先日、映画監督・黒沢清と、黒沢に大学で「映画表現論」を指導した、言うなれば黒沢の「映画の師匠」である蓮實重彦との対談本『東京から 現代アメリカ映画談義 イーストウッド、スピルバーグ、タランティーノ』(青土社・2010年刊)を読んで、そのレビューをアップした。
はっきり言って、馴れ合いの師弟対談にすぎなかったし、それゆえ蓮實重彦の「嫌味ったらしさ」も、わかりやすく全開になっていたから、そのあたりの発言を引用して、蓮實という人が、いかに嫌なやつであるかを懇切丁寧に説明しておいた。
そのため、同レビューは、言うなれば「蓮實重彦批判」という形式での「蓮實重彦論」にはなったのだが、肝心の対談本の内容については、あまり書くことができなかった。
そこで、この本稿では、同対談集の中では最も面白かった、クリント・イーストウッドの関わる部分に触れつつ、抱き合わせで言及されていた「小津安二郎」について書きたいと思う。
結論から先に書いておくと、要は、
「イーストウッドは、イメージとは違って変態作家だが、それは小津安二郎も同じことである。小津は、一見したところでは、静謐で端正な作風の作家だと思われがちだが、その理解は表面的なものに止まるつまらないものだ。じつのところ、小津安二郎もまた、本質としては変態なのである」
というのが、蓮實重彦の小津安二郎理解なのである。
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「黒沢・蓮實対談」で、私が最初に感心したのは「イーストウッドは変態である」という、意想外の指摘だった。
私の世代だと、クリント・イーストウッドと言えば『ダーティ・ハリー』(ドン・シーゲル監督)のイメージが強い。気難しい変わり者の、一匹狼のアウトロー刑事である。
つまり、イーストウッドと言えば、当然のことながら「俳優」だ、というふうに理解していた。『ダーティ・ハリー』のほかに浮かぶのは「西部劇」のガンマン姿だし、どっちにしても銃をぶっ放す、ちょっとクセのあるヒーローを演じる二枚目俳優だと思い込んでいたのである(声はもちろん、山田康雄だ)。
ところが、イーストウッドは、「西部劇」俳優として人気が定まった後、『ダーティ・ハリー』と同年の1971年には、すでに監督作第1作の『恐怖のメロディ』を撮っている。
そしてそのあとは、「主演・監督作品」が大半だとはいうものの、「主演のみ」作品と「監督のみ」作品を同程度に撮っており、要は、映画監督としても、かなりのキャリアを持つ人なのだ。
だが、子供のころテレビで映画を視る際には、主演が誰かは気にしても、監督の方はまったく気にしない。監督で作品を視るようになったのは、アニメを自覚的に観るようになった高校生くらいになってからで、実写映画の方にはさほどの興味もなく、イーストウッドが主演するような映画をテレビで視ることもなくなっていたのである。
そんな私が、イーストウッドの監督作品として初めて映画館で観たのは、作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞の4部門を受賞した、アカデミー賞受賞作『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)であった。
これだけの受賞作だから、当然のことながら当時は大変な評判になっていたので、私は「へえーっ、あのクリント・イーストウッドが監督としてアカデミー賞を取ったのか」と感心したわけだが、この時すでにイーストウッドには30年以上の監督歴があるということなどまったく知らず、「歳をとってから監督業に目覚め、いきなり才能を発揮した」というくらいの理解だったのである。そして、そうした意味で、古馴染みのイーストウッドに対し、お気楽にも「おめでとう!」という感じだったのだ。
で、この作品は、若い女性ボクサーが試合中の事故で全身不随になるお話だということくらいは、知っていた。結末の方は知らなかったのだが、あのダーティ・ハリーのイーストウッドが監督した作品なのだから、きっと最後は「立ち上がって」再起するのだろうと思い込んでいたのである。
ところが同作のラストは、彼女を娘のように愛し、その事故の結果に深く心を痛めていた、イーストウッド演ずるところのトレーナーが、自分では死ぬことさえできない彼女を憐れに思い、「安楽死」させてやる、というものだったのである。一一まさに「えっ?」だ。
で、当時の私としては「それはないだろう」と、どうにも納得できなかった。
たしかに現実には、そういうことも十分あり得ることだし、登場人物の気持ちもわかるが、しかし納得がいかない。裏切られた気がする。
つまり、イーストウッドに期待していたものとは、180度違った作品だったので、当時の私は、イーストウッドに「騙された」ような気になったのであろう。
ところが、「黒沢・蓮實対談」を読むと、イーストウッドというのは、もともとそういう「変なことをやる監督」なのだと語られていた。
私は、どうしても役柄のイメージに引っ張られてイーストウッドを見ていたのだけれど、イーストウッドその人は、当然のことながらハリー・キャラハンそのものではありえない別人であり、そんな「人間」クリント・イーストウッドは、常識では測れない人、変なことをする人、つまり「変態」だったのだと、蓮實重彦は言うのである。
そして私は、この紹介を読んで、初めて『ミリオンダラー・ベイビー』のラストが、わざとやった「嫌がらせ」だったのを理解した。
あれは、当たり前の「ハッピーエンド」に異を唱える作品だったのである。「これが現実なんだよ」と、そう観客に突きつけるための作品だったのだ。だからこそ、批評家ウケも良かったし、アカデミー賞も受賞できたのだ。
イーストウッドが、ハリー・キャラハンのそのままの人(アウトロー)だったら、決してアカデミー賞を受賞できるような作品を撮らなかっただろうと、今になって、やっと理解し、納得することができたのである。
ここまでの引用でわかるのは、イーストウッド監督が「普通では考えられないようなことをやる、独特のセンスの持ち主」であり、その意味で「変態」だということである(そして、それは彼の被虐趣味とも関連するのかもしれない)。
で、ここまでなら、小津安二郎との共通点は「変な形式性にこだわる」といった部分だけのように思えるだろう。
だが、私は本書を読む前日に、小津を論じた私のレビュー「小津安二郎の精神分析:『晩春』『東京暮色』『麦秋』ほか」のコメント欄で、私の「note」をフォローして下さっている「广瀬アリスワンダーランド」氏と、小津をめぐって、拙論を前提とした次のようなやりとりを交わしていたのである。
(なお、(※)内は、後から付した補足注釈。投稿者名のあとの数字は「発言番号-発言者-発言者の発言番号」である)
(※ 「小津の自己愛性の形式主義」とは、私が上記のレビューで指摘した点である)
つまり、このやりとりでは、小津安二郎の「変態性」が指摘しされているのであるが、それは無論、単に「小津安二郎の同性愛傾向=少年愛傾向」を言っているのではない。
私自身、同性愛者ではなくても、少年愛趣味のあるのは否定しないからだ。
だから、小津の「変態性」の問題とは、例えば、戦時中に「毒ガス戦部隊に所属し、南京攻略時の日本軍による民間人虐殺事件(南京大虐殺)や、あるいは従軍慰安婦なんてことも体験的に直接見聞しているはず」なのに、そうした加害体験をすっかり忘れて、「放射線治療で針を刺される」なんてことについて子供みたいな泣き言を言ったり、私はもっぱら「戦争の被害者です」みたいな顔をしてたりするというのは、どうもそれが「本気」らしいからこそ、そこからは「当たり前の(ノーマルな)良心的な呵責」が感じられず、その意味で「かなりの(精神的な)変態だ」という意味なのである。
つまり、私がレビュー「小津安二郎の精神分析:『晩春』『東京暮色』『麦秋』ほか」で指摘した「小津安二郎の潔癖症」というのは、どうにも「自分勝手なもの」であり「現実逃避的」であり「自己正当化」目的の「潔癖症」なのではないか、ということである。もしかすると「無自覚」でやっている、「天然」なのかもしれないが、ということだ。
また、私も、小津の『父ありき』は「反戦映画」だと思ったのだが、あれも「自分のことは棚に上げて」のそれだとすれば、評価を改めざるを得ないだろう。
ともあれ、以上のような、「广瀬アリスワンダーランド」氏と私との議論を踏まえて、次の「黒沢・蓮實」のやりとりを読んでもらえば、蓮實重彦が、小津安二郎を「変態」だと思っているという事実も、容易にご理解いただけるだろう。
つまり、ここで蓮實重彦が言っているのは、
「普通の(凡庸な)映画作家であれば、登場人物の感情の起伏と、物語の流れ(起伏)とを一致させて、言うなれば「整った=ノーマル」な映画にしてしまう。
ところが、小津安二郎の場合はそうではない。小津の場合だと、原節子が変なところで感情的になったりするけれど、それが物語の流れの中で、当たり前に収まっていない。つまり、妙に浮いた「変調」になっており、こうしたところが、イーストウッドの「訳のわからなさ」と通じている部分であり、要は、両者は「ノーマル」なセンスの持ち主ではなく「アブノーマル=変態的」な感性の持ち主なのである。だから、この二人は、了解不能性の闇を抱えた『不気味』な変態映画作家であり、その非凡性が素晴らしいのだ」一一と、そういうことなのだ。
で、なにやら「目新しく鋭い」ことを言っているように見えるけれど、こんな見方など、きわめて「凡庸なもの」でしかないし、要は私が、レビュー「蓮實重彦の 「逆張り」という手管:黒沢清・蓮實重彦 『東京から 現代アメリカ映画談義 イーストウッド、スピルバーグ、タランティーノ』」の中で指摘した、蓮實重彦の常套手段である「逆張り」でしかない。
『美はただ乱調にある。諧調は偽りである。』(大杉栄)なんてことは、100年も前から言われていることで、なにも今さら、事新しく「手柄顔で」言うようなことではないのだ。
たしかに、アメリカや日本の映画界は、一般にあまりにも馬鹿正直に「ノーマル志向」なのかもしれないが、所詮、それは「趣味」の問題でしかない。
つまり、蓮實重彦自身はもとより、その弟子である黒沢清なども基本「変態」であるからといって、「変態こそが(非凡だから)素晴らしい!」なんて主張するのは、所詮、単なる手前味噌でしかないのだ。
したがって、小津安二郎やイーストウッドが、蓮實重彦好みの「変態」作家だからといって、それが客観的にも素晴らしいなどということには、まったくならないのである。
つまり、私が「黒沢・蓮實対談」が所詮は「根拠薄弱な放談」にすぎないと言ったのは、そういう意味なのである。
「自分と同様の変態趣味だから素晴らしい」というのは「個人的な趣味(好悪)」を語っているにすぎないのである。
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ただ、ひとつだけ言えることは、小津安二郎という映画監督は、私から見ても、蓮實重彦から見ても、どう見ても「変態」だということであり、小津安二郎のファンは、この程度の「事実」は踏まえた上で、小津を評価すべきである、ということだ。
つまり、「广瀬アリスワンダーランド」氏も指摘しているとおり、小津安二郎の描く「古き良き日本」なんてものは、「現実」ではなく、「現実逃避の変態的妄想」だということ。
そして、それが「変態的妄想」であるというのを理解し承知した上で、それでも「私はそれを、美しいと感じている」と認めるべきなのだ。
平たく言ってしまうと、小津安二郎が描いた「美しき日本」とは、殺された安倍晋三元総理がスローガンにしていた「美しい国、日本」と同じで、今はもちろん、かつて一度も存在したことのない「願望由来の妄想」でしかないのである。
(2024年1月24日)
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