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北村紗衣教授に関する提言 : 蓋句智女の呟

与那覇潤氏のnote記事「嘘でも他人を「ミソジニー」呼ばわりすることの意外な効用」によると、同氏などの男性言論人が、一部のフェミニズム系女性言論人を批判すると、それは「モノ言う女」に対する、男性特有の「ミソジニー(女性嫌悪)」という「偏見」に発するものではないのか、との逆批判が、批判された当人はもとより、その取り巻きの外野などからも、しばしば返ってくるのだそうだ。
議論のテーマは放置されたまま、エセ心理学的な話に、話題をズラされてしまうのである。

私のようなアマチュアの場合、(北村紗衣武蔵大教授のような、ちょっと自意識過剰な方は別にして)批判などは、望んでも無いことなので、それを物足りなく感じる私としては、きっと、私自身が昔から書いているとおりで、私のことを、女性を守る騎士(ナイト)型の「古い男性フェミニスト」だと、そう(普通の女性からは)理解されているからだろうと、無理にでも前向きに捉えている。
ロイス・レインを守るスーパーマン」みたいなものだから、どう見たって「ミソジニー」には見えないだろうね、というわけだ。

(1952年から1958年まで続いたテレビシリーズ「スーパーマンの冒険」より)

しかし、こういう「古い型の男性フェミニスト」というのも、それはそれで、問題がないというわけではない。
それが「マンスプレイニング」という問題だ。

「マンスプレイニング」については、北村紗衣教授も、その著書『お嬢さんと嘘と男たちのデスロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』(文藝春秋・2022年刊)で紹介いるし、私自身も下に引用したとおり、レビューの中で紹介している。

ただ、北村教授と私の違いは、北村教授の場合は、「マンスプレイニング」という言葉を、もっぱら男性について言う(使う)ものとして紹介しているのに対し、私は、言葉の原点にたち返って、「性別」を問わない用法を提案している。

『まず、本書(※ 北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』)を読んでいてすぐに気づくのは、著者の「マンスプレイニング(上から目線)」である。

この「マンスプレイニング」という言葉は、一般には「男が、女性や子供を見下した態度」のことを言う。

これは「男は、女・子供よりも優れている」というのを自明の前提としているところに発するもので、単に「見下す」とか「軽く扱う」ということではなく、例えば「難しい仕事を与えない」とか「過保護」といったことの背景にもなるものなのだ。

「能力が低い彼女らを、強い男が守ってやらねばならない」のだといった「善意」に発するものだとしても、その根本には、自覚されない「優越意識」があり、「女性や子供」が劣っているのは「自明な事実」だと考える「偏見」が隠されており、そうした「偏見」をして、「マンスプレイニング」と呼ぶ。
だから、これまで一般には、この言葉は「男性」のそれに対するものとして使われてきたのである。

しかし、こうした「一般論」は別にして、「他人を見下す」人というのは、性別に関わりなく存在するというのは、自明の事実である。
例えば、「女性は、他人を見下さないのか」「子供は、他人を見下さないのか」と言えば、無論しばしば、他人を見下している。

わかりやすい例で言えば、「女性が女性を見下す」ことや「子供が子供を見下す」ことなど、当たり前にある。
つまり、「女性」も「子供」も、他人を「見下す」能力があるのだから、現に「見下す」ことは、あるに決まっているのだ。

したがって、「女性が、男性を見下す」ことも、「子供が大人を見下す」ことも、よくある話でしかない。

例えば、前者だと「あのハゲ課長、口ばっかりで、ぜんぜん仕事できないよね。年功序列で、やっと課長にしてもらっただけの無能オヤジ」などと、女子社員たちが陰口するくらいのことは、よくある話だろう。
そして、この時の彼女たちの「ハゲ課長(男)」に対する視線は、はっきりと「マンスプレイニング」なものだと言えよう。

これは子供だって同じで、例えば「太郎のお父さん、平社員なんだって」と言う場合などだ。この子は明らかに、「大人」である「太郎のお父さん」を見下しているのである。

つまり、「マンスプレイニング」の「マン(man)」とは、本来「人」のことであって、「男」のことではない。

しかし、「フェミニズム」が発見したところによれば、男たちは「男こそが、完全な人間であり、女は不完全で劣ったもの」なのだと、そう「男根主義」的に考えた。つまり「女は、人としての完全体である男の、一部欠如体である」のいうように感じていたから、女性を軽んじた、というのだ。

つまり、「子供」が「未熟」という意味において「不完全体」であるのに対し、「女性」は「欠如体」という意味において「不完全体」であり、その不完全性において、完全体たる「男」に劣ると、そんな「偏見」を、男たちは持ってきた。

そんなわけだから、「マンスプレイニング」という場合の「マン」は、歴史的に見て、実質的には「男」のことを指していた、ということになり、「マンスプレイニング」という批判的な言葉も、「男性専用」の批評用語と考えるべきだ、というように考えられてきたのである。

しかしながら、こうした、いささか大掴みな「歴史理解」としてはそれで正しくても、現実には、「女性が男性を見下す」ことも「子供が大人を見下す」こともある。それが個別的なものとして存在する、「現実」というものだ。

そしてそのような性別・年齢を問わない「マンスプレイニング」は、男性の場合がそうであったように、当人としては「当たり前」のことであって、決して「偏見」だと自覚されてはいない。

だから、だからこそ、「マンスプレイニング」という「偏見告発の批評用語」ば、性別や年齢を問わず、現に「差別偏見」を行なっている「すべての人」に対して、平等に適用されなければならないのである。』

こう書くと、北村紗衣教授は「学者のプライド」にかけて、

「この言葉は、そもそも男性の「上から目線」を指すものとして使用されてきたものであり、それがフェミニズム学会の定説である。したがって、勝手に定義を変えるようなことは許されず、アマチュアは学術的な研究成果を尊重して、おとなしくこれに従うのが当然だ」

と、このようにおっしゃっるかも知れない。

これは、北村紗衣・武蔵大教授が、映画マニアの須藤にわか氏と、「アメリカン・ニューシネマ」という業界用語の定義をめぐって論戦になった際、北村教授が須藤氏からの批判に対する反論として書いたブログ記事、

須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について
(2024-08-25)

に書いていた論法を、敷衍したものである。

つまり、北村教授は「映画の学術研究の場では、私の定義が通説となっているのだから、アマチュアはそれを尊重して従え」という趣旨のことをおっしゃったのだが、これはいささか「大人げない強弁」としか言えない。

つまり「アマチュアが学者の意見に従わなければならない」などという道理はない。常識に照らしてあり得ない話なのだ。
「在野を馬鹿にするな。あんたは、牧野富太郎も知らないのか」という話なのである。

ま、それでも自分の方が正しいと、「武蔵大教授」という肩書きにかけて北村紗衣教授がおっしゃるのであれば、北村教授が、アマチュアの意見など寄せつけないだけの、圧倒的な説得力を持つ「定義」を、学会ででも発表すれば良かっただけなのだ。

だが、残念なことに、そんなことができるだけの力量を、北村紗衣教授は、お持ちではないだろう。

表象文化論学会には、北村紗衣教授より、学者としてずっと有能な方が大勢いて、そういう方でも出来ないことを、本もろくに読めないミーハーからの人気に支えられた「タレント学者」なんかに、やれるわけもないからなのである。身も蓋もない言い方で、恐縮ではあるのだが。

(昭和の代表的な「タレント学者」と言えば、フランス文学者の故篠沢秀夫教授だ。しかし、同氏の場合は、ロラン・バルト『神話作用』の初訳者であったりする)

ともあれ、北村紗衣教授は、学者であるにもかかわらず、自分とは違う意見を語る者を、Twitter(現「X」)で攻撃して黙らせたり、削除を強要して「証拠隠滅」したりなんていう、「反言論的なこと」をなさっているというのは、結局のところ、その「言論」力が、子供騙しだからではないのか。

ただ、「表象文化論学会」のまともな先生がたとしても、「荒ぶる祟り神」みたような(みたいな)北村紗衣教授のことを、「触らぬ神に祟りなし」と、無難に敬遠しているのは、まあ世の常として、致し方のないことなのだろう。職場の厄介者、みたいなものなのだろうと、私にも容易に察せられてしまうのだ。

そしてさらに言わせてもらえば、「映画」の話なんて、そもそもが長年にわたって「趣味」で論じられてきたものであり、それを「表象文化論」なんていう、極端に曖昧な定義しか持たない「どんぶり学問ジャンル」を作ったからといって、いきなり、学問学問と威張るんじゃねえよ、ということなのだ。
所詮、その程度の話なのである。

(どんぶりの中身が食べ物なら、質や量を問わず、一応は「丼もの」と呼ばれる)

さて、こうして、その著者の惹句にもあるとおり、『空を飛べ!』ということで、いささか世間から浮き気味の、北村紗衣教授の「私的言動」には、次のような危惧さえ寄せられている。

はんてん @XBB7クチン摂取済
@lister004
衝動的な行動は、かなりメンタルが追い込まれている人に特徴的なので、北村はさっさとネット断ちをすべきなのだが、多分できないと思われる。

自身の承認欲望を満たせるのは、ネットしかないからで、割とコーナーに追い込まれている状況ではと。』

これを私が引用してしただけで、私や「はんてん」氏を「名誉毀損」呼ばわりしかねないのが、なまじスラップ訴訟で勝ってしまった、今の北村教授の「精神状態」なのだが、こんな程度で「名誉毀損」だの「誹謗中傷」だのと「言い出しかねない」と見られているところが、北村紗衣教授の憂慮すべき点で、教授のテレビやラジオへの出演を広報して、「大学の広告塔」として利用している側にも、その責任の一端はあると言えるだろう。
「雇用者責任」とか「ガバナンス」だとか、そういう話である。

『「らしさ」の檻を解き放ち』とのことだが、この装丁自体が、いかにも「若い女性作家」用っぽいのは、「檻」の内には入らないのだろうか?)

ともあれ、いくら北村紗衣教授が、武蔵大学の教授であろうと、シェイクスピアの研究家であろうと、まだまだお若いのだから、周囲が当人の健康に配慮してあげるのは、むしろ当然のことなのではないだろうか。

また、大学教授であろうと何であろうと、周囲からチヤホヤされれば、勘違いすることもあるというのも、男女を問わず、世間で当たり前にあることなのだ。
大学教授だから、調子にのらないとか、メンタルを病まないなどという保証など、どこにもないのである。

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さて、私はここで、北村紗衣教授の「憑き物」について、思うところを書いておきたい。
もちろん、これは比喩的な話だが、しかしそれは、実際に「作動している」と考えるべきものなのだ。

北村紗衣教授が、事実として「ミソジニー(女性嫌悪)」の対象になっているというのであれば、それは、北村教授が「モノ言う女」だから、なのだろうか?

「モノを言う女だから、男どもに憎まれるのだ」というのが、「北村紗衣教授周辺」の言い分なのだが、果たして本当に、そうなのだろうか?

むしろ、北村紗衣教授の問題点は、著書などに書いている「建前」的な見解、ちょっと「不真面目ぶって」は見せても、所詮は「常識論」の域を出ないご意見と、Twitter(現「X」)などでの「本音」の発言が、臆面もなく、あまりに「乖離」してしまっている点こそ、男どもに「退かれる」原因なのではないだろうか?

一一つまり、男どもには、北村紗衣教授には「口が二つある」ように見えるのだ。

(北村教授の「批評理論」によれば、「お姫様になることが女性の権利向上と考えている節がある」と「解釈」した場合、当人が「そんなことい」と否定するだけで、それは問答無用の「人格攻撃」になるようだ。だが、このような無茶な理屈は、さすがに著作上では展開されていない)

「二口女」という表記で知られる妖怪(一説に「蓋句智女」)は、顔の正面にある通常の口とは別に、後ろ髪に隠された後頭部にも、もう一つの口がある。
そんな異形「二口女」について、北村教授もその運営に関わる「Wikipedia」では、現在のところ、次のような「概要」が紹介されている。

『下総国(現・千葉県)のある家に後妻が嫁いだ。夫には先妻との間に娘がいたが、後妻は自分の産んだ娘のみを愛し、先妻の子にろくな食事を与えず、とうとう餓死させてしまった。それから49日後、夫が薪を割っていたところ、振り上げた斧が誤って、後ろにいた妻の後頭部を割ってしまった。やがて傷口が人間の唇のような形になり、頭蓋骨の一部が突き出して歯に、肉の一部が舌のようになった。この傷口はある時刻になるとしきりに痛みだし、食べ物を入れると痛みが引いた。さらに後、傷口から小さな音がした。耳を澄ますと「心得違いから先妻の子を殺してしまった、間違いだった」と声が聞こえたという。』

(Wikipedia「二口女」

要は、自分の欲望だけを満たそうとした女が、天罰的に不幸な事故に遭い、後頭部に「もう一つの口」ができてしまった、というお話だ。
さらに、この「二つ目の口」が、食事を要求もすれば、痛みを覚える傷口ともなり、同時にそこからは「後悔の言葉」さえ漏れるようになった。

竹原春泉『絵本百物語』より「二口女」)

たしかに、絵に描いたような「ミソジニー」なお話ではある。
だかこれは、当然のことながら、男女を問わぬ、「貪欲の戒め」だと見て良いだろう。

無論これは、いくつかある「二口女」についての口碑伝承のひとつにすぎないのだが、ここに「庶民の知恵」を見ることも、決して困難ではないはずだ。

「貪欲」に憑かれてしまい、自分だけが「富や名声」を得られればそれで良いといった、アンフェアな妄執に捉われて、「私のものは私のもの。あなたのものも私のもの」といったことになってしまった人間個体。
一一言うなれば、口が二つになって、人一倍食うという「貪欲」に捉われる醜い姿になってしまったという、これは一種の寓話なのだ。

無論、こうした妄執は、決して人を幸せにするものではない。
だが、難しいのは、その不幸や苦しみに、当人がなかなか自覚できないという点にある。言うなれば、「憑かれた」状態にあるためだ。

二つの口で食事をする「二口女」は、醜い異形でありながら、しかし当人は、いかにも楽しげなのである。

こんな「二口女」が「表象」しているものとは、もちろん、単に「2人前食べる」という「貪欲」だけではなく、たとえば「表と裏で、言葉を使い分ける」という悪癖悪習のことでもあろう。

つまり、(公的な)著書と(私的な)ツイートでは、明らかにギャップや矛盾のある北村紗衣教授には、「二つの口がある」と、そう形容することも可能なのだ。
北村教授に憑いているのは、そんな「二口女」だった、とも言えるのである。

この、おぞましき「憑き物」を落とすというのは、決して容易なことではない。

それは、先に引用した「はんてん」氏が、

『北村はさっさとネット断ちをすべきなのだが、多分できないと思われる。』

と指摘するとおりであって、当人の力だけでは、まず不可能であろう。

だから、実際問題としては、北村教授を半ば強制的にでも、ネット環境から引き離す必要も、あるのではないか。なによりも、彼女のために。

「お祓い」をするためには、それ相応の環境が、やはり必要なのだ。

となれば、職場である「武蔵大学」側の、職員のメンタルヘルスに対する、適切な配慮も必要となってくるだろう。
「ネットには依存性がある」というのは、昔から指摘されていることなのだから、場合によっては、環境的なデトックスも必要なのだ。

ネット断ちというのは、すでに依存状態にある者、つまり憑かれて、セルフ・コントロールが利かなくなっている、そんな当人任せにすべきものではない。それは無理な話なのだ。

だから、北村紗衣教授の心の健康と、学者としての研究、教員としての本分に立ち返ることの重要性に気づくならば、いったんは彼女をネットからひき離すことも、彼女のために、真剣に考えてあげるべきではないだろうか。
ネットを一時的に断ったところで、読書や映画・舞台鑑賞などなら十分に可能なのだ。
だから今は、心の「平安」の回復を最優先すべきであろうと、私はそう提言したい。

「社会的に勝ち抜くこと」への貪欲や執着という、新自由主義的な「憑き物」を、甘く見てはならない。

その、「二つの口・二枚の舌」を使ってでも「男性社会における地位や名誉」を得たい、確保したいという「男性社会的な悪しき貪欲」は、宿主に残された「良き女性性」を、容赦なく食い尽くしさえするだろう。

北村紗衣教授に「心の平穏」が回復されんことを、衷心から祈念したい。


(2024年9月20日)

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