『すずめの戸締まり』の 社会心理学
新海誠監督の新作長編アニメ『すずめの戸締まり』については、私はすでにレビューを公開しており、それに付け加えるべきことは特にない。
今回、私が書きたいと思うのは、作品そのものについてではなく、『すずめの戸締まり』という作品の「受容のされ方」について、である。
本作が大ヒットしているというのは周知の事実だし、これはもう前作がヒットした段階で、次作もかなりのヒット作になるであろうことは、おおかた予想されたことだから、特に驚くには値しないだろう。
ただ、今回の『すずめの戸締まり』のヒットの仕方には、前作『天気の子』以上の、違和感がある。
私個人も、『すずめの戸締まり』は、前作『天気の子』よりも良くできていると評価している。にもかかわらず、『すずめの戸締まり』の大ヒットは、作品の出来不出来に関係なく、大ヒットすることがあらかじめ「既定路線」となっていて、それがそのまま現実化してしまっている、といったような、気味の悪さがあるのだ。
もちろん、新海誠監督が、今作にも持てる力のすべてを注ぎ込んだというのは当然として、それ以外の要素において「大ヒットさせられている」といったような違和感が拭えない。
それで、そのように感じられる原因は何なのだろうと考えてみたところ、まず思い浮かぶのは、多くの「スポンサーによる圧倒的な宣伝」ということだろう。とにかく、宣伝しまくり、露出させまくることで、作品を多くの人の頭に刷り込んで、嫌でも興味を持たせ、期待をさせるという、オーソドックスな宣伝術の徹底である。これが大ききかったことは間違いない。一一だが、それだけではないように思える。
これまでにもあったような話ではなく、もっと「次元の違う何か」が働いているという感じがあって、それが気味悪く感じられる。だが、それが何かを、私は掴みきれないでいた。
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そんな折、私がフォローさせていただいている、映画好きの「佐藤厚志」さんが、『すずめの戸締り』のレビュー「スケープゴートと震災」をアップしていたので、早速読ませていただいた。
このレビューでの『すずめの戸締まり』評価は、かなり厳しいものであった。
その点では私と同じなのだが、もちろん評価のポイントは微妙に違っていて、佐藤さんの場合は、いかにも映画マニアらしく「作家の内的必然性」を問うものであったと、ひとまずはまとめられよう。
だが、私の興味を惹いたのはそこではなく、そのあとの部分だった。
レビューの半分近い量の引用になってしまい、佐藤さんには申し訳ないが、下手な要約よりはマシだと思うので、ここはご勘弁願おう。
ともあれ、私はこのレビューのコメント欄に、次のようにコメントした。
すると、佐藤さんから、
とご返事をいただき、これに対して私は、
と返事したのだが、その直後に、このあたりの問題を扱えそうな気になったので、佐藤さんの許可を得て、早速本稿を書いたという次第である。
で、見てのとおり、ここまでのやりとりで、本稿において語りたいことは、大筋で出揃ってしまっている。だから、あとは「解説と補足」的な文章になろう。単なる蛇足にならなければ幸いである。
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『すずめの戸締まり』については、私のレビューでも、
と、『すずめの戸締まり』に止まる話ではないが、新海作品における「スピリチュアリズム」への「安易な依存」が、私にも引っ掛かっていた。
私は何も「リアリズム至上主義者」ではないけれども、どんなに「幻想的な作品」であろうと、いや「幻想的な作品」であればあるほど、作家には徹底した「現実の凝視」が必要なのだと、そう考えている。
それは、私が尊敬する「幻想小説家」である中井英夫の、次のような言葉に、端的に語られていよう。
現実を凝視すれば凝視するほど、現実はその「異貌」を見せ始める。
それこそが、描くに値する「幻想」であって、どこかに描かれていた「出来合いのイメージ」を借りてきたようなものが、その作家が描くに値する「その作家にしか書けない幻想=現実を撃つ幻想」になどなるはずがない。
また、同様の意味において、リアリストである高畑勲は、新海誠の弱さを、その「引きこもり」性の見たのであり、そんな「新海誠」観を、私は高畑と共有することにもなったのだ。
こうした観点からすると、新海誠の描く「幻想」は、「現実を撃つ」ものではなく「現実から逃げる=現実を回避する」ための「幻想」でしかないように思えるし、そこが私の不満だったのだ。
しかし、問題は、そうした「新海誠の作家性」に止まる話ではなかった点だ。
新海の問題点については、すでにレビューで指摘済みなので、それ以上、特に言うことはないのだが、それでもすっきりしないものが残ってしまい、それが何なのかと考えていたところに与えられたのが、先の佐藤さんの指摘だったのである。
そう。問題は、新海誠の作品そのものに止まらず、その「需要のされ方」にあった。
つまり、『すずめの戸締まり』を大ヒットさせている、「観客」の方にあったのである。
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だが、そうなると、この問題は、すでに「新海誠の作品」に止まる話ではなく、あらゆる「商品」や「社会的事象」に関わる話になってくるのではないか。
例えば、「アイドル」でも「歌手」でもいい、あるいは「オリンピック」でも「サッカー・ワールドカップ」でも良い。要は、人々が、その時その時に「熱狂できるもの」を求めているのだが、その「熱狂」そのものではなく、その「熱狂の求め方」が、いささか「病的」に感じられるのだ。
「アイドル」でも「歌手」でも「オリンピック」でも「サッカー・ワールドカップ」でも、昔からずっと変わらずに「好きな人=ファン」というのはいるだろう。そうした人たちには、「自身の好み」に基づく、ごひいき(推し)がいて、それを雨の日も風の日も応援するはずで、そうしたことが当たり前だと、私はずっと思ってきた。
ところが、最近の「ごひいき」というのは、一部に集中しすぎるきらいがあるのではないか。また「ジャニーズのアイドル」がそうであるように、いわゆる「推し」の対象が、数年であっさりと更新されてしまう。
この二つは、一見したところ別々の現象のように見えるのだが、結局のところ「みんなの好きなものが、私の好きなもの」ということであり、「それ以外の存在」には鼻も引っ掛けない。一一そんな「コンテンツ消費の加速化」傾向が強くなっている、ということなのではないだろうか。
しかし、そのために、そうした人々の世界は、きわめて「偏ったもの=偏頗なもの」になってしまっているように思うし、それが、この世界に害をなしているようにも思う。
つまり、よく言われるように、ネット社会になって、膨大な量の情報にアクセスすることが可能になった結果、逆に、個人がそのすべてにアクセスすることは時間的にも不可能であるため、かえって人々は「自分の興味のあることに関する情報」ばかりに集中することになってしまい、その世界観が偏頗なものになってしまう。外の世界へ繋がるための「ノイズ」を、遮断してしまうのだ。
政治の世界で言えば、「左派は左派だけの中で」情報を交換し、「右派は右派の中だけで」情報を交換する。その結果、各々は、まるで、自分の接する(情報の)世界が、世界の「主流」であり「ほとんど全て」であるかのように勘違いしてしまうのである。
これは「エコーチェンバー」とか「サイバーカスケード」とか呼ばれる現象のことだ。
例えば、アニメにだって、いろんな作品があり、新作ばかりではなく、昔の作品にも良いものがある。たしかに、多くの場合、作画などで見劣りする部分があるのは否めないが、それでも実際に視てみれば、名作と言われるだけはある作品だと感心できる場合も少なくないだろう。
無論これはアニメに限らない話で、小説だって、マンガだってそうだ。表面的な部分で「古くさい」と感じられ、初手から相手にしないことも多いのだろうが、実際、読んでみれば、「見てくれ」ばかりが凝っている新作よりも、よほど優れた作品がいくらでもある。技術は進歩しても、作り手の能力は、それほど進歩するわけではないからだ。
つまりこれは、あらゆるジャンルに言えることで、鑑賞者の方に「見る目」さえあれば、目立たないものの中にも、すぐれたもの、美しいものが存在するのを見いだすことができるはずなのだ。
だが、問題は「情報の過剰さ」である。
情報があまりにも豊富すぎるために、多くの人は、自分の目で確かめ、自分のセンスで選択するということが、出来なくなってしまっている。人々は、あまりにも膨大な情報の前に途方にくれたその結果、「おすすめ」を選択する(権威的他者に依存する)ことになり、「みんなが良いと言っているもの」を選ぶことになる。
そうなれば、選ばれる作品と、そうでない作品に「二極化」するのは必然であり、しかも、人々に特定の作品を選ばせる「誘導」も容易になる。
「これが流行っているよ」「この作品はすごいぞ」という情報を適切に流せば、人々はその作品に食いついてくる。周囲が「すごいすごい」と言っていれば「きっと、すごいのだろう」という気分になってくるし、自分も「この作品はすごいよ」と言わないではいられなくなる。なぜなら、今の若者は「個性的」であってはならず、「みんなと共感的でなければならない」と教えられて育ったからだ。
つまり、昔に比べ、今は「同調圧力」が強まっているし、同時に「承認欲求」も強まっているのだから、「みんなと違う意見」なんて、怖くて口にできるわけがない。
万が一、それが原因で、自分が周囲から「浮き」、「仲間はずれ」にされ、誰からも承認されない「孤立状態」になんかなってしまったら「生きてはいけない」、などと恐れてしまう人も、決して少なくないのではないだろうか。
だとすれば、広い視野に立って、いろんなものやいろんな意見を見聞きし、それを自分の頭で吟味して、「自分の意見を持つ」なんてことができなくなるのも、理の当然だろう。
それは、わざわざ「自分の首を絞める」行為に等しいからである。
ならば、「これが流行っている」と聞けば、それを追い、「この作品はすごい」とみんなが言っているようなら「自分もそう思う」という具合になっていくだろう。そして、やがてはそれが「当たり前」になってしまうのだ。いや、すでにそうなってはいないか?
心から「流行っているものが、すなわち素晴らしい」「勝者が正しいし、勝者こそ美しい」ということになり、それ以外は、もはや視野には入って来ず、まるで存在していないかのようになってしまうのである。
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このように考えると、遠くから見ているぶんには「頭がおかしいんじゃないか?」と思えるような「トランプ支持の陰謀論者集団である、Qアノン」なんてものも、まるっきり理解できないわけではないし、同じ理由で『すずめの戸締まり』に対する過剰な「高評価合戦」の意味も理解できる。
同じレベルの「肯定評価」と「否定評価」なら、当然「肯定評価」の方が「ウケる」し、それに止まらず、「凡庸な肯定評価」と「非凡な否定評価」でも、やはり日本人の少なからぬ人は「凡庸な肯定評価」の方を、無難に選び、それを支持するのではないだろうか?
「個性的で尖っているもの」なんかを(周囲の空気を読まずに)支持したら、自分までが「変わり者」扱いにされ、除け者にされるのではないかと、そう恐れてしまう蓋然性は低くないだろう。
このような「心性」が当たり前になった今だからこそ、「雪崩をうつ」ようにして、『すずめの戸締り』が異様に高く評価されるという現象にも、おのずと納得がいこう。
例えば、こうした心性をよく表していると思える、『すずめの戸締まり』(肯定)論を見つけた。
「ビジネスパーソンを励ますwebメディア」と肩書きされる『Book&Apps』というサイトに掲載されている、「高須賀」氏による評論「映画『すずめの戸締まり』は、裏側でもう一つの物語を描いた傑作である」が、それだ。(※ 引用にあたっては、空白行を一部省いた)
と始まり、
という言葉で締めくくられるこの評論文は、「2022/11/24」に掲載されて以来、現在(2022年11月29日)のところ、このサイトの「今週の人気」の第1位であり「39,063ビュー」ということで、2位の記事に4倍もの差をつけている、ダントツの人気記事である。
もちろん、閲覧者がすべて、この記事の「内容」や「解釈」に満足しているわけではないだろうが、それにしても、かなりの支持を集めているから、ここまで注目されているのであろう。
見てのとおり、この記事は『すずめの戸締り』を絶賛しているのだが、その内容は「作品の内容にそって解釈するのではなく、自分の読みたいように深読みする」といった態の、かなり「陰謀論」的なものになっている。
この評論のそうした特徴が、最もよく表れているのは、ダイジンが草太を「脚の一本欠けた、まともに立たない椅子」に変えたのは、作者である新海誠によって「女たらしの日本神話の英雄」に擬されている草太(高須賀氏の解釈)に、すずめに手を出させないようにするためだった、という解釈である。つまり「立たない=勃たない(勃起しない)」体に変えた、という「深読み」である。
たぶん、高須賀氏自身、これを面白い着眼点だと思って提示したのだろうし、こういう「深読み」が、若い読者には「面白い」と感じられるのかも知れない。
私のような高齢の読書家からすれば、これは典型的な「俗流フロイティズム」でしかなく「今どき、こんな解釈を、何の曲もなく、そのまま提示する人がいるのか」と思ってしまうが、むしろ、いったんは手垢にまみれて消費されきってしまった通俗手法だからこそ、今となっては、かえって「目新しい」のかもしれない。
だが、これは、ウンベルト・エーコが、その著書『読みと深読み』の中で批判した「(作品を蔑ろにした)恣意的な過剰解釈」の類いでしかないのではないだろうか。
『すずめの戸締まり』は「日本神話(記紀神話)」を下敷きにしているのだから、草太をその「(東征する)英雄」の見立てだとする解釈は「可能」ではある。けれども、神話の「英雄」が行く先々で「女を作る」男根主義的な「英雄」だからと言って、「じつは、草太も女たらしであることが、暗示されている」という解釈は、「深読み」と言うよりも、強引な「故事付け」と言うべきだろう。
実際、草太に、そんな「女好き=手が早い男」という印象を受けた人は、高須賀氏以外には、ほぼいないはずだ。
なぜ、こんな「無理筋の読み」をするのかと言えば、それは、この評論の根底にあるのが、高須賀氏個人の、いささか古臭い「男根主義的な、性の自由主義(=男に都合の良い、性の自由主義)」といったものだからだ。
したがって、こんな表面的には「甘くて軽い言葉」を真に受けた女性はきっと、「日本神話」がしばしばそうであるように「妊娠させられた後に捨てられる」といったことにもなりかねない。
そして、そんな高須賀氏の評論は、そんないかにも「ビジネスパーソンを励ますwebメディア」にふさわしい、「新自由主義(ネオリベ)」的な内容になっているのである。
高須賀氏は、『すずめの戸締まり』の「東日本大震災」の扱い方に少なからぬ「批判」があることに対し、次のように反論して、同作を擁護している。
いかにも「ビジネスパーソンを励ますwebメディア」にふさわしい、いかにも「ご立派な物言い」だとは思わないだろうか。本音かどうかは、別にして。
そんなことは、わかりきった話である。
だが、震災で家族を失い、その遺体にさえ会うことができなかった人たちの「心の傷」が、「そうしなければ、乗り越えられない」から「アニメででもいいから、この機会に乗り越えるべきだ」などという「成果主義=無理にでも結果を出すべきという考え方」で語れるような「軽いもの」ではないからこそ、多くの人(?)は、『すずめの戸締まり』における「東日本大震災による心の傷」の扱い方を、「軽すぎる」「安直すぎる」「お粗末すぎる」と批判したのではないだろうか。
だが、端的に言ってしまえば、高須賀氏は、新自由主義的な「結果を出したものが勝ち」という、今どきの「ビジネスパーソン」的な心性を内面化しているから、このような「無神経で手前味噌な言い方」ができるのだ(つまり、ツイッター社の社員を大量解雇したイーロン・マスクを、無条件に絶賛する、のと似たようなものだ)。
要は、高須賀氏にとっては、大成功している新海誠作品の『すずめの戸締まり』を褒めることにより、自分も「そちらの側」の人間であることを誇示する(勝ち馬に乗る)ことが重要なのであって、「震災の傷から、いまだ立ち直れない人たち」のことなど、実のところ「どうでもいい」のである。
新自由主義の心性とは、「自己責任」論であり、「勝てば官軍、負ければ賊軍」でしかないからだ。
しかし、高須賀氏自身は、己のこうした「心の歪み」に、正直に『向き合う』気があるだろうか?
いずれにしろ、このような「他者不在の自己肯定ファンタジー」が、『すずめの戸締まり』を肯定するための評論として提示されるというのは、いかにも「似つかわしい」その反面、こうした「みんなが褒めているものは良いものであり、それを誰よりも褒めている私は、誰よりも正しい」といった心性は、ある意味で、とても危険な傾向でもあろう。
例えば、一部のことかもしれないが、細田守監督の『竜とそばかすの姫』の評判が、このところ異様に悪い。
テレビで再放送されたりすると、口をきわめて貶す人がおり、それがまたけっこう支持されていたりするようなのだ。
私自身『竜とそばかすの姫』については、公開直後に観て、否定的なレビューを書いている。
その当時の感覚からすると、褒めていない人も稀にはいたけれど、やはり大半の人『竜とそばかすの姫』を絶賛し、世間もそれを追認したからこそ、あの映画も大ヒットしたはずなのだ。
だが、どこかで「風向き」が変わって(素人衆が離れてから?)、『竜とそばかすの姫』は、当たり前のように「サンドバック」扱いにされるようになったように見えるのだ。
しかし、自分が「あれは駄作だ」思うのなら、初見の際に否定評価を語るにしても、あとは無視すれば済むことなのに、どうしてそれを執拗に貶す必要があり、また、それに同調する人も結構いるのか。これは、いったいどういうことなのだろう。
一一たぶんこれは、一種の「いじめ」だ。
「みんなが褒めるものを、私も褒める」という心性は、裏返せば「みんなが嫌うものを、私も嫌う」ということになる。そして、こうした評価は「空気を読んで」そうしているというようなものではなく、たぶん「本気」なのだ。だから気味が悪い。
今や多くの人は、特に若者は、自身の認知しうる小さなバブルの中にあって、その世界しか知らずに、その中での世界観だけで、生きている。
「これが好きだ」という人は、そればっかりで、他のものに見向きのしない。他にもっと面白いものがあるんじゃないかと手を広げたりすることなど、そもそも考えも及ばない。何しろ「情報過多(飽和)」なのだから、自分の守備範囲をフォローするだけで精一杯であり、他の世界のことなど、想像している余裕などない。
だから、オリンピックで大盛り上がっていた人たちは、その陰で死んでいくコロナ患者のことなんか気にしないし、気にしたくもない。そんなことを気にしていたら、オリンピックが楽しめない。
サッカーW杯も、ドイツの選手たちが「外国人労働者の劣悪な労働環境」の問題を訴えていたにも関わらず、日本の選手は、そんなことには口出ししないし、当然、日本のサポーターもそんなことなど、気にしたくない。それよりも、自分たちが会場を掃除して、世界から称賛されることの方に興味を集中させて、「優等生的なキレイゴト」の(自己幻想の)世界に止まっていたいのである。
そもそも、このままでは「温暖化による気候変動」で、サッカーどころの話ではなく、自分の子供や孫の将来が危ぶまれるというのに、そんな「嫌なこと」は考えたくもないし見たくもないから、考えもしないし見もしないで、ひたすら「みんなと一緒に盛り上がる」ことに集中する。
こうなってくると、「それが素晴らしいから、盛り上がる」と言うよりも「盛り上がるために、それを絶賛する」という倒錯状態に陥っているのではないかとさえ、疑っても良いのではないか。
そして、こうした状況において、求められる作品とは、当然のことながら「現実を直視した作品」「リアルを描いた作品」などではなく、「現実を忘れさせてくれる作品」「現実を否定する作品」「リアルとは、縁もゆかりもない作品」ということになってしまうのではないだろうか。
言い換えるなら、昔であれば「(現実の裏付けがない)薄っぺらな絵空事」と評価されたような作品こそが、むしろ「望まれる作品」として、多くの人の支持を集め、「傑作だと評価される」のではないだろうか。
そう考えていくなら、「セカイ系」と呼ばれた新海誠の作品が、高く評価されるようになったのは、「セカイ」的な世界への逃避を望む、この時代の必然なのかもしれない。
多くの人たちは「すずめと草太の冒険」に共感して「架空の全能感」を覚え、「ミミズ」を封印する物語が「東日本大震災を乗り越えた物語だ」などと、無責任な過大評価を与えながら、「地球温暖化という、目の前の巨大ミミズ」からは目を逸らして、美しいアニメに耽溺しながら、破滅への道をまっすぐに歩んでいるのではないだろうか。
(2022年11月29日)
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