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北村紗衣的な「えせフェミニズム」の内実 : 菊池夏野 『日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム』
書評:菊池夏野『日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム』(大月書店)
「ポストフェミニズム」とは何か?
字義どおりに理解すれば、「フェミニズムの後」という意味で、「フェミニズムが終わった後」とか「ファミニズムが役目を果たし終えた後」の状況といったことになるが、前者と後者では、かなりニュアンスが違う。
いうまでもなく、前者には「フェミニズムが、その使命を果たし終える前に、終わってしまった」というニュアンスがあるし、後者には「フェミニズムが、使命を果たしたので、その存在が不必要なったので終わった」というニュアンスになる。
では、世界の、あるいは日本の現状において、フェミニズムは十全にその使命を「果たし終えた」と言えるだろうか?
無論、そんなわけはない。
なぜなら、人間というのは、放っておけば「差別する動物」なのだから、その対象が「女性」であると否とに関わらず、差別とは、常に存在するものだからである。
したがって、本来、フェミニズムを含めたすべての「反差別的啓蒙運動」は、終わることを許されない労作業なのだ。
だから、フェミニズムが「十全にその使命を果たし終えた」というような現実など、当然、存在しない。
この世の中には、「性差別」だけではなく、あらゆる「差別」が今も、「制度」の中に、あるいは「個人」の中に息づいており、だから私たちは、それを「我がこと」として考えなければならないし、自他を啓蒙し啓発し続けなければのだ。
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では、ふたたび問おう。「ポストフェミニズム」とは何か?
それは、正確にいえば、「ポストフェミニズム的な状況」を指すものであり、「ポストフェミニズム」そのものではない、ということになるだろう。
しかしながら、そんな「不十分な状況」、原理的に「十分であり得ない現実」に対して、あたかも「フェミニズムは終わった」とか「フェミニズムはその使命を果たし終えた」と考える人たちがいて、そうした考え方が、この世界に、そして日本に、どのような影響を及ぼしているのか、という問題を考えたのが、まさに本書なのである。
したがって、「ポストフェミニズム」的な状況とは「反フェミニズム」的な状況のことであり、本書はそうした問題点を、主として「ネオリベラリズム(新自由主義)」批判の観点から論じている。
そして、その肝となる部分を先に示しておけば、一一「ネオリベラリズム(新自由主義)」というのは、要は「金を儲けた者が勝ち(勝者)だ」という価値観において「無原則の弱肉強食」を是とする思想であり、多くの生物の世界がそうであるように「強い者が弱い者を食って生き残るのは、当然だ」という価値観なのだが、それが今の「ポストフェミニズム」状況の背後に隠されて在る、のだ。
「ネオリベラリズム」は、決して「単細胞(=馬鹿)」ではないから、当然そのようなひと聞きの悪い本音を「公言」したりはしない。
むしろ、その真逆の「私たちは、すべての人の幸福と未来に貢献したい」などという「心にもない綺麗事」を語るだろう。それもまた「嘘つきなればこそ」、そんな歯の浮くようなことを平然と言えるのである。
そして私たちは、その種のテレビコマーシャルを、常日頃から目にし耳にしているわけなのだが、それを真に受けている人がいるなら、その人はすでに「食い物」にされていると、そう自覚すべきべきであろう。すなわち、「立派な言葉だからと言って、信じれば良いというものでにない」ということ。そんなことにも気づけないほどの「お子ちゃま」は、もう痛い目を見るしかないのだ。
しかしまた、痛い目をして学べば、まだマシな方だとも言えるだろう。それほど、学ばない馬鹿が多いのである。
そして「ネオリベラリズム」は、「そんな馬鹿は、優れた者の食い物になるしか、存在価値がない」と考える。
だから、馬鹿を騙すことに遠慮もしなければ、後ろめたさを感じることもない。むしろ、そういう馬鹿を食って減らしていくこそが、健全な「種としての淘汰」だ、くらいに考えているのである。
したがって、そんな本音を語ることはなく、平然と嘘もつけるのだ。
では、そんな「ネオリベラリズム」と「フェミニズム」との関係とは、どのようなものなのであろうか?
当然のことながら、それは対立的なものとならざるを得ない。なぜならば、本来「フェミニズム」というものは、「弱者の側」に立つものであり、そのきっかけが「社会的な弱者としての女性」による権利獲得運動だったからである。
つまり、「フェミニズム」というものは、基本的に「人間は平等である」という「ヒューマニズム」の原則に立っている。
そして、この「人間は平等である」というのは、「人間はすべて、同等の能力を持っているから、同等の地位と権利が与えられて、当然である」ということではない。
そうではなく、「当然のことながら、すべての人間が同等の能力を持っているわけではないけれども、他の動物にはない理性を持つ人間という種の尊厳において、すべての人間に同等の地位と権利を保障すべきである」という「理念」だと考えるべきだろう。「理念」であり「理想」だからこそ、それは「目標」であり「目指されるもの」であって、当然「今ここの人間の現実」ではないのだ。
「でも人間って、そんなもん(本質的に不平等なもの)なんじゃないの?」と言う人もいるだろうが、そんなことはわかっている。
だが、そうではなく「そんな(平等な)ものではない(不平等なもの)、まだ動物的なものでしかない存在」だからこそ、「理性を有する人間のという種」にしか持ち得ない「理想」を目指すべきだというのが「人間(特別)主義」、つまり「ヒューマニズム」なのである。
一一当然、この「動物性超克」主義の実行は、容易なものではないけれども、容易ではないからこそ、「理想」たり得もするのだ。
まとめて言えば、「ネオリベラリズム」は「動物主義」であり、「フェミニズム」は「人間主義(ヒューマニズム)」の一種であって、当然のことながら、両者はその本質において、敵対せざるを得ない「理念」なのである。
しかしながら、ここで考えなければならないのは、「ネオリベラリズム」が「金を儲けた者が勝ち(勝者)だ」という価値観において「無原則の弱肉強食」を是とする思想であり、その意味で「嘘」をつくことにやましさなど感じないものであるのに対し、高い理想を掲げるからこそ「人間主義(ヒューマニズム)」の一種である「フェミニズム」は、基本的に「嘘がつけない」という弱点を持っている。つまり、私が今ここで書いているとおりで、そのフェミニストが馬鹿でなければ「人間はすべて同能力において平等であるから、社会的な平等が実現されなければアンフェアだ」などとは言わない。
あくまでも「能力差はあっても、平等を目指さなければならない」という言い方しかできないのだ。その意味で「馬鹿正直」なのである。
ところが、「ネオリベラリズム」の方は「嘘つき」だからこそ、「フェミニズム」に対しても「女性が男性に劣るところなどあるわけがありません。私たちはその意味において、すべての人の同等の権利を当然のこととして、その社会的多様性の実現を目指して協力させていただきたいと思っています」というくらいの「歯が浮くようなセリフ」として、「嘘」くらい平気でつくのである。
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だから、「フェミニスト」の中でも「頭の悪い部類の人」は、こうした「ネオリベラリズム」的な言説に、ころりと騙されて「取り込まれてしまう」。
「いやあ〜先生、先生のダイバーシティ(多様性)についてのご高説については、かねがね感服しておりました。
つきましては、弊社の社員に対してもそのお話を、是非ともお聞かせ願えませんでしょうか?
弊社としては、そうした講演会を定期的に開催して社員の啓蒙に努め、またその講演内容を書籍化して、広く社会に還元することが、弊社の社会貢献にもつながるものとも考えております。
また、失礼ながら、ご高説に対する相応の謝礼は当然のことと弁えておりますので、どうぞよろしくお願いいたします」
などと「尻を掻かれて」、それを断る「フェミニスト」が、10人に1人でもいるだろうか?
そんなわけで、フェミニズムを語っているフェミニストの「大半」、特に「マスコミに露出して実績を出さないと、今どきは大学でもやっていけない」などと考えているような大学フェミニストの「大半」は、「ネオリベラリズム」が本気で「こいつを潰そう(籠絡しよう)」と考えれば、まさに「イチコロ」だし、日本でも、「ネオリベラリズム」による「実力競争主義」による「経済格差」が増大した「格差社会」となってしまっている現状からすれば、すでに多くの自称「フェミニスト」たちは、「ネオリベラリズム(新自由主義)」に取り込まれた「転向フェミニスト」であると考えても、あながち間違いではないのである。
そもそも、タレントの如く「キラキラ」したフェミニストなどというものは、本来「あり得ないもの」なのだ。
なぜなら、「弱者の側」に立って、泥まみれの苦闘を強いられている者が、どうして見た目に「キラキラ」などしていられよう。それは「カネも暇」があってこその「見た目のキラキラ」であり、すなわち「内面の欲望ドロドロ」の証拠でしか、あり得ないのだ。どこからか「過分なカネをもらっている」何よりの証拠なのである。
○ ○ ○
「ポストフェミニズム」というのは、決まった「定義」のある言葉ではなく、論者によって、その意味するところの微妙に違った、便宜的な用語だと、そう考えるべきものだ。
例えば「アメリカン・ニューシネマ」という「映画用語」などでは、「武蔵大学の教授」で映画評論も書いている自称・フェミニストの北村紗衣と、映画マニアの須藤にわか氏の間で、若干の論戦が交わされたが、それぞれに「アメリカン・ニューシネマ」という「用語」に、決まった意味があるかの如くなされる両者の議論には、私は冷めた感想しか持てなかった。
「そんなもん(確定的な定義なんか)、あるわけがないじゃないか。便宜的な定義とか、私はこの意味で使います的なものはあっても、すべての人がこの意味で使わなきゃダメ、みたいなもんじゃないというのは分かりきった話で、肝心なのは、その用語の使い方の説得力や意義の問題だろう」
と、私はおおむね、そのように考えていたためである。
私はもともと「ミステリ小説」のファンであったから、この種の不毛な「用語の定義」問題には、かなりウンザリさせられてきたのである。
そんなわけで、本書著者である菊池夏野の場合は、賢明にも、本書における「ポストフェミニズム」という言葉の意味を、限定的に定義している。
「この本ではこういう意味で使いますよ」と、無意味な混乱を排除して意味のある議論をするために、あらかじめ「限定」を加えているのだ。
そしてそれは、すでに書いたとおり、「フェミニズムが終わったか、一定の使命を果たし終えたかに、思われている状況(現状)」を「ポストフェミニズム」と呼ぶことにする、というものだ。
そのような、ポストフェミニズムの「状況」が、どのような「問題」を現にはらんでいるのかを、主として「ネオリベラリズム(新自由主義)」下にある日本の現状に即して、いくつかの具体的なテーマについて論じたのが、本書なのだ。
どのようなことが論じられているかは、それは下の「目次」を見れば、一目瞭然である。
はじめに
第1章 ネオリベラリズムとジェンダーの理論的視座
1 本章の目的
2 新自由主義とは
3 新自由主義とジェンダー
4 フェミニズムの社会的再生産論
5 女性運動・フェミニズムの矛盾
6 最後に
第2章 日本におけるネオリベラル・ジェンダー秩序
1 問題の所在
2 均等法とジェンダー
3 男女共同参画社会基本法の意味
4 女性活躍推進法
5 展望
第3章 ポストフェミニズムと日本社会ー「女子力」・婚活・男女共同参画
1 問題の所在
2 ポストフェミニズムの特徴
3 日本社会におけるフェミニズムのイメージ
4 新しいジェンダー・セクシュアリティ秩序
5 最後に
第4章 「女子力」とポストフェミニズムー大学生アンケート調査から
1 問題の所在
2 ポストフェミニズム論について
3 「女子」に関する研究
4 アンケート調査の概要
5 アンケートから見る「女子力」に関する考察
6 最後に
第5章 脱原発女子デモから見る日本社会の(ポスト)フェミニズム
一一ストリートとアンダーグラウンドの政治
1 社会運動とジェンダーの現在
2 震災/脱原発と「女性」
3 女子デモの経過
4 女子という言葉の揺れ
5 フェミニズムの社会的位置
6 最後に
第7章 「慰安婦」問題を覆うネオリベラル・ジェンダー秩序
一一「愛国女子」とポストフェミニズム
1 問題の所在
2 鏡としての「慰安婦」問題
3 ヘイト・スピーチ論からの「慰安婦」問題の消去
4 フェミニズムを装う「愛国の慰安婦」表象
5 ナショナリズム運動における「愛国女子」の誕生
6 ポストフェミニズムと参画型少女シンボル
7 ネオリベラル・ジェンダー秩序を批判するフェミニズムへ
むすび
あとがき
そして「はじめに」の中で著者は、以上のような本書の構成を、いかにも学者らしく、次のように略記している。
『 本書の構成は以下の通りである。
第1章で、ネオリベラリズムというものをフェミニズムの立場から考察する際に必要な理論的土台の検討を行っている。具体的には、デヴィッド・ハーヴェイとミシェル・フーコー、ナンシー・フレイザーの理論を用いている。
第2章で、前章を受けてより具体的に、日本の状況に照らして「ネオリベラル・ジェンダー秩序」の内実を検討する。主に均等法、男女共同参画基本法、女性活躍推進法を素材としている。
第3章で、英米のポストフェミニズムの議論を参照し、日本社会のジェンダーとセクシュアリティをいぐる状況が、どのようにポストフェミニズムを形成しているか論じる。
ぐる状況が、どのようにポストフェミニズムを形成しているか論じる。
第4章では、日本におけるポストフェミニズムを代表する具体例として「女子力」という流行語を取り
上げ、大学生を対象にしたアンケート調査を考察する。
第5章では、2011年に大阪で行われた脱原発を訴える「女子」デモを取り上げる。関わった4人にインタビューを行い、そこから浮かび上がる「女子」という言葉やフェミニズムの意味について考える。
第6章では、「慰安婦」問題をめぐる現状から、「愛国女子」等のポストフェミニズムを形成する言説状況が広がっていることを批判的に検討する。』
私が本稿において、上の「目次紹介」の前に書いたことは、おおむね「第1章」で書かれていることを、私なりに消化した上で語り直したものだと言って良いだろう。それは、
といったレビューで扱ったきた本を読むことで学んできた「リーン・イン・フェミニズム」や「ネオリベラル・フェミニズム」や「第四波フェミニズム」といったことを、「ポストフェミニズム」という観点から整理し、語り直したものだと言えよう。
だから、その点では、特別に新しいことを本書な教えられたわけではなかったが、これまで曖昧だった「ポストフェミニズム」という言葉の指すものと、その問題点が、ずいぶんすっきりと見通せるようにはなったのである。
一方、本書において最も「学び」が多かったのは「第2章 日本におけるネオリベラル・ジェンダー秩序」であった。
この章では、「男女雇用均等法」や「男女共同参画社会基本法」「女性活躍推進法」といった、「女性の社会参加における平等の推進」を意図した「法律」について語られているのだが、私は、この「法律」というものを、長年「敬遠」してきたから、これらの法律についても、テレビニュースで耳にする程度の知識しか持っていなかったのだ。
ではなぜ、私はこれまで「法律」関係の問題を「敬遠」してきたのかというと、ひとつには、私は「なぜ、それはそうなのか?」「なぜ、それは正義だと考えられているのか?」といった「物事の本質にまで遡って考える」ということが好きであり、「法律で決まっているから、そうなのだ」というようなものは、馬鹿馬鹿しい「決めつけ」に過ぎないと感じるタイプであったからだ。
そして、もう一つの理由は、そんな私が「警察官」として「法的根拠による正義」の執行を強いられて生きてきたから、ということもある。
つまり、それに完全に納得しているわけでもないのに、立場上そうした態度を採らざるを得ない立場にあったからこそ、逆にそれに可能なかぎり抵抗してきた。一一つまり「法律の勉強」は、可能なかぎり避けてきたのだ。
警察官になれば、当然のことながら「法律」の勉強を強いられる。
最初の「警察学校」では「憲法」「刑法」「刑事訴訟法」「道路交通法」といった、警察官が当然知っていなければならない、基本的な法律の勉強をさせられる。そして、警察学校を卒業して「一線」に出てからも、生涯「法律」関係の勉強が強いられる。
というのも、法律というのは、新しいものが出来たり、昔からあるものでも、しばしば「改正」されたりするからだ。
また、「法律」というものは、「裁判官」の判断によって、どのような「解釈」が正しいのかが、具体的に示されることによって、初めて効力を持つという性質のものでもある。
だから、警察官は「法律(本文)」を知っていなければならないとしても、より重要なのは「(今現在)正しいとされる解釈」としての「判例」を知っていなければならない、ということになる。それは、「勝手な法解釈で、職務執行をすることは許されない」ためである。
その意味で、「警察官」は「法律」を知っているだけではなく、「判例」を知っていなければならない。
平たく言うなら、警察官は「法律」と「判例」の両方を暗記しておかなくてはならない。
「法律を適切に解釈する」のは「裁判官」の仕事であって「警察官」の仕事ではないから、警察官は「裁判官の(主流的な)解釈」としての「判例」を暗記して、それに沿って職務執行しなければならない。
一言一句「暗記」するといった「テスト」用の暗記ではなく、現場判断において活用できる、正確な内容理解を伴う「判例の暗記」をしておかなくてはならないのだ。
だが、私はこれが「いや」だった。
そもそも、「法律」が「絶対に正しい」とは思っていなかった。つまり、かつてそうだったように、今でも「悪法」は存在して、社会に害をなしている、と考えている。
さらには、「裁判官の判断」も「当てにならない」と考えていた。なにしろ「同じ人間のすること」なのだから「間違いはある」と考えていたので、「最高裁判決だからといって、正しいとは限らない」と、そのように考えていたのだ。
だから、そんなものを「暗記」的に勉強するのは馬鹿馬鹿しいとしか思えず、私は幅広く本を読むことで、より正しい「道理」や「正義」を身につけ、それを少しでも、自分の職務に活かしたいと考えたから、職務上強いられる「勉強」としての「法律」や「判例」の勉強には、とんと興味が無かったのだ。
警察署(所轄署)でも、月に一度は「教養日」というのがあって、その際に「新しい法律」の話や「最近の重要判例」の話も出るから、完全に「無知」でいることは不可能なのだが、少なくとも大阪府警では毎年受験を強いられた「昇任試験」において、「法律的知識」「判例的知識」と、それに基づく「正しい現場判断の知識」が求められた。
だがまた私は、それらの勉強をする気がなかった。だから、昇任する気もなく、事実しなかったのである。
昇任試験では、会場退出時間は「試験開始後何分後から終了何分前まで」という決まりがあったから、私はその決まりに従って、可能なかぎりさっさと会場を後にすることを常とした。
試験立会い人である他署の副署長クラスの幹部は、試験開始前に「時間いっぱいまで頑張ってください」みたいな「希望」を口にしがちだったが、受験生の方も、特に、巡査を10年もやって、それなりにベテランとなった、昇任する気のない者は、そんな助言など無視して、さっさと帰宅した。一一というのも、しばしば試験日が、当直勤務明けの眠い非番日であったり、わざわざ週休の日に、試験のために出勤させられたりしたためである。
そんなわけで私は、自分の職業に必要な「法律」の勉強すらろくにして来なかったのだから、労働関係の法律など勉強するはずなどなかった。
ましてや、私の場合は、「公務員」であり、基本「男の職場」たる「警察」の中にずっといたから、世間の「労働関係の法律」になど、まったく興味がなかったのだ。
そんなわけで、「男女雇用均等法」や「男女共同参画社会基本法」「女性活躍推進法」といった法律も、テレビニュースなどで耳にはしていたが、その中味を詳しく知りたいなどとは思わず、その「法令名」を見て「そういう趣旨の法律なんだな」と、そう素直に受け取っていただけである。
一一だが、当然のことながら、これらの法律もまた、そんなに単純なものではなかった。こうした法律にも、「裏があった」のである。
なにしろ「人間が作るもの」であり「時の政治権力が作るもの」なのだから、何もないわけがなかったのだ。
そんなわけで、「第2章 日本におけるネオリベラル・ジェンダー秩序」が教えてくれたのは、こうした「女性の社会参加における、平等の推進」を意図した「法律」の、「隠された裏面」であり、その「問題点」である。
そしてその本質とは、一一「フェミニズム」を尊重し、推進するように見せかけながら、実際には「低賃金で働く女性を増やそう」とする「ネオリベラリズム(新自由主義)」の、したたかな「下心」があった、ということ。
そして、「フェミニズム」が、それにまんまと利用された、という事実である。
例えば、「男女雇用均等法」が定めた「コース別雇用」とは、
『基幹的業務で責任や仕事量・配置転換・転勤は多いが、昇進・昇給等の待遇は良い」総合職に男性を「補助的業務で仕事量や責任は少なく、転勤・配置はないが、待遇は低い」一般職に女性を配置するものである。』(P40)
もちろん、法律には、このように書かれているわけではないが、結果として「そうなる」ように、意図して作られている、ということなのだ。
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どういうことかというと、タテマエとしては、女性が「基幹的業務」コースを選んでも良いし、男性が「補助的業務」を選んでも良いから「平等だ」ということになっているのだが、この法律が制定された当時の日本の場合、女性が「基幹的業務」コースを選ぶことは、実質的には不可能だった。なぜなら「家庭」があるからである。
一方男性は男性で「稼ぎ頭」でなければならないのだから「補助的業務で仕事量や責任は少なく、転勤・配置はないが、待遇は低い」一般職に甘んじているわけにはいかない。家族のために稼がなければならないためだ。だから、好きでもない転勤も受け入れざるを得ない(また、そのために女性の方は、家庭や子供を任されて、転勤が出来ないことになる)。
したがって、この「コース別雇用」が、男女に平等に機能するためには、その「コース選択の自由」を保証するために、まず、女性が「家庭の仕事」から男性と同程度に解放されていなければならない。そうでなければ、「配置転換・転勤は多い」職務になどつけるわけがないのである。
言い換えれば、このコースを選ぶためには、「それまでの家庭における女性の立場」を捨てなければならなかったのだが、そんなことをできる者とは、「出世のためなら結婚や子育ても断念できる」という、ごく一部の女性に限られたのである。
つまり、この「男女雇用均等法」の、結果としての効果は、大半の女性を「補助的業務で仕事量や責任は少なく、転勤・配置はないが、待遇は低い」一般職に縛りつけることを「法的に正当化するもの」、にしかなっていなかったのである。
「どちらを選んでも良いとなっているのに、あえて自分で、一般職を選んだんだから、低賃金は仕方ないでしょう? これは女性だから低賃金だという、差別などではないんですよ」と、そういう「からくり」だったのである。
で、私が「警察」の中で、言うなれば「生涯一巡査」として「補助的業務」だけにたずさわり、「昇進」や「幹部としての責任を負うこと」から自由であり得たのは、「昇進しても給料に大差はなく、責任だけが重くなる」という、公務員特有の「恵まれた」現実があったためだ。
無論それでも、大半の者は(承認欲求や世間体などから)「出世したい(昇任したい)」と思うものだし、ある程度「出世(昇任)」しておけば退職後に「天下り」ができるというメリットもあるにはあった。だが、私にすれば、そこまでする(つまらない法律の勉強に、膨大な時間を費やす)ほどのメリットだとは思えなかったのだ。
また、結婚して子供を作っておれば、また話も違って、そうも余裕をかましてはいられなかったのかもしれないが、私は独身での趣味的な生活という「現状」に満足していたから、引き受けたくもない仕事をするために、結婚したり子供を作ったりすることの「必要性」など認めなかった。
「そうなってしまったら」その時は諦めるにしても、「そうでなければならない」とは、まったく考えなかったのである。
したがって、私のような「変わり者」かつ「公務員という特殊な立場」にあったればこそ、この「男女機会均等法」という法律における「コース別雇用」というものには、実際にも実質的にも無縁でいることができた。
だからこそ、これらについて真剣に考える機会もなかったし、「男女共同参画社会基本法」や「女性活躍推進法」についても、実質同じような感じしか持っていなかった。
せいぜい「最近は女性も男性と同じ程度に雇用しなくてはならないという法律ができたから、基本、男の職場であった警察も、婦人警官、ではなく、女性警官を増やさなければならなくなってきたけれど、それでも粗暴犯罪者と現場で対峙しなければならない外勤警察官の場合、それも限度があるよな。女性に内勤勤務(事務職)ばかりさせるのも、それはそれで差別だということになるようだし」程度の認識だったのである。
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つまり、自身を「古いタイプのフェミニスト(女性尊重論者)」だと規定していた私は、基本的には「男女雇用均等法」や「男女共同参画社会基本法」「女性活躍推進法」といった法律が、「女性の望む社会進出を後押しするもの」だと額面どおりに受け取っていたのだが、「第2章 日本におけるネオリベラル・ジェンダー秩序」を読んで、現実には、そんな「甘いもの」ではなかったということを、論理的に教えられたのである。「なるほどそうだったのか。まんまと騙されていたな」と、納得させられたのだ。
そんなわけで、この「第2章」は、私と同様に、「男女機会均等法」や「男女共同参画社会基本法」「女性活躍推進法」といった法律の「ネオリベラリズム(新自由主義)」的な「裏」について、知らなかった人や考えたことのなかった人には、ぜひ読んでほしいところである。
そして、ここで理解しなければならないのは「勝てば官軍」と考える、本質的に「嘘つき」である「ネオリベラリズム(新自由主義)」の唱える「男女平等」とか「多様性(ダイバーシティ)」とかいったことを、決して真に受けてはいけない、ということである。
しかし、多くの女性は「低賃金でも、社会進出すべきである」と思い込まされているし、そのために「搾取されている」のだということを理解すべきで、またそうした厳しい認識が必要だというのは、「フェミニスト」であっても同じことなのた。
なぜなら、そうした厳しい現実認識を待っていないと、「ネオリベラリズム(新自由主義)の侍女」たる「リーン・イン・フェミニズム」を素晴らしいことのように語る、シェリル・サンドバーグのような、「キラキラ」と輝く「(社会的)成功者」としての「リーン・イン・フェミニスト」や、そうした「ネオリベラル・フェミニズム」としての「ポストフェミニズム」の一種でする「第四波フェミニズム」における「成功者としてのフェミニスト」の存在を「否定することはできない。なぜなら、それはフェミニズムが目指してきたもの(平等な社会参加)へのバックラッシュだからだ」と主張する、「専修大学教授」の河野真太郎のような、欺瞞的な「男性フェミニスト」などと同様に、易々と「ネオリベラリズム(新自由主義)」に呑み込まれ、その「道具」と化してしまうからである。
つまり、女性が、男性と同等に社会進出できる権利を得なければならないというのは「当然のこと」なのだが、しかしそれは、
(1)一見それを推進するような法律であっても、実質的にはそうではないものであることが珍しくない。
という厳しい現実理解を伴うものでなければならない、ということなのだ。
「看板」を鵜呑みにしてはならず、それが実質的にどう「機能するもの」なのかを、ちゃんと見抜かなければならない。
そして、もうひとつ重要なことは、
(2)女性は(男性も)、利潤の追求のための「労働」に限定された「社会進出」や「社会的成功」を強いられてはならない。
ということである。
その道を選んだ場合に、平等に権利が保障されている必要はあっても、「その道を選ばないと、ろくに権利が保障されない」ということであってはならない。
だが、「ネオリベラリズム(新自由主義)」が求めるのは「安い労働力になってもらう」ということなのだから、働こうとしている女性に対して、一見「応援するポーズ」は採っても、「資本主義社会における栄達」という「一面的な価値観」に縛られない、「別の生き方」を望む女性に対しては、当然のことながら「ネオリベラリズム(新自由主義)」は、彼女らを「無視・放置」するのである。
「おまえらには用はない。勝手にのたれ死ね」と。
しかし、すべての人間に、生きる権利が保証されなければならない。
「働けるから(社会に貢献するから)、保証される」のではなく、「働けない人」であっても「人権」が保障され、その「健全な生の営み」が保証されなければならないのである。
ところが、「ネオリベラリズム(新自由主義)」が蔓延してしまった今の世の中においては、多くの人が「ネオリベラリズム(新自由主義)」的な価値観を、その自覚のないまま「内面化」してしまっている。
すなわち「働かざる者、食うべからず」という価値観である。
しかし、これは「ネオリベラリズム(新自由主義)」の「思う壺」であり「洗脳」の一種だと、そう理解すべきものであろう。
なぜなら、「働かざる者、食うべからず」という「タテマエ」の裏には、「どれくらい働けば、食えるのか」という保証など無く、その「基準」を決めるのか、「1パーセントの奴ら(支配的エリート)」であって「99パーセントの私たち(労働者)」ではないからである。
一一となれば当然、「食うために働かなければならない労働量」は、「奴ら」の意のままに、際限もなく肥大高騰させられる。
「大した能力も才能もないおまえが、これくらいしか働けないでいてに、給料が安い、これでは食べていけないなどと言うな。もっと働け」というわけである。
そして、そのようにして働かせた成果を、彼らはますます「搾取」し、「経済的格差」は今もどんどん広がっているのである。
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したがって、話を「フェミニズム」に戻すならば、今の「ポストフェミニズム」的な状況とは、現在の「資本主義」の形態である「ネオリベラリズム(新自由主義)」の「侍女」たる「リーン・イン・フェミニズム」や日本で言う「第四波フェミニズム」といった「ポストフェミニズム」的なフェミニズムと、それらに対抗して「ファミニズムは未だ達成されず」とする従来のフェミニズムという、対照的な「2つのフェミニズムの混交状態」のことだと、そう言えるだろう。
だから私たちは、「フェミニズムといえばフェミニズムでしょ」的な単純安直な理解に止まるのではなく、それが、本当に「すべての女性のためのフェミニズム」なのか、それとも「一部の女性の成功のためには、他の女性の犠牲も辞さないフェミニズム」なのかを、きちんと見分けて評価しなければならない。
そうでなければ、したたかな「嘘つき」である「ネオリベラリズム(新自由主義)」に、収奪される一方となり、搾り取られるだけ搾り取られたあげく、枯死させられるしかないのである。
まるで、一種の「地球資源」ででもあるかのように。
(2025年2月25日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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