的に評価したのか、そのあたりを具体的に知りたいと思い、私はデュヴィヴィエの作品を、まずは見ているのである。

で、その現時点での暫定的結果はと言うと、デュヴィヴィエの場合も、たぶん映画作家として「下手」だから批判されたのではないという印象が強いし、それは戦前日本での高い評価からしても、まず間違いのないところだろう。
戦前フランスの映画作家は、5人しかいなかったというわけではないから、明らかに『古典フランス映画のビッグ5』の一人であるデュヴィヴィエは、国内外で評判の良かった映画作家なのだ。

つまり、デュヴィヴィエが「カイエ派」に批判されたのは、基本的には、

(1)映画(自体)が古臭い。
(2)映画の作り方としての、撮影所システムへの安住が、けしからん(それでは、若手の出る幕がないじゃないか)。

という2点であったようだ。

つまり、どちらも「若者の新しい感覚に、活躍の場を分け与えよ」という「パイの取り分闘争だった」と言えるのである。
特に(2)の方は、露骨のそうであるし、この点については、のちにゴダールも認めるところで、要は、映画監督になりたい若者たちが、年寄りたちから映画監督という特権的な立場を奪うための、業界政治的な「下剋上」としての「椅子取りゲーム」を仕掛けた、ということだったのである。

だが、真の問題は、(1)の方だ。
「昔の映画は古臭い(から見てられない)」というと、多くの人は「そのとおり」だと考えるのではないだろうか。
「古いよりは、今風に新しい方が良いに決まっている」「映画も進化するし、進歩すべきものである」というような考え方だ。一一しかし、これは、それほど簡単な話ではない。

例えば「古臭いが、よくできた作品(傑作)」と「新しいことが試みられているが、それだけが取り柄の凡作」の、どちらに価値があるのか、という問題である。

この設問に、適切に答えられる人は、そう多くはないはずなので、先に正解を示しておこう。正解は「どっちとも言えない」である。

つまり、作品を「完成度」ということで評価すれば「古臭いが、よくできた作品(傑作)」方が、価値があるに決まっている。
しかし、「映画史」的な観点からすれば、後者である「新しいことが試みられているが、出来としては凡作」の方が「映画史における貢献度の高さ」において、「高く評価されるべき」作品だということになるのである。
つまり、「評価軸」をどこに置くかによって、評価は変わってくるということであり、言い換えれば「新しい方が、良いに決まっている」とは言えない、ということなのだ。

例えば「人間は、この地球における生物進化の最先端、最上位の存在であり、最も進化した生物である。したがって、人間は最も価値のある生物であり、その意味で、人間には、他の生物を自由に評価し、自由に利用する権利がある」という考え方は、ほんの少し前までは「当たり前」だったのだが、今や、こんな考え方は、人間の「独善」でしかないと、そう考える人が少なくない。そして、こうした考え方(「必ずしも、人間が最も価値ある生物だとは言えない」という考え方)こそが、今や「最も新しく、進化した考え方」なのである。
だから、「新しい方が、良いに決まっている」という考え方は、その考え方自身によって否定されてしまい、深刻な「自己矛盾」に陥るわけなのだが、一一「ヌーヴェル・ヴァーグ」が素晴らしいとか言っている人たちは、はたして、この理路が追える程度には、脳が進化しているだろうか?

そんなわけで、「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」は、「映画史」的には「価値を有する」ものではあるけれど、「新しいから素晴らしい」作品だということにはならない。
その「洗練への試み(努力)が素晴らしいだけ」で、前述のとおり、「新しいから、優れている」という保証などないので、「新しさが売りの、凡作・駄作」といった作品も当然たくさんあるし、そもそも「実験」の大半は、失敗するものなのだ。
SF作家シオドア・スタージョンが、次のように言ったとおりなのである。

『SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである。』

当然のことながら「ヌーヴェル・ヴァーグ(映画)の9割もクズ」なのである。
そして、そんなこともわからないのは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンの9割が、「新しがり屋」なだけの「見る目のないクズ(権威主義者)」だからなのだ。

したがって、カイエ派が戦前の巨匠たちを批判したからといって、戦前の巨匠たちの作品は「古いからダメだ」などと思い込んでしまうような者は、単なる馬鹿なのである。
もちろん、馬鹿にも映画を見る権利もあれば評価を語る権利もあって、私はそうした人たちを「差別」はしないから、見る権利も語る権利も保証しよう。
だが、彼らが「馬鹿」であるという「評価」は、差別ではなく「根拠を示しての否定的評価」なので、私がこのように酷評したからと言って、トリュフォーや山田宏一なんぞと、一緒にされては困るのである。

さて、そんなわけで、映画を「色眼鏡」では見ないし、単細胞にも「新しさだけで評価する」わけでもない私としては、どうして「巨匠」と呼ばれたデュヴィヴィエが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」には否定されたのか、その理由を、実際に作品にあたって、自分の目で確認することにした。
「ヌーヴェル・ヴァーグがそう評価したから、そうなんだろう」などという頭の悪い「右に倣え」などに倣う気はなかった。それしかできないような連中とは違って、私には、目もあれば頭もあるからだ。

さて、「私が、デュヴィヴィエ作品を鑑賞する理由」についての説明が、少々長くなってしまったので、本作『望郷』についての評価は、できるかぎり手短に済ませよう。
一一じつのところ、私にとって肝心なのは、本作『望郷』の作品評価ではなく、「作品評価(批評)という行為についての、基本的な考え方」の問題の方なので、こうなったのも必然ではあるのだが。

 ○ ○ ○

本作『望郷』は、1938年の作品であり、日本では「1939(昭和14)年キネマ旬報ベストテン1位」に輝いた作品である。「Wikipedia」にも、

『日本では彼(※ デュヴィヴィエ)の作品が戦前から異常なほど人気があり、映画史研究家ジョルジュ・サドゥールによれば、「この監督は、東洋の一小国だけにおいて、熱烈な観客がいる」と言わしめているほどであった。現在では、フランス本国においても正当な評価を受けている。』

(Wikipedia「ジュリアン・デュヴィヴィエ」

ということで、今の日本人映画ファンよりも、戦前の日本人映画ファンの方が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」による「偏見」がなかった分、デュヴィヴィエ的な「ロマンティシズム」を、素直に評価しえたのだと、そう考えるべきだろう(ついでに言っておくと、サドゥール先生の「自分は文化先進国の一員」だといった、鼻持ちならないエリート意識も気に入らない)。

しかしながら、そんな「ヌーヴェル・ヴァーグ的な(業界政治的な)偏見」は、祖国フランスでもさすがに弱まってきた、ということではないだろうか。
なにしろ「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品自体、今の目で客観的に見れば「これのどこが凄いの?」と言いたくなるような「歴史的(に古くなった)作品」も少なくない。
なにしろ半世紀も前の「古いブーム」なんだから、そんなものに、いつまでも固執している「ヌーヴェル・ヴァーグ」信者など、戦前のフランス映画を評価できる人間以上に、今や「古い」とも言えよう。

また、フランス映画界における「ヌーヴェル・ヴァーグ」にあやかり、必然性もないのに「オシャレ」ぶって、何でもかんでも「ヌーヴェル・ヴァーグ」と表現したがるような者は、救いがたい「権威主義の田舎者(文化的田吾作)」だと呼んでもいいだろう。
日本人なのだから「新しい波」とか「新しい潮流」とでも言え、とまでは言わないが、当たり前に「ニュー・ウエーブ」と言えばいい。つね日頃はフランス語になど縁のない者が、「新しい波」についてだけは、必然性もないのに「ヌーヴェル・ヴァーグ」という言葉を使いたがるというのは、はっきり言って「馬鹿の証明」でしかないのである。

話を戻そう。

本作『望郷』は、前記のとおり、日本での公開時には大好評を博した作品である。だから、それなりに「名作」なのだろうと思ってみたのだが、結果は「?」だった。

少なくとも、今の価値観だの、それに基づく論理的な理解だのからすれば、登場人物の行動が「奇妙」なものと感じられて、話の展開が読めず「どうしてそうなるの?」という疑問を、何度も感じざるを得なかった。
私が見た、デュヴィヴィエの5本の中で、唯一「理解不能」だった作品であり、どうしてこの作品が、かつての日本でウケたのかも、頭を捻らなければ、理解できなかったのである。

本作の「あらすじ」は、次のとおり。

『(※ 今はアルジェリアの首都である、フランス領であった頃の)アルジェの一角にあるカスバは路地が入り組み、諸国からの流れ者が集まる無法地帯となっている。フランス本国から逃れた悪名高い泥棒ペペ・ル・モコ(ギャバン)は、もう2年近く隠れており、いつしかそこの顔役となり、情婦イネス(ノロ)、忠実だが若く思慮の浅い子分ピエロ、短気で金のことしか頭にないカルロス(ガブリオ)らに囲まれながらも、威信にかけて逮捕に臨むフランス警察の追及も厳しく、カスバから一歩も出ることが出来ないでいる。一方、地元の敏腕の刑事スリマン(グリドウ)は、ペペと普段から会う奇妙な関係を保ちながら、カスバの住人を敵に回すことを避け、ペペがカスバから出る逮捕のチャンスを窺っていた。

そんなある日ペペは、逮捕を狙ったフランス警察の捜索(もちろん、逮捕は失敗)のどさくさで、カスバを訪れた故国の女性ギャビー(バラン)と知り合い、彼女に惹かれる。これをチャンスと見たスリマンは、ギャビーとペペの逢瀬の手引きをし、2人は恋仲になる。しかしスリマンの策略により、ギャビーはペペが死んだと教えられ、パリに帰ることにしたため、後を追おうとしたペペはまんまと波止場におびき出されるかっこうになり、客船に乗り込んでギャビーを探しているところを逮捕されてしまう。手錠をかけられ連行されるペペはギャビーの乗る客船を空しく見送る。そのとき、ギャビーが甲板に姿を現した。彼女に向ってペペは「ギャビー」と叫ぶが、その声は汽笛にかき消されてしまう。ペペは隠し持っていたナイフで腹を刺して死ぬ。』

(Wikipedia「望郷 (1937年の映画)」

(映画の中のカスバ)
(カスバのセット)
(現在のカスバ)

つまり、予備知識なしにこの映画を見ると、最初は、エキゾチックかつ迷宮的な町カスバに潜伏している伊達男の大泥棒ぺぺと、彼を逮捕しようとするフランス警察との対決ものかと思ってしまうのだが、そうはならない。
たしかに、そうした状況が、物語の背景として描かれるのだが、この映画のメインは「伊達男の大泥棒ぺぺと、故国フランスの首都パリの匂いを強く漂わせる旅行客の美女ギャビーとの、恋愛と別れ」を描いた、言うなれば「悲恋もの」なのである。

(左から、ギャビー、ぺぺ、スリマン)

で、もともと「恋愛もの」が苦手な私は、このぺぺという男が、ほとんど理解不能であった。
あちこちに愛人を作っており、カスバでもイネスという愛人と2年も暮らしていながら、「そろそろお前との生活にも飽きた。いや、この町での生活に飽きたってことだ。ここから出ていきたい」などということをぬけぬけとを口にしたりする。
今なら、間違いなく共感の得られない「ひどい男」を、当時の人気俳優である若きジャン・ギャバンが、伊達男らしくカッコよく演じている、はずなのだが、私には単なるキザ野郎としか思えず、まったく共感ができない。

そんなカスバに、こちらも金持ちおやじの愛人として同行してきた美女ギャビーが、危険な匂いを漂わす若いぺぺと相思相愛になって、二人でカスバを去ろうとする。
だが、地元の敏腕の刑事スリマンの策略で、ぺぺが死んだと思い込まされたギャビーが、豪華客船でパリに帰ろうとしたところ、そのことを知らされたぺぺが、彼女を追って豪華客船に乗り込むのだが、イネスがぺぺを引き止めるために、警察に通報し、ぺぺはギャビーを見つける前に逮捕され、船から降ろされる。
そして、スリマンに「逃げないから、船を見送らせてくれ」と言って、ぺぺが波止場の鉄柵越しに出ていく船を見送っていると、たまたまギャビーが甲板に姿を見せたので、ぺぺは思わず「ギャビー!」と叫ぶのだが、運悪くその声は船の汽笛にかき消されて、ギャビーに届くことはなく、失望したぺぺは、その場で自殺してしまう。一一と、こういうお話なのである。

(ぺぺは乗船してギャビーを探すが、会えないまま逮捕される。これは昔らしい、絵に描いたようなすれ違いシーン)

要約すれば「ぺぺとギャビーのすれ違いの恋愛悲劇」ということになるのだが、私からすれば、ぺぺは鼻持ちならないキザ野郎で、しかもイネスの真情を踏み躙って、そのことに気づきもしないクズ野郎でしかない。また、そんなうわべだけの男に惚れる、都会の美女ギャビーも、いかにもいけ好かない、とり澄ました女だ。
したがって、二人の恋が成就しなかったのも、そうなって然るべきあり、ザマーミロとしか思えない。こいつらは、都合よく幸福になどなるべきではないのだ。

(ギャビーを演じたミレーユ・バラン。昔のクールビューティーといったところか)

また、伊達男の大泥棒であるはずぺぺが、ギャビーと一緒に旅立てなかったというだけで自殺するなんて、予想外でもあれば「こいつ馬鹿か」としか思えず、このラストシーンに、私はまったく感情移入できなかったのである。

言い換えれば、私の視点は、徹頭徹尾、健気で可哀そうなイネスの側にあったのだ。
一一で、現代の観客の多くは、たぶん私と同じように感じるのではないかと思う。

では、どうして、こうした作品が、1938年当時の日本で特にウケたのかといえば、それはたぶん、この制作年が「第一次世界大戦」(1914年〜1918年)と「第二次世界大戦」(1939年〜1945年)の大戦間期であり、第二次大戦の直前だったからではないだろうか。

つまり、本作の前年に作られたジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』が、「迫りくる戦争の影」を描いた深刻な内容の作品だとすれば、本作『望郷』は、そうした暗い現実から逃避するために作られた「ロマンティックな娯楽作品」であり、フランスでは、その両方が戦前期に作られ、戦後には、当然、前者が絶賛されたのだが、それに対し、第二次大戦前の日本は、ヨーロッパ諸国とは違い、第一次大戦における前代未聞の惨禍を経験しなかったも同然で、大陸に「満洲国」まで作って支配していたのだから、むしろ「さらなる戦争大歓迎」の能天気状態だったために、こうした「ロマンティックな娯楽作品」を、なんの屈託もなく呑気に楽しめた、ということなのではないだろうか。

それと、もうひとつは、戦前は、フランスも日本も「男尊女卑」が当たり前だったから、多くの日本人映画ファンは、女性でさえ、イネスに同情するよりも、ぺぺのかっこ良さに惹かれ、かっこいいぺぺと美女のギャビーの「すれ違いの恋愛悲劇」に、素直に酔うこともできたのではないだろうか。

(ギャビーを追って町を下りようとするぺぺを止めようとするイネス)

したがって、フェミニズムの洗礼を受けて「男女平等・男女同権」が当たり前の今の日本人が、本作を見て「?」と思ってしまうのは、要は、この作品が「不出来だから」なのではなく、「時代の常識が変わった」から、理解不能な作品になってしまったと、そういうことなのではないだろうか。

つまり、本作『望郷』は、今の目で見れば「古い」し「理解不能な失敗作」に見えるけれども、「歴史的」に見れば「当時としては、とてもよくできた(エンタメの)傑作」ということになるのであり、だからこそ当時は評判も良かった。

そして私が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の傑作として名高い、トリュフォーの長編デビュー作である『大人は判ってくれない』を、今どきの映画マニアほど高く評価しないのも、同作に多くのファンが感じるのであろう「ロマンティシズム」が、所詮は、本作『望郷』と同様、「被害者目線を欠いたもの」でしかないと、そう感じるからなのである。

つまり、『望郷』が、被害者であるイネスの視点を欠いて、もっぱらぺぺの視点に同化し得たが故に、当時としては「ロマンティック」たり得たのと同様、『大人は判ってくれない』が傑作だと思えるのは、主人公である少年アントワーヌの主観に同化して作品を見るだけだからであり、彼による窃盗被害者などの視点を、完全に欠いているからなのだ。だから、ぺぺに対するのと同様に、もっぱらアントワーヌ少年に感情移入することも可能なのである。

したがって、『望郷』が「物事を客観的に見る視点を欠いている」という点において、今となっては「古臭い作品」なのであれば、『大人は判ってくれない』もまた、同様の理由において、今や「古臭いの作品」なのである。
『望郷』が「当時の感覚からすると傑作」だというのであれば、『大人は判ってくれない』も「当時の感覚からすると傑作」であるに過ぎないのだ。

そして、基本的には「今の自分の価値観」で作品を評価する私としては、『望郷』は無論『大人は判ってくれない』も、所詮は「感覚の古い(歴史的な)作品」でしかない。
まあ、「昔の人」や「頭の進化が、半世紀も前に停止したままの人」には、無条件に「面白い」のかもしれないが、一一ということになるのである。



(2024年8月11日)

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