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ステファン・テメルソン 『缶詰サーディンの謎』 : どちらが「本物」なのか?
書評:ステファン・テメルソン『缶詰サーディンの謎』(国書刊行会・ドーキー・アーカイブ8)
いろいろと裏切られて、とても面白い作品だった。本書は、マニアックな翻訳書を刊行することで知られる国書刊行会の、その中でも「ドーキー・アーカイブ」叢書の1冊として刊行されたもの。
「ドーキー(dorky)」という形容詞は、日本語にすると「ばかな,まぬけな;変な」というようなことになるが、その元となるスラングの「Dork」は「風変わりでダサい人のこと」を指すそうだ。
つまり、「ドーキー・アーカイブ」とは「決して一般ウケはしないであろう風変わりな作風の作品を集めた文書庫」というほどの意味なのだが、一一そう言われればやはり、気になるではないか。
とはいえ、私は昔から「変わった作品」に惹かれて、そういうものによく手を出したものの、結果として「合わなかった=楽しめなかった」作品も少なくなかった。
「シュールレアリスム文学」や「ポストモダン小説」といった、「実験小説」あるいは「前衛小説」と呼ばれるものに興味を持つのだが、文句なしに「面白い」というものには、なかなか当たらない。
それらの作品がダメだというのではなく、結局のところ、私の趣味とは合わないことが多かっただけなのだ。
なにしろ私は、「変わったものが好き」でありながら、しかし「人間が描けた文学」が好きだという、ある意味では、相反するような特性を持つ小説を求めていたので、これらを両立させているような小説など、滅多になくて当然だったのである。
だから、この「ドーキー・アーカイブ」叢書も、本書で8冊目になるようだが、趣味ではなさそうなものを避けた結果、これまでに購入したのは、本書を除けば、2016年刊行の、シャーリイ・ジャクスンの『鳥の巣 』だけ。しかもこの本の作者については、あらかじめどんな作風の作家かをおおよそ知っていたので、純粋に「変わった作品」として買ったわけではなく、同著者の訳書はたいがい購入していたので、これも買った、というだけの話である。また、そんなわけで、ほとんど買ってはいるわりに、読んだのは文庫本1、2冊ではないかと思う。要は、おおよそは知っているから、「ひとまずどんな作風かを確かめたい」ということにもならず、「いま読まなくてもいい」と後回しにされた著者の本だったのである。
ところが、本書は、まったく知らない作者であった。どうやら、小説については本邦初紹介作家の作品ようである(絵本の翻訳はある)。
しかも、帯に次のように気になる言葉が並んでいた。
『チェスタトン✕ウィトゲンシュタイン÷ゴンブローヴィチ=テメルソン
炸裂する黒いブードル場弾、二人のダンシング・ガールズ、
天才少年の秘められた数式ノート、そして缶詰サーディンの謎……
ポーランドの前衛作家による奇妙天烈な哲学ノヴェル!
〈意味による支配の打倒を標榜するこの珍妙無類な
ノンセンス哲学SFミステリ奇想小説の行間を読んではいけない〉若島正 』
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言うまでもなく、タイトルの『缶詰サーディンの謎』と言うのは、エラリー・クイーンの「国名シリーズ」(『ローマ帽子の謎』など)を連想させるもので、本格ミステリファンである私の目を、否応なく惹きつけた。
そこへ、「ブラウン神父シリーズ」のチェスタトン、変人で知られた哲学者のウィトゲンシュタインの名が挙がり、ゴンブローヴィチは読んだことはがないが、本作は『意味による支配の打倒を標榜するこの珍妙無類なノンセンス哲学SFミステリ奇想小説』であり『行間を読んではいけない』小説だというのだから、これはもう私には到底、無視し得ない作品だ。
『行間を読んではいけない』と言われれば「読み解いてやろうじゃないか」となるのが、私だからだ。私は「文学」読者であると同時に、人間の心にかかわる「謎解き」の好きな、「本格ミステリ」ファンなのである。
クイーンやチェスタトンに代表される「本格ミステリ」とは、言うまでもなく「意味的な整合性」を至上価値とする特種文学。そうした「本格ミステリ」風のタイトルや、それも捩った登場人物名、「ミステリ風の不可解な事件」や「哲学的な会話」が登場するにもかかわらず、『意味による支配の打倒を標榜』し『行間を読んではいけない』小説だと言うのなら、言うなれば、私の守備範囲のど真ん中の「アンチ・ミステリ」である蓋然性が極めて高い。
「アンチ・ミステリ」とは、簡単に言えば、あえて「意味のユートピアとしての本格ミステリ」のかたちを借用し、最終的にはその「虚構性」を暴くことで、「現実」を逆照射する態の小説のことである。
つまり本作も、「意味ありげな物語」でありながら「最終的には、その意味が溶解して、正解の与えられない物語」なのではないかとの予想を立てたのだが、これまで私が読んできた、翻訳ものの(つまり海外の)「アンチ・ミステリ」的な作品というのは、残念ながら、期待はずれな作品が多かった。と言うか、期待通りの「傑作」というのは、ひとつもなかったのではないだろうか。
私が「アンチ・ミステリ」的な作品に惹かれるようになったのは、ごく若い頃に、日本では「三大奇書」とか「四大奇書」などと呼ばれる、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』、竹本健治『匣の中の失楽』を読んだからである。
これらを読んだ時の「あの、至福の時間をもう一度」と思う気持ちが、いつまで経っても消えないので、それっぽい作品が刊行されると、つい手を出してしまうのだが、その期待が満たされたことは、ついぞなかったのである(ちなみに、そうとは思わずに読んで、その系統の作品だったので面白かったというものなら、1冊だけある。それは、あまり評判にはならなかったが、「神学ミステリ」と銘打たれていた、エリエット・アベカシスの『クムラン』だ)。
そんなわけで、期待はするものの、さんざんその期待を裏切られてきた私だったので、本作『缶詰サーディンの謎』についても、「アンチ・ミステリ」というほどのものは期待せず、「ちょっと変わった小説で、楽しませてもらえればいいかな」程度の気持ちで読み始めたのだが、これが期待以上に、面白かった。
前述のとおり、本作は「形式」としては「本格ミステリ」を踏襲したものになっている。
例えば「章題」や「登場人物表」は、次のような具合だ。
第一部
一 彼の瞳の色
二 本当の地球
三 黒いプードル
四 大使、元帥、そして第三の領域
五 質問に答えない方法
六 車椅子
七 哲学者と数学者
八 〈ダンシング・レディーズ〉
九 カサノヴァ大尉
第二部
十 ヒマラヤスギの小箱
十一 些末大臣
十二 公理は不滅ではない
十三 オッカムの剃刀
十四 ユークリッドはマヌケだった
十五 塵と同じくらい年老いて
十六 「あらゆる川は海に流れこむ、しかし海はけっして満ちることはない……」
結び 彼の脚注のためのサーディンは一匹も見つからず
主な登場人物
バーナード・セント・オーステル
アン 彼の妻
ジョンとピフィン 彼らの子供
マージョリー バーナードの秘書
ティム・チェスタトン=ブラウン
ヴェロニカ 彼の妻
エマ 彼らの娘
ミス・プレンティス 手相占い師
ポール・プレンティス師 彼女の兄
イアン 彼女の息子
ピェンシチ将軍 イアンの父(この人物の詳細については、本書と同じ作者による小説『ピエンシチ将軍、あるいは忘れた使命の事件』を参照)
デイム・ヴィクトリア アン・セント・オーステルの母(「ディム」は男性の「サー」にあたる女性の称号)
サー・ライオネル・クーパー 彼女の異母兄
レディ・クーパー 彼の妻
パーシヴァル・W・クーパー
ユゼフ・クシャク 「些末大臣」
カサノヴァ=ブリッジウォーター大尉
ミスター・マクファーソン
サリー 彼のガールフレンド
ドクター・ゴールドフィンガー ズッパ公爵夫人の友人でありペレトゥーオ枢機卿(この人物の詳細については、本書と同じ作者による小説『ペレトゥーオ枢機卿』を参照)の友人
その他 ミセス・ピエンシチ。ドクター・ブジェスキ。ビル(新聞配達の少年)。ミスター・ニューマンと彼の「姪」。大使。大使の執事。警官たち。刑事たち。女子修道院長。判事。ミセス・マスグレイヴ。ドン・ホセ・マリア・ロペス。スペイン人司祭。フランス人女性。ドイツ人女医。ミスター・アダムチク(おかかえ運転手)。ミスター・ミレク(ヘリコプター操縦者)。ミスター・クルパなる人物(パリのアメリカ人)。そして「気ちがい帽子屋」。
こんな具合で、章題の方では、明らかに「本格ミステリ」好みの「象徴的(思わせぶり)」なものや「理屈っぽい」ものが多いし、登場人物表もその形式に沿っているのだが、その一方、登場人物表の「その他」の部分は、いささかやりすぎで、このあたりに作者の「揶揄」が感じられないでもない。
この後の「物語展開」は、典型的な「本格ミステリ」のそれではないとしても、大筋では「ミステリ」的だとは言えるだろう。
『(略)冒頭、何やら「憎しみ」を抱えた男が描かれる。読んでいくと、彼が著名な作家であり、ロンドンで仕事をし(秘書と浮気をし)、週末だけ田舎の家族のもとで過ごすことが分かってくる。だが、読者がこの作家に馴染んだころ、彼はあっさり死んでしまう。残された妻と秘書がでてくる。二人の女性は恋に落ちて、マヨルカ島に移住し、ホテルで美しいダンスを踊って(ダンシング・レディーズ)として評判になる。一人の青年が訪ねて来て、死んだ作家の瞳の色について質問する。
ここで章が変わり、哲学者とその妻と娘が出てくる。奇妙だが幸福そうな夫婦の会話(妻は地球が贋物だとじている)、そして親子の会話から、この小説の時代設定は、東西冷戦が何度目かに激化し、核戦争の恐怖がリアルに感じられた一九八〇年代初頭だとわかってくる。やがて、先の青年とともに一匹の黒いプードルが現れると哲学者の運命は暗転する。プードルが突如爆発し、青年は死亡、哲学者は下半身不随となる。どうやらこの爆弾をしかけたテロリスト一味に、さきの作家の娘が加わっていたらしい。娘は仲間に連れられて、隠れていた祖母の家から逃げ出し、祖母はひとり残される。
大怪我をした哲学者は妻と娘エマとともにマヨルカ島へ保養に行く。妻は旧知の(ダンシング・レディーズ)と居心地の悪い交流をつづけ、一方、哲学者が知り合った数学の天才少年イアンはエマに恋をしているらしい。イアンの母はシングルマザーの女占い師、父親はロンドンに亡命していたポーランドの将軍だという。
その後、舞台はポーランドに移る。女占い師がヘリコプターから空中に遺灰を散布する場面から始まり、遡ってそこに到る経緯が語られる。政界の影の実力者が、旧知の婦人に頼まれて便宜を図ったらしい。そこには政治的な思惑も絡んでいるようだ。
あちこちで脱線して、マイナーな登場人物のエピソードが語られるかと思えば、ときどき、街学的・思弁的な長広舌が入る。そして物語に見え隠れする謎の男、サーディンの缶詰工場を探す「気ちがい帽子屋」(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』の登場人物)……。』
(大久保譲「訳者あとがき」P319〜320)
この「あらすじ」を読んでも、まだ「謀略ものの要素が入った本格ミステリかな?」という感じを受けるだろうが、この小説が「本格ミステリ」的な「意味のユートピア」とは正反対の方向を目指すものであることは、冒頭付近の、登場人物たちによるいくつかの会話から、すでに明らかに感じられる。
というのも、そうした会話には、「本格ミステリ」の世界を構成するために必要な「論理的リアリズム」は無く、むしろ、日常会話的に「非論理的」なのだ。会話が、完全には噛み合ってはおらず、微妙にズレている。
こうした世界では、そもそも「本格ミステリ」の厳格に論理的な世界は成立しにくい。誤解やすれ違い、勘違いが当たり前に頻発する世界では、厳密な推理が不可能だからである。
一一だが、私たちの日常会話というのは、だいたいそのようなものなのではないかと、そう感じさせる「リアリズム」が、ここで描かれる会話にはあって、その意味では、積極的な「ナンセンス」はむしろ感じられず、もっと静かな「わかり合えなさの哀しみ」のようなものが、そこには、そこはかとなく漂っている。
『 二人は家のポーチに立って、しばらく黙ったまま打ち寄せる波を眺めていた。やがて彼女は目を上げて言った。「ほら、地球が昇ってくる! きれいね!」
ぼんやりした円形が水平線を離れ、ゆっくりと青空に昇っていく。
「実際は、本物の地球じゃないけどね」彼は言った。「あれは本物の地球が反射した蜃気楼、
鏡像だ」
「そうなの?」
「そうとも」
「ふうん、あれが本物の地球の鏡像なら、その鏡像のもとになった本物の地球はどこにあるの?」
「僕たちがいるのが本物の地球さ」彼は答えた。
「どうしてそんなことがわかるの?」
「わかるんだよ。直感で」
「そんなこと言うなら、わたしは直感で、わたしたちのほうこそ鏡像だって思うわよ」
「それじゃあ議論は行き止まりだ」
「そんなことない。わたしの直感にはちゃんとした裏づけがあるんだから」
「へえ、そうなんだ」彼はにやりと笑った。
「本物の地球には本物の論理がある、これは認めるでしょ」
「論理に本物も偽物もあるかな。そもそも、鏡像で形は反転するけど、論理は反転しないだろう」
「ありふれた平らな鏡ならそうだろうけど」彼女は言った。「でも、わたしたちの場合は、普通の鏡に本物の地球が映ってるわけじゃないから。わたしたちの鏡はいつも熱を帯びているの。一分前には凹面だったり円筒形だったり釣鐘形だった部分が、凸面になったりするのよ。本物の地球の像が、うねうねした鏡面で踊り、反転し、ゆがみ、いくつもに分裂する……あなたは新聞を読む、あなたはラジオを聴く……」』(P30〜31)
このように、本作は「オーソドックスな本格ミステリと見せかけておいて、最後に裏切る」という、翻訳ものによくあるタイプの「アンチ・ミステリ」ではなく、むしろ日本的に言うなら「純文学」作品に近い感触があって、「シュールレアリスム文学」や「ポストモダン小説」といった「実験小説・前衛小説」などに感じられる、いささか気負ったような「積極的な攻撃性」ではなく、むしろ、そうした「攻撃性」を静かに拒絶しているような、一種の「保守的な防衛意識」のようなものが、「前衛的なもの」に対する「抵抗の身振り」として表現されている、といった感じなのだ。
例えば、次のようなセリフには、「本格ミステリ的」な「つじつま合わせの完全性」への反発が見て取れる。
『「ねえ、エゼフ」彼女は言った。「秘密警察のゴシップ担当部門が優秀なのはよくわかった。だけどそんなこと、ミス・プレンティスや一握の灰が入ったヒマラヤスギの箱に関係あるの? 関連のないいろんな出来事や、無関係の事実や、あちこちに散らばっている人々についての情報を山ほどあつめたところで、なんの意味があるというの? 隠れた関係だろうとあからさまな関係だろうと、全部をつなぎ合わせることなんてできないのに」』(P182〜183)
このような、作中人物の口を借りた、作者のものであろう「現実認識の吐露」によって、私の中で徐々に強まっていった「この作者は、理屈で物事を割り切ろうとすることの傲慢さに、反感と嫌悪を感じている」という感触が、間違いないものと確信できたのは、次の描写を読んだ時である。
『「ユゼフ……」
「なんだい?」
「あなたはもっとスケールの大きな仕事ができる才能の持ち主のはず。どうしてこんなふうにちっぽけでつまらない問題ばかり引き受けているの?」
こう尋ねたとき、彼はすでに巨大な手を彼女にかけて、お別れのキスをしようとしているところだった。質問を受けて、彼は手をズボンのポケットに引っこめた。さっきもてあそんでいた紐の切れ端に、また触れているのだろうか?
「OK」彼は言った(英語で「オー、カー」と発音した)。「君にはわたしの本当の動機一一〝信念〟と呼んでもいい一一を教えてもいいだろう」彼はドアの枠にもたれかかった。頭は戸口の上辺に触れていた。「オーカー」彼は繰り返した。「いいかい。まず、わたしが引き受けないタイプの依頼を教えよう。例えば、消防士が親指を火傷したと泣きついて来ても、わたしは追い返す。『めそめそするな。自分がどんな仕事に就いたかわかっているはずだ。火事に遭わないという条件で消防隊に入ったわけじゃないだろ?』それから、秩序の名のもとに〝くそ〟という単語を検閲で削られたと詩人が愚痴っても同じことを言って追い払うし、自由の名のもとにレンガで頭を殴られたという軍人、芝居小屋で調刺されるのが不愉快だという大臣、闘争的だという理由で訴追されることになった反体制派なんかも同じこと。それがある程度の年齢の人間なら、わたしはさらにこう付け加える。『君が権力を握っていたころ、他人に同じことをしただろう?』若い相手にはこう言う。『いつか権力を握ったら、君だって他人に同じことをしたいだろう?』……」彼は文を途中で止めるように口をつぐんだ。
「君は同意してくれるかな」彼は尋ねた。「われわれが〝倫理的なふるまい〟と呼ぶような行為はときとして道徳よりも趣味の良さに関わっている、ということに」
「ええ、もちろん」
「一部の人々はそういう趣味の良さを身につけている。おそらく、本来は大部分の人間に生まれつき備わっているものなんだろう。それが、考えたり感じたりしすぎて、いつしか失われてしまうんだ」彼はふたたび口をつぐんだ。「ちょっと説教くさいかな」
「ちっとも。話を続けて。今、あなたが引き受けないタイプの依頼を教えてくれたわね。じゃあどんな依頼なら引き受けるの?」
彼は躊躇した。どんな言葉を使えば誤解されないだろうか判断しかねているようだった。
「普通じゃない事態が普通の人々に影響する場合だよ」彼はやっと口を開いた。「普通の人々」彼は繰り返す。「あるシステムのために戦ったわけでも祈ったわけでも投票したわけでもないのに、そのシステムの歯車に捕らえられてしまった普通の男女のことだ。滑稽な言い草かね?
滑稽に聞こえるとしたら、それは一一と彼女は考える一一この超巨大な象のような男が、笑われはしないかと怯えるように、静かな声でおずおずと話しているせいだ。彼は言葉を切って彼女の答えを待っている。
「ちっともおかしくないわ。続けてちょうだい」
「わかった」彼は話を再開する。「さて、あらゆるシステムには三つの要素が組み込まれている一一聖職者、軍人、雇い主。システムが完全に完全な場合、こんなことが起こりうる一一ある男が、聖職者や軍人にOKと言われたからではなく、自分がOKだと納得しているからOKだという状況だとして、そこで雇い主が支払いを拒否するかもしれない。つまり男はシステムの機械じかけに搦めとられてしまったわけだ」
「で、あなたはその男を助けようとする……」
「イエスでありノーだ!」彼は強く否定した。「そんな簡単な話じゃないんだ。わたしは人道的活動をするわけじゃない。慈善じゃないんだ。カルカッタのマザー・テレサじゃないんだ!」こう言いながら、彼は自分の性質の中のまったく異なる側面をあらわにしてしまったことに気づいていた。そうなって嬉しいのか、それともやはり隠しておきたかったのか? 内面で燃えているものを冷ますように、彼は大きく息を吸うと、ほほえんでみせた一一それがおおらかな微笑なのか皮肉な微笑なのか、判然としなかったけれど。「いいかね」彼は静かに続けた。「完全なシステムはけっして完全ではありえない。完全であるためには、システムは不完全でなけれはならない。ちょっとした腐敗、ちょっとした賄路、ちょっとした偽善、ちょっとした贔屓、ちょっとした脅迫は、むしろ有益なんだ。そういったもののおかげで、完全なシステムにちょっとした不完全さが加わり、そうして開いた小さな窓から新しい変化が飛びこんできて、きれいに整いすぎた庭に種を植えつける。それがなければ、運よく開いた小さな不完全さの窓がなければ、完璧に計画されたシステムは硬直してしまう。そして硬直したものはすべて、最後には大混乱に陥ってしまう。小さな窓がなければ、たった一つのささいな事実が、組み立てられた巨大な理論を崩壊させてしまうことだってある。計算上は無視できるような極小のもの、つまりごく世末なできどとが、聖職者や軍人や雇い主が池に投げとんだ小石が一一無意味なほど小さな小さなさざ波を立て、それが一人の小さな一般人の心には大きな波を立てるのだが一一全システムに想定外の倍音、増加した振動、重なり合う反響をもたらし、そこから大混乱がなだれこんでくる」
「だからあなたにこういうことをさせるのね!」とレディ・クーパー。
「誰が? 誰が何をさせるって?」
「お偉方よ」
「何をさせるんだ?」
「些末なものの救出作業。当局がそういうことをさせるのは、あなたの言うとおり、あなたがカルカッタのマザー・テレサのような聖人だからじゃない。そういう仕事をさせるのは、あなたがシステムの罠にかかった一般人のためじゃなく、システムのために働いているからなんだわ」
「マザー・テレサだって同じだよ」と彼は言った。「彼女は彼女のシステムを守るためにやっているんだ。だからといって、彼女の慈善活動の価値が下がるわけじゃない」少し考えてから、彼はゆっくりと話を続けた。「われわれはみな、最も完璧なシステムの美しい設計図と、実際には矛盾に満ちた世界一一〝大きく、雑多なものを含む〟との世界とのあいだで捕らえられているようなものだ」』
(P202〜206、太字強調は引用者)
ここを読めば、何となく理解してもらえるだろうが、「読めばわかるでしょう」では、あまりに不親切なんで、少し解説をすることにしよう。
(1)『「いいかい。まず、わたしが引き受けないタイプの依頼を教えよう。例えば、消防士が親指を火傷したと泣きついて来ても、わたしは追い返す。『めそめそするな。自分がどんな仕事に就いたかわかっているはずだ。火事に遭わないという条件で消防隊に入ったわけじゃないだろ?』それから、秩序の名のもとに〝くそ〟という単語を検閲で削られたと詩人が愚痴っても同じことを言って追い払うし、自由の名のもとにレンガで頭を殴られたという軍人、芝居小屋で調刺されるのが不愉快だという大臣、闘争的だという理由で訴追されることになった反体制派なんかも同じこと。』
これはどういうことかと言えば、自分がなすべきことと決めたことについては、その結果、自分が傷ついたからといって、ぐずぐず言うなと言うことであり、なぜそのように言うのかといえば、「消防士」でも「作家」でも「政治家」でも、それはそれぞれに「やり甲斐のある仕事」であり、だからこそ「それ相応のリスク」も伴っていて、当然だからである。
ところが、多くの者が、その「リスク」を考えることもなく、自分は「並外れた仕事」をしているのだからと、ただ「他者からの称賛」だけを求めて、考えてもいなかった「リスク」としての「怪我」や「批判」などといったものに晒された際に「自分はこんなに立派なことをしているのに、どうしてこんな不当な目に遭わされなければならないのか!?」などと嘆くのは、そもそもの心得違いであり、そうした「立派な仕事」は、そんな卑小な人間が担うべき仕事ではなかったのだと、「些末大臣」の異名を持つユゼフは、そのように考えているのだ。
つまり、自分が傷つく覚悟もないような、身の丈に合わない「大きな仕事」など、安易に引き受けてはならない。できないことはできないと認める態度こそが、己を知った上での、人間の謙虚さだと、ユゼフは言いたいのだ。
「だから、自分は、些末な問題にしか関われない。大きな責任など、担えないからだ」ということであり、言い換えれば、世間には、それがわかっていない馬鹿が多すぎて、無責任に大きな仕事を引き受けては、世の中をおかしくしていると、そう言いたいのである。
(2)『それがある程度の年齢の人間なら、わたしはさらにこう付け加える。『君が権力を握っていたころ、他人に同じことをしただろう?』若い相手にはこう言う。『いつか権力を握ったら、君だって他人に同じことをしたいだろう?』……」彼は文を途中で止めるように口をつぐんだ。』
つまり、自分の身の程をわかっていないような人間が「大きな仕事」を引き受けると、それがうまくいかなかった時には、必ず、自分では責任を取ろうとはせず、周囲の者に責任を押しつけたり、うまくいっていないという事実そのものを否認して無理を通そうとし、その結果、他の人に迷惑をかけたりしがちだ、ということだ。
言い換えれば、世の権力者の多くが「横暴」になるのは、その人物が、殊更に「悪党」であったり「無能」であったりするからではなく、「自分の力量を勘違いした凡人」だからであることが少なくない、ということなのだ。またその功名心から、身の程を知らない「大事業」に飛びつくような軽薄な若者は、えてして、自分が批判していたような人物に、自分もなってしまいがちだ、ということなのである。
(3)『「君は同意してくれるかな」彼は尋ねた。「われわれが〝倫理的なふるまい〟と呼ぶような行為はときとして道徳よりも趣味の良さに関わっている、ということに」』
これは、人間としての、「正しい(正義)ふるまい」ではなく、「倫理的なふるまい」というのは、時として「道徳的に正しい」とされるような「わかりやすい」態度ではなく、むしろそういう、わかりやすく評価されやすい「派手なふるまい」を慎んで自制するような「趣味の良さ」に関わっているのではないか、ということである。
具体的に言えば、「金儲けをして、大金持ちになりたい」「有名人になって、人から尊敬されたい」「出世して、他人を動かして大きな仕事がしたい」とかいうことは、うまくいけば「世の中のためになる」から、それ自体は間違いだとは言えないのだけれども、しかし、それを「凡人」がやろうとした時には、前述のとおり、その「無理」を他人に押しつける結果となることが多いし、そういう人はやがて、そうしたことも「当然だ」と思うようになりがちなのだ。
だから、自分がそうなったときに、責任を負いきれるような器ではないと思うのであれば、最初から、そういう立場には立たないという自制心を持っている者の方が「趣味の良い」生き方なのではないか。他人を犠牲にしてまで、何かを得ようとするような生き方は、決して「美しい」ものとは言い難いからである。
一一そして、このように説明すると、多くの人は「同感だ」と言うのかもしれないが、作者の思いに沿って忌憚なく言うならば、そんな「趣味の良い人」など滅多にはおらず、むしろ「俺が俺が、私が私が」の世界が、今の現実なのではないだろうか?
とにかく「目立ちたい」「褒められたい」「チヤホヤされたい」「有名人になりたい」という欲望が、今ほど強まっている時代も、他にはないと、私には思える。
ひと昔前であれば、特別に際立った才能や美貌でも持たないかぎり、多くの人は「市井の片隅」で「目立たない一生」を送るのが、ごく当たり前のことであった。
例えば、何か主張したいことがあっても、せいぜい「新聞や雑誌の投書欄」への投書などが関の山であり、それがたまに採り上げれば御の字で、無論、それによって「言論人」や「評論家」などの「有名人」になれるわけではなかった。
そうなるためには、勉強をして良い大学を卒業して「新聞社」に勤めるとか、「大学教授」などの知識人になるとか、「作家」デビューするなどして、雑誌などに原稿が載るような、ごく人数の限られた立場を得ないかぎり、情報発信の機会など無いに等しかったのだ。
ところが、インターネットが普及し、多くの人がSNSで自由に発信できるようになると、「うまくやれば、有名になれるかも」という意識と欲望が当然強まるから、それを目指す人もまた途方もなく増える。つまり、発信のチャンスは得たものの、同じような競争者の方も増えるから、その中を勝ち抜いていくというのは、並大抵のことではない。一一だとすると、どうなるか。
結局は「ウケるためなら何でもする」という態度が一般化するのである。平たく言えば、ウソもつけばズルもする、そんな人間が増え、そんな態度が正当化されるようになる。
言い換えれば、「心にもないことは言えない」とか「そんなおべんちゃらは恥ずかしい」などという「趣味の良さ」を持っていたのでは「勝ち抜け」られなくなる。せいぜい、「些末大臣」とあだ名されたユゼフのような立場にしか立ち得なくなる。イーロン・マスクのような「勝者」にはなって「表舞台に立つ」ことなど、金輪際できないのだ。
そして、今の世の中は「勝てば官軍」で、勝者は、その中身を問わず賞賛される。だが、「本当に、それでいいのか?」一一ということなのである。
例えば、ここでも、私の「身近な話題」に引きつけて説明すると、こうなる一一。
「武蔵大学の教授」でフェミニストの北村紗衣は、歴史学者の呉座勇一が、Twitter(現「X」)の「鍵付きアカウント」で自分の悪口を言っているのを知ったので、呉座を懲らしめるべく、自身を「女性蔑視の被害者」と位置づけ、呉座を「女性蔑視の差別者」だとして、公然と批判した。
その言い訳のしようもない告発的批判に対し、呉座は自身の社会的立場を守るためもあって、しぶしぶながらも謝罪した。だが、北村紗衣はそれでは満足せず、さらに「見せしめの晒し物」にして痛めつけてやろうと、呉座勇一を名指しにした「オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」」を、フェミニズム活動家の友人知人や出版関係者に働きかけ、賛同者千数百名の署名を集めて公開した。
そこでは「こうした差別者と席を同じくすることで、差別を容認するような文化は考え直されるべきだ」という趣旨のアピールをして、間接的ながら、さらに呉座を追い詰め、結果としてのその仕事まで奪い、呉座の息の根を止めるようにして、社会的に「キャンセル」したのである。
つまり、北村紗衣らは、「フェミニスト」として「女性差別者」に「正義の制裁」を加え、それを見せしめにすることで、同様の「差別者」を震え上がらせ、抵抗不能にしようと、そんなかたちで、自分なりの「正義」を行使した、つもりだったのである。
ところが、これが「やり過ぎ」ではないかとの批判を招いてしまった。
たしかに、「オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」」は、文面だけを見るならば、呉座勇一への個人攻撃が目的ではなく、呉座を「一例(具体例)として挙げただけ」と言って言えない形式になってはいた。
だが、このオープンレターの目的が、本当に「一般的な女性差別に関する批判的アピール」なのであれば、「個人名」を出す必要はなかったのである。
だから、あえてそこに、呉座勇一ひとりの名前を挙げたのであれば、そこに呉座個人への制裁的意図があったと見られるのは当然で、その「千数百人による袋叩き」の結果、すでに「陰口悪口」の事実については謝罪していた、無抵抗の呉座の仕事までをも奪ったのあれば、それは「やり過ぎ」と言われて当然のことだったのである。
「ヘイト発言」は、確かに悪いし、許されるべき行為ではない。しかし、そういう人物なら「殺してもかまわない」と、そう言うのか? 一一という話なのである。
一方、「反女性差別のフェミニスト」として「正義」を掲げ、「差別者」を攻撃し、ある意味では想定した以上の成果をあげてしまったがために、結果としては「弱い者イジメの袋叩き(バッシング)」という形になってしまった北村紗衣ら「オープンレター」の面々は、途端にあわて始め、「そのつもりはなかった」と言い訳を始めた。
しかしそれは、所詮「保身的な自己正当化」でしかなく、自らの「やりすぎ」を、反省して認めるものではなかったから、自らの「過剰防衛=過剰反撃の罪」を認めることもないまま、オープンレター公開後1年をもって、その使命は果たされたとし、その内容(アピール内容・発起人名・署名者名)をすべて削除して、具体的に何があったのかを分からないようにしてしまった。
だが、そもそも、たったの一年で「女性差別」が解消されるするわけでもなければ、社会の意識が変わったわけでもない。
はっきりとした成果は、呉座勇一が職場を追われたという事実だけなのだから、逆に「オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」」は、「それが目的だったとしか思えない」と批判され続けることにもなっているのである。
さて、ここでこの事例を持ち出したのは、これがまさに、先の(1)に、わかりやすく該当するものからだ。
(1)『「いいかい。まず、わたしが引き受けないタイプの依頼を教えよう。例えば、消防士が親指を火傷したと泣きついて来ても、わたしは追い返す。『めそめそするな。自分がどんな仕事に就いたかわかっているはずだ。火事に遭わないという条件で消防隊に入ったわけじゃないだろ?』それから、秩序の名のもとに〝くそ〟という単語を検閲で削られたと詩人が愚痴っても同じことを言って追い払うし、自由の名のもとにレンガで頭を殴られたという軍人、芝居小屋で調刺されるのが不愉快だという大臣、闘争的だという理由で訴追されることになった反体制派なんかも同じこと。』
つまり、「悪」だと認定した相手を叩きのめすつもりでやったのであれば、その結果がどうであろうと、その責任は自分で引き受けろ、という話なのだが、それが出来ていないのが、まさに「北村紗衣とオープンレターの仲間たち」なのである。
しかも、彼らの大半は「大学教員」や「出版関係者」という「言論」にたずさわる人たちであり、言うなれば「言論・発信のプロ」なのだ。だから、自身の「発信ミス」についての「結果責任」を引き受けというのは、「プロ」として至極当前のことでしかないはずなのだ。
ところが実際には、彼らは、それが出来ない「アマチュア根性」しか持っていなかったというのが、この「オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」」という事例において、はからずも露見してしまった。
残念ながら、こうした「大学教授」だの「フェミニスト」だの「出版人」だのの肩書きにおいて「正義の鉄槌」を振り下ろした面々の実際とは、その「権力濫用の恐ろしさと責任の重さ」を知らない、(与那覇潤言うところの)「お子様」連合軍にすぎなかったのである。
無論、こうした「正義の濫用」とも呼ぶべきものは、何も「今どきのフェミニズム」に限られた話ではない。
先日レビューを書いた、ヘレン・プラックローズ、ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』でも語られていたとおり、昨今の「弱者アイデンティティ・ポリティクスのおける正義行使」一般に見られる傾向でもあるのだ。
「虐げられる立場のアイデンティティを持つ我々は、その属性のおいて、絶対的に正しい」とする、傲慢な「特権者意識の暴走」である。
『『被害者文化の台頭』でキャンベルとマニングは時代や文化ごとの社会紛争解決の様式の変遷を述べる。人々がどうお互いにつきあい、そうした関係を道徳化し、世界での居場所を確立して、地位と正義を求めるやり方が書かれている。そして指摘するのが、最近の被害者文化の台頭だ。これは尊厳文化や名誉文化とはちがう。彼らによると、名誉文化では誰かからの支配も拒絶するのが重要だ。だから人々は侮辱にきわめて敏感だし、少しでも不敬だと思ったら、即座に腹を立てるか暴力にすら訴える。この種の文化では自足性(※ 自尊心・プライド)が中核的な価値となる。これは何百年も西洋世界を支配し、いまだに一部の非西洋文化や、西洋でも一部のサブカルチャー、例えばストリートギャングなどの間で根強い。それに取って代わったのが尊厳文化だ。尊厳文化も自足性を重視するが、ちがった形での回復力を奨励する。尊厳文化では、人々はほとんどの侮辱は無視すべきだと言われる。そして悪口や罵倒にはあまり反応せず、ほとんどの問題は個人同士で解決し、深刻な紛争は自分でケリをつけるよりも法的手段で(※ 客観的かつ合理的に)解決するように言われる。
キャンベルとマニングが見ている新しい被害者文化は、名誉文化の侮辱に対する敏感さを持つが、それに対して強さを示するより弱さをひけらかす。尊厳文化での、紛争解決(※ のよう)に自分でケリをつけようとはせず、当局に頼るやり方は維持しつつ、なるべく侮辱は無視するとか、まずは平和的解決を求めるといった部分(※ やり方)は捨て去る。被害者文化では、(※ 社会的に優位な)地位は被害者にされたと見られることで生じ、したがって、同情的な第三者からの支援を引き出せるようになる。結果として、それは他人の同情を買おうとし、その路線に沿って助けてくれと公に訴える。だから(※ 被害者文化を内面化した者は)多くの(※ 社会的な)相互作用(※ の中)に、権力不均衡と被害者性を読み取りがちになる一一ときには、それをでっち上げることもある。
(中略)
被害者性の称揚と、権力が(※ 女性や黒人、少数派などの非主流アイデンティティを)抑圧し周縁化する方法に(※ 批判的に)こだわる〈理論〉アプローチは、手に手を取って進んでいる。被害者は〈理論〉を掲げて、それを奉じる人々たちに対する(※ 特権的な)地位を獲得する。道徳的な狙いは、態度や言説に含まれる目に見えない危害形態から、周縁化された人々を守ることだ。そうした問題を見つけるためには、ルキアノフとハイトの指摘する大いなるウソ三つを通して社会を(※ 主観的に)読み取る必要がある。それ(※ 三つのウソが信じ込ませようとする悪意)に対処するためには、名誉文化の強さ称揚や尊厳文化の侮辱からの回復を捨て去り、キャンベルとマニングが被害者文化と呼んだものを受け容れねばならない(※ と主張されることになる)。』(同書・P293〜294)
なお、ここで言う『ウソ三つ』とは、『人々が傷つきやすいという信念(つらさは、死ななくてもその分だけ人を弱くする)、感情的な理由づけへの信念(自分の気持ちに忠実に)、我々vsあいつらという念(人生はいい人と悪い連中との戦いだ)の三つ』(同書・P293)という「主観的な根拠」のことだ。
少しわかりにくいが、要は「つらさは人を鍛える」とか「客観的な事実はどうか」とか「人間関係は、単純な善悪の二項対立ではない」などとは考えず、子供のように主観的に決めつけて良い、という考え方(ウソ)のことである。
つまり、簡単に言ってしまえば、「女性」や「黒人」、あるいは、その他の何であれ、「弱者」であれば、個人的にはどうであろうと、それは必ずその「全員」が多かれ少なかれ「被害者」なのであり、だからその「属性」においては「正義」を特権として主張しうるし、それに対応する「男性」や「白人」の側は逆に、個人的にどんなに立派な人であろうと、その「属性」において「加害者」であり「悪」であるという「歴史的事実」からは逃れられない、とされる。
したがって、その点を「女性」や「黒人」から責められた場合、「男性」や「白人」は、自身の「属性」を横に置いての「客観的な意見表明」をすることなど許されない、というようなことなのだ。
つまり、「被害者アイデンティティ」を持つ者の側には、「加害者認定」した相手を、「問答無用」で裁く「免状的な権利・権力」が与えられるわけなのだが、その力を「掣肘する存在」を持たない野放しの「権力」が、いずれ必ず「腐敗」し「暴走」するというのは、人間というものの性質からして、およそ「必然的な結果」なのである。
だからこそ、私たちに必要なのは「正義」だけではなく、「つつしみ」や「身の程を知る」といった「趣味の良さ」という「美徳」なのだ。
そしてそれは、決して「差別構造を延命させるための、既存社会の側の欺瞞装置」などではない。
もしもそうなのだとすれば、私たちは「我利我利亡者」となって生きることこそが「正しい」ということにしかならないではないか。
ところがまた、それに対する「騙されるな、損をするぞ!」といった「被害者意識」の専横が、「貧すれば鈍する」で広がってしまい、すっかり「美徳」なんてものの失われてしまったのが、今の時代なのである。
そんなわけで、本作『缶詰サーディンの謎』は、まるで「現代」小説のように新しい作品なのだが、実際に書かれたのは、著者晩年の「1986年」であり、言い換えれば、この頃にはすでに、今の世の中における「醜悪」の萌芽は、出揃っていたということなのかもしれない。
【※ 以下で、本作のネタを割りますので、未読の方はご注意ください】
○ ○ ○
本書のラストは、なんとも皮肉に絶望的なものであり、著者の「静かな諦観」が、私たちの「地球」を「遠望する目」として描き出されている。
『 クルパ氏はじっと考えこんだ。
「つまり、あなたはお母様に手紙を書き、それを燃やす。するとたちまちあなたの手にお母様からの返事が届いている、と」
「そうです」
「でも、お母様はなんと書いてこられたんです? よろしければ教えてください」
「すぐに帰ってきなさい、と」
「で、あなたは帰るつもりですか」
「ええ」彼はそう言って、ぱっと消えた。
*
「あのムッシュはどこへ? まだお代をいただいていません。ご一緒じゃなかったんですか?」給仕は尋ねた。
小さなテーブルの大理石の卓上、飲みかけのペルノのグラスの横に手紙があった。クルパ氏はさらに近づいて、その手紙に手を置いた。「気にしなくていい」彼は給仕をなだめた。「わたしが払うよ」そして給仕が行ってしまうと、クルパ氏はポケットから読書眼鏡を取り出して、掛けた。
かわいい息子へ
(それとも今は気ちがい帽子屋と呼ばれたい?)これから話すのはけっしていい知らせじゃありません。でも、あまり深刻に捉えないで。心臓(あなたの現在の、かりそめの、歪んだ(※ 左寄りについた)心臓のことよ)によくありませんからね。
先生とお話しして、そちらの地球の人間たちとの長すぎる(そして負担の大きい)交流は、あなたの頭脳(この「頭脳」というのは、もちろん、あなたの本来の精神のことで、現在一時的に乗っけている身体器官のことではありません)を貧弱にする傾向があるという結論で一致しました。要するに、先生はあなたの働きに満足していません。先生はすでに、わたしたちの住む〈本当の地球〉が、歪んだ鏡にどのように映っているかに関する研究論文を完成させました。もともと先生は、ただ脚注のひとつに必要な資料を探してもらうために、あなたをその歪んだ鏡へと送り出し、今でも待っているわけです。先生の頼みはただひとつ、ポルチマンという場所に行き、彼らによってオイル漬けサーディンが缶に密封されている工場を訪れて、サーディンを缶に詰めている人々と、缶に詰められているサーディンについてレポートを送ることでした。それが、調査に派遣されてもう七十四年にもなるというのに、あなたはまだ彼の脚注のためのサーディンをただの一匹も見つけていないようですね。
先生が落胆するのも無理はないでしょう。それどころか苛々しています。だいたい、サーディン関連の情報を知らせもしないで、あなたときたら頌詩やバラードや賛美歌や短詩や挽歌や警句や十四行詩や長さがまちまちの無韻詩を何節もどっさり送りつけてくるのですから。まあ、確かに、あなたの報告のうちひとつだけは先生の興味を引きました。女性詩人の話です。彼女は実際には詩を書かず、本当の地球が太陽の周りを回っているのを見たと主張しているそうですね。先生は、あなたが彼女に接触する手間を惜しみ、彼女が目撃したものの座標を訊かなかったことに怒っています。方位角、高度、正確な時間。赤経、赤緯、時角。黄経、黄緯、銀河座標軸など一一それらがわかれば、彼女が実際にわたしたちを目撃したのか、それとも抑圧された詩的想像カが思い描いた幻想にすぎないのかを、先生も確かめることができたのです。
とにかく、長く書きすぎたので要点だけ伝えると、先生はあなたに戻ってくるようにと言っています。研究論文は、サーディンに関する脚注なしで出版されるでしょう。でも、あまり落ちこまないで。あなたを帰還させる本当の理由は、あなたが今いる〈鏡像地球〉の、偏差というか、ピンクッション型歪みというか、樽型歪みというか、それがきわめて危険な状態になっているからです。歪んだ鏡に映っているせいで、そちらの地球の人間たちは、賢くなりすぎてはいけない、ということがわからないくらいお馬鹿さんになってしまいました。そのせいで、正しい道を歩んでいたこともあったのに、しょっちゅうまちがったところで道をそれ、正しい道を踏み外してしまったのです。神学においても、政治においても、芸術においても、そして今や一一嘆かわしいことに一一科学においても。先生はなんとかそちらの地球の人々に警告しようとしました。彼は伝えました、公理は不滅ではない、唯一不滅なのは良いマナーなのだと。「政治家は不滅ではない、政治は不滅ではない、詩は不滅ではない一一良いマナーは不滅である」と先生は言います。
そしてメッセージはちゃんと届いたのです。手相占いをする娘が受け取りました。でも、このメッセージは人間たちにとっては単純すぎたようですね。彼らは、深い意味が隠されていない託宣には聞く耳を持ちません。だから、そちらの世界はもうすぐ煙となって消えてしまうでしょう! そしてわたしたちは、彼らがサーディンを缶詰にしていた方法を、永久に知ることができないまま終わるでしょう。
さあ、とにかく帰ってきなさい。あなたが今どこにいるか知りませんが、そちらの地球にいるのをやめて、すぐにこちらの地球に戻るように。
あなたの愛する
母より 』(P314〜317)
つまり、「私たちの地球」は、もうひとつの〈ほんとうの地球〉の〈鏡像地獄〉だったということである。
最初に紹介した、ティム・チェスタトン=ブラウン教授と妻ヴェロニカの会話における、ヴェロニカの話こそが「真実」だったというオチだったのだ。
ただ、本作を鑑賞する上で大切なのは、このオチが面白いとか面白くないとかいった「お気楽な話」ではない。
このオチが、到底「笑えない」ものだというのは、次の部分の重さを理解できれば、否定しようもない事実なのだ。
『そちらの地球の人間たちは、賢くなりすぎてはいけない、ということがわからないくらいお馬鹿さんになってしまいました。そのせいで、正しい道を歩んでいたこともあったのに、しょっちゅうまちがったところで道をそれ、正しい道を踏み外してしまったのです。神学においても、政治においても、芸術においても、そして今や一一嘆かわしいことに一一科学においても。先生はなんとかそちらの地球の人々に警告しようとしました。彼は伝えました、公理は不滅ではない、唯一不滅なのは良いマナーなのだと。「政治家は不滅ではない、政治は不滅ではない、詩は不滅ではない一一良いマナーは不滅である」と先生は言います。
そしてメッセージはちゃんと届いたのです。手相占いをする娘が受け取りました。でも、このメッセージは人間たちにとっては単純すぎたようですね。彼らは、深い意味が隠されていない託宣には聞く耳を持ちません。だから、そちらの世界はもうすぐ煙となって消えてしまうでしょう!』
問題は、ここに言う『賢くなりすぎてはいけない』という場合の「賢い」とは、何を指しているのか、ということである。
例えば、「女性の権利」の獲得を目指す「フェミニズム」を学ぶことは、「賢くなる」ことだと言えるだろう。
だが、それを振りかざして「男性を丸ごと敵視する」ような「考え方」となると、果たして「賢い」と言えるだろうか? それとも、ここで言う「賢くなりすぎた」、ということなのだろうか?
そうした「過ぎたる賢さ」に対し、『良いマナー』を持たなければなりません、という助言は、しかし「賢くなりすぎた」人たちには『単純すぎた』ようなのだ。
「気狂い地獄の地球」に住む「賢くなりすぎた人たち」は「深い意味が隠された託宣」はありがたがっても、「同じ人間として、思いやりを持たなくてはいけないよ」とか「やりすぎちゃいけない。自分がされて嫌なことを、人にしちゃあいけない」といった、当たり前のメッセージは、届きはしても、決して響きはしないのだ。
だからこそ、そんな「地獄」は、いずれ近い将来、「煙となって消える」しかないのである。
![](https://assets.st-note.com/img/1734231887-kC5Ptyn9XBjN3Jbqhv8sYZDi.jpg)
(2024年12月15日)
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