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マーク・トウェイン 『トム・ソーヤーの冒険』 : 「差別者」とは誰か?

書評:マーク・トウェイントム・ソーヤーの冒険』(土屋京子訳・光文社古典新訳文庫)

私の場合、『トム・ソーヤーの冒険』には、あまり興味がなかった。
今回、この「光文社古典新訳文庫」版で読むまでは、「トム・ソーヤー」ではなく、ずっと「トム・ソーヤ」だと思い込んでいたくらいである。

なぜ、私が『トム・ソーヤーの冒険』に、興味が持てなかったのかというと、それは高校生の頃に見たテレビアニメの『トム・ソーヤーの冒険』(1980年1月6日〜12月28日)が、いささか子供っぽく感じられたからかもしれない。

このテレビアニメ『トム・ソーヤーの冒険』は、たぶん最初の方の回をしばらく見て、途中で見るのをやめたのではないかと思う。だから、印象に残っているのは、最も有名と言っていいだろう、「塀のペンキ塗り」のエピソードだ。

(原書初版本の挿絵)

これは、ポリーおばさんから命じられた、退屈な塀塗りの仕事を、いかにも楽しげにやっているように見せかけて、友達に代わりにやらせてしまう、トムの機知を描いて「愉快なエピソード」だ、ということになっている。だが、私には「一休さんトンチ」みたいに感じられ、「なるほどね」とは思っても、特に「愉快」だとは思えなかったのだ。

そして、その特に愉快だとも思えなかったエピソードが強く印象に残っているのは、『トム・ソーヤーの冒険』の邦訳本の表紙イラストというと、このエピソードを描いたものが多いからであろう。
右手にペンキのハケ、左手にペンキの缶をさげたトムが、塀の前に立っており、その横でその様子を眺めている別の男の子に何かを話しかけている、といった様子を描いたものである。

(有名な、ノーマン・ロックウェルによる「柄塗り」のイラスト。塀の板が縦になっている)

私は、古本屋めぐりを趣味としたような人間だから、『トム・ソーヤーの冒険』自体には興味がなくても、この表紙が長年の間にくり返し目に入ってきたものだから、『トム・ソーヤーの冒険』といえば、このシーンだとの印象が、否応なく重ね塗りされたのであろう。
そして、そのシーンに興味がなかったものだから、よけいに『トム・ソーヤーの冒険』という作品そのものからも興味を遠ざけられることになったのではないだろうか。

したがって、『トム・ソーヤーの冒険』といえば、記憶にあるのは、もちろんテレビアニメ版で、しかも覚えているのは、話の内容ではなく、声優のことばかりだ。

(テレビアニメ版。左から、ハック、トム、ベッキー)

トムを演じたのは『ドラゴンボール』悟空役などで知られる野沢雅子さんで、当時、アニメの主人公級の「男の子」といえば、野沢雅子小原乃梨子藤田淑子が、そのビッグ3であった。

今でこそ、野沢雅子さんといえば孫悟空だが、私の世代だと、子供の頃に見た『ゲゲゲの鬼太郎』鬼太郎役なんかが、強く印象に残っている。
一方の、先年亡くなられた小原乃梨子さんは、『タイムボカン』マージョ役や、同系統キャラである『ヤッターマン』ドロンジョ役が有名で、大人の女性の声もこなしたが、やっぱりメインは「男の子」。例えば『ドラえもん』のび太や、『アルプスの少女ハイジ』ペーターなど、野沢雅子に比べて、ちょっと優しい感じの男の子が多かったかもしれない。洋画の吹き替えでは、ブリジッド・バルドーなんかもやってたから、マージョやドロンジョというのは、そのあたりの「色っぽくて可愛らしい女性」の声、という観点からの抜擢だったのではないだろうか。
藤田淑子さんの場合は、「しっかりした真面目な男の子」という印象のキャラクターが多く、例えば『一休さん』一休さん。あと、個人的には『がんばれ元気』の主人公・堀口元気も強く印象に残っている。

しかしながら、『トム・ソーヤーの冒険』の声優で、特に印象に残っているのは、ハックルベリー・フィン役の青木和代さんだ。
どうして印象に残っているのかといえば、この作品でのハックが、見かけも「ジムシー」に似ていれば、声も同じ青木さんであったからである。
もちろん、ジムシィと言えば、宮崎駿のテレビアニメ初監督作品である『未来少年コナン』(1978年4月4日〜10月31日)の、コナンの親友である、あの個性的な野生児ジムシィのことだ。あの独特のガラガラ声が印象に残っていたので、ハックの声を聞いた瞬間に「ジムシィじゃないか!」と思ったのである。

しかしながら、私の場合、特にジムシィが好きだったというわけではない。というか、『未来少年コナン』という作品そのものが、そんなに好きではなかった。
なぜ、あの歴史的な名作をあまり好きではなかったのかというと、基本的に「お姫様を救い出す、少年騎士の物語」には、興味がなかったからである。

まあそれはともかく、ハックの声が青木和代さんで、しかも、宮崎駿らしく元気なジムシィに対し、似たような顔をしているのに、ハックの方はやる気のなさそうな感じだったので、そのギャップが印象に残ったのだと思う。
ちなみに、ジムシィとハックの「顔が似ていた」のは、どちらも、当時のアニメ制作会社である「日本アニメーション」系の作品ということで、スタッフに共通するところが大きかったからであろう。絵柄やキャラクターデザインというのは、流行り廃りがあるのだ。

(『未来少年コナン』のジムシィ。ハックとは、タバコを吸うという共通点も)

あと、今回思い出したことだけれど、ベッキー役は、記憶どおりに、潘恵子さんだった。今では、娘の潘めぐみが大活躍しているけれど、この頃の潘恵子はまだ、さほどメジャーでもなかったはずなのだが、それでも私の印象に残っているのは、潘さんが『機動戦士ガンダム』(1979年4月7日〜1980年1月26日)で、ララァ・スン役をやっていたからであろう。

そんなわけで、アニメ関係の記憶しか残っておらず、作品自体にはまったく興味のなかった『トム・ソーヤーの冒険』を、今回読もうと思ったのは、先日『ハックルベリー・フィンの冒険』の方を読んで、これがとても面白かったからだ。

また、『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んでいると、ハックのセリフに、つい青木和代さんの声を重ねてしまっている。
「いっこもいいことなんかねえよ」といった、ちょっと脱力系のセリフが、青木さんぽいものと感じられて、どこか懐かしかった。
もしかすると、訳者の土屋京子も、あのテレビアニメを見ていたのではないかと、そんなことまで想像してしまったのである。

(猫の死体をひっ下げて、ハック初登場)

さて、そんなわけで、マーク・トウェインという作家には興味のなかった私だが、それでも、「文学」の世界では、『トム・ソーヤーの冒険』よりも、『ハックルベリー・フィンの冒険』の方が数等評価が高い、ということくらいは承知していた。
だから、マーク・トウェインを読むのに、制作年順に『トム』『ハック』ではなく、『トム』の「続編」的な作品である『ハック』の方を、あえて先に読むことにした。『ハック』を読んで、『トム』を読むかどうかを決めれば良いと考えたのだ。

で、その『ハック』が、予想以上に面白かったので、『トム』も読むことにした。
『トム』は、『ハック』に比べると「子供向け」だと言われ、そのぶん物足りなさはあるかもなと、そう思いながらも、この機会に、『トム』の方も読んでおくことにしたのである。

(口絵のトムは、かなりおめかし気味)

 ○ ○ ○

で、結論から言うと、予想どおりに『トム』は『ハック』に比べると「子供向け」であり、その点で少々物足りなかった。
同じ「少年の冒険譚」だと言っても、『ハック』の方には「黒人奴隷制」の「差別問題」が扱われて、ハックの苦悩が描かれているのに対し、『トム』の方には、そうした「大人向け」のテーマは、少なくともハッキリとしたかたちでは描かれていない。
やはり、物語の中心は、子供らしい「妄想癖のあるユニークな少年の冒険物語」なのである。

(友達と「ロビン・フッド」ごっこ)

例えばトムの「僕がこうして家出したあと、(家族の)みんなは、僕のことを思い出して、可哀想なことをしたって、きっと後悔して悲しむだろう。でも、その時はもう遅いんだ」なんていう類いの「妄想」は、私自身にも思い当たる節があって、なかなか楽しい。
だが、「宝探し」的な冒険譚が妄想に終わらず、物語の中で現実になってくると、かえって「子供向け」の物語という印象が強くなり、あまり興味が持てなかった。
したがって、印象としては、「世間並み」に私も、前半の方が面白くて、後半はいささか「ありがち」という印象も無いではなかったのである。

(ベッキーと共に、鍾乳洞で遭難のシーン)

そんなわけで、一般には『ハックルベリー・フィンの冒険』の高い評価の陰になって、それほどの評価が得られていない『トム・ソーヤーの冒険』なのだが、しかし、本書解説者である早稲田大学の都甲幸治が力説して『トム』をかばっているように、もともと『ハック』の方が、「児童文学としては」異色に「重い問題」を扱っており、その部分で「知識人」読者から高い評価を受けただけで、『トム』の方は、言うなれば、当たり前に「児童文学」だっただけなのである。
だから、当たり前に「児童文学」として読むならば、『トム』は立派に「児童文学の名作」だという都甲の評価も、まったくそのとおりだと思う。
仕方がないことだとはいえ、『トム』は、比較される対象が悪すぎた。いや、比較の対象が「優秀すぎた」のだ。

しかしながら、『ハックルベリー・フィンの冒険』が、そうした「大人向け」の「重い問題」を扱っていたというのは、無論、偶然などではない。

(インジャン・ジョーたちが鍾乳洞に隠していたお宝を手に入れて、トムとハックは大金持ちになる。ハックには身元引受人も現れ、真っ当な生活を与えられるが「あんな窮屈な生活は我慢ならねえよ。金なんかいらねえ」と逃げ出してしまう)

マーク・トウェインはもともと、ジャーナリスト気質のある人で、社会に対する批判意識の強い人だったからこそ、『ハック』のような作品も書けたのだが、その彼が、『トム』の段階では、どうして、そうした「社会批評性」を前面に打ち出さなかったのか。

(トムのイタズラと海賊ごっこ)

それはたぶん「最初は大人向けの小説として書いていたものを、助言を受けて、子供向けに書き直した」という、その経緯からであろう。
その結果として『トム・ソーヤーの冒険』という「児童文学の傑作」を産むことになったのだが、そこからは「子供向けとしては過剰な部分=大人向けの部分」が失われていたのである。

『少年少女向けの娯楽小説として書かれた作品だが、著者は前書きで、かつて少年少女だった成人たちにも読んでほしいと述べている。また、あとがきでは「これ以上続けると、“少年”の物語ではなく“男”の物語になってしまうので、これでおしまい」と結んでいる。』

(Wikipedia「トム・ソーヤーの冒険」

こうあるとおりで、より正確に言うなら、『トム・ソーヤーの冒険』は、「最初は大人向けに書き始められたものを、子供向けに書き直した作品」だからこそ、冒頭に作者の言葉として「大人にも読んでほしい」というコメントがつけられており、本来の構想にはあった「成長した後のトムの物語」の方は、カットされていたのである。

したがって、トウェインの作品には、最初から「大人向け」の「社会批評意識」が込められていたのだが、『トム』の場合には、そこが「削られた」ということに過ぎないのだ。

だから、解説者である都甲幸治が指摘しているとおり、『トム・ソーヤーの冒険』にも、『ハックルベリー・フィンの冒険』に通ずる「差別の問題」が、暗示的には語られている。

一一無論それは、インジャン・ジョーという、インディアンとたぶん白人の混血である凶悪犯をめぐる部分だ。

(インジャン・ジョー(右)は、泥酔して記憶のない仲間(中央)に、殺人の罪をなすりつける)

たしかに本作『トム・ソーヤーの冒険』では、インジャン・ジョーは、最後まで「悪党」として描かれており、作者の「同情」を示すような描写は存在しない。
その点が、「黒人」への同情をはっきり語った『ハックルベリー・フィンの冒険』との最大の違いであり、そこが「知識人」読者からの評価の分かれ目ともなっているのだが、この点に関しては、もしも『トム』が、当初の構想どおりに書かれていたとしたら、インジャン・ジョーについても、もっと突っ込んだ描写がなされたのではないかと、そう考えることも十分に可能なのである。

(アニメ版のインジャン・ジョーは、はっきりとインディアン風に描かれているが、その分、悪人ぶりは随分と薄められている)

ここでは、都甲幸治による「解説」から、そのあたりを論じた部分を引用紹介しておこう。

『 第二の人種問題についてはどうか。二〇〇〇年に、自らも(※ ネイティブ・アメリカン)オセージ族の血を引く研究者のカーター・リヴァードはこう述べている。『ハックルベリー・フィン』における黒人奴隷の問題について様々な人が論じてきたが、『トム・ソーヤー』におけるネイティヴ・アメリカンについては多くの人が見過ごしてきた。それはアメリカ合衆国で、ネイティヴ・アメリカンに対して過去、大規模な虐殺が行われたことを人々が認めてこなかったからだ。そしてそこが歴史認識の盲点になっているからこそ、『トム・ソーヤー』におけるインジャン・ジョーのひどい扱いについてもみな気づかないのである、と。
 リヴァードの論を念頭において『トム・ソーヤー』を読みなおすと、二つのネイティヴ・アメリカン像が提示されていることに気づく。(※ トムが思い描く)高貴なインディアンという口マンティックなイメージと、白人社会への憎しみに掻き立てられた無法者インジャン・ジョーの姿である。インディアンに憧れるトムは思う。「いや、軍人よりもっといいのはインディアンだ。インディアンになって、はるかなる西部の険しい山岳や道なき大草原でバッファローを狩り、戦いに明け暮れ、いつの日か大酋長となって村に戻ってくるのだ」(一四〇ページ)。しかしこれはトムが読んだ物語の中だけの話だ。実際には様々な方法でネイティヴ・アメリカンたちは虐殺され、土地を奪われ、強制移住させられたのは歴史が教えるとおりである。
 ネイティヴ・アメリカンとおそらく白人との混血であるインジャン・ジョーは治安判事について言う。「あの野郎、おれを馬用の鞭で打たせやがったんだ! 牢屋の前で、馬用の鞭で! ニガーみたいに! 村じゅうの人間が見てる前でよ! 馬用の鞭だぞ! わかるか? え?」(四一六ページ)。なぜインジャン・ジョーは白人社会に憎しみを抱いているのか。それは彼を人間だと認めてくれないからである。そして人間でなければ、法で保護されることもない。インジャン・ジョーが無法者なのは、白人社会によって法の枠外に最初から追放されているからだ。
 しかし白人社会の側は自分たちの暴力性を認めない。むしろ暴力はネイティヴ・アメリカンのほうにある、というのが白人社会の主張だ。たとえばインディアンなら耳を刻んでも鼻を削いでも当然だ、とウェールズ老は語る。すなわちインジャン・ジョーの攻撃性はそもそも血の中にあり、それを取り除くためには彼を殺すしかない、という論理である。
 サッチャー判事が(※ そうと知らずに)子どもたちの安全(※ 事故防止)のために作った洞窟の扉のせいで、インジャン・ジョーは外に出られず、苦しみぬいて餓死する。ここでも、ジョーの死は誰のせいでもないことになっている。共同体の安全のためなら人が死んでも仕方がない、しかもジョーのような極悪人ならなおのことだ、という理屈はいただけない。ここには、ジョーを追いやったこの町の共同体の独善が感じ取れる。
 リヴァードの論を踏まえた上で、しかしながら本論では、トウェインがこうした二つのネイティヴ・アメリカン像を提示したことを積極的に評価してみたい。そもそも『ハックルベリー・フィン』のハックだって、奴隷制は正しくないのでは、と思いながらも結局、黒人奴隷のジムに対して決定的な手は打てなかった。そしてハックが何もしなくとも、実ははじめから(※ 逃亡奴隷の黒人)ジムは開放されていた、というグズグズの結論にたどり着く。
 ならばトウェインがインジャン・ジョーの白人社会に対するリアルな怒りを少年向けの文学に導入した、というだけでも十分に意義があるのではないか。たとえ最後には無残に殺してしまうにしても、である。そもそも一九世紀にネイティヴ・アメリカンが白人よりも正しい、という作品を書いて国民文学になるわけがない。トウェインが時代的制約の中で、それでも声を抑圧された人々がいるということを、インジャン・ジョーという不気味なキャラクターに結晶させて読者に示したことは重要だろう。』(P524〜527)

(鍾乳洞に閉じ込められてしまった、インジャン・ジョー)

そのとおりだ。
誰もが「黒人差別はいけない」「ネイティブ・アメリカン差別はいけない」「女性差別はいけない」などと言い出して、それが「常識」となった時代に、その「常識」を、おうむ返しに口にするだけなら、それこそ「馬鹿にだってできる」。

だが、「差別はいけない」と言ったその口が、「今この時」に、どのような「差別」を行なっているのかという「自分自身の問題」については、そうした「世論の側につい(て、安心しきっ)た人」というのは、えてして「無自覚」なものなのだ。
しかし、こうした「無自覚な大衆」によってこそ、新たな「差別の対象」は、日々産み出されてゆく。そして「差別の対象」こそ変わりはしても、「差別」そのものは、いっこうに無くなりはしないのだ。

(殺人事件の捜査を見守る人々)

「今の私たちは、歴史に学んで多くのことを知っているから、昔の人よりは利口になったはずだ」と、愚かな人たちは、そう勘違いしがちなのだが、それこそが「大衆の愚かさ」というものなのだ。

人間が、「知識」を得ることで、少しずつでも「利口」になれるのだとしたら、例えば、「このままでは、地球温暖化で、近い将来、人類は破滅してしまう」という「知識」を持っていながら、目先の「欲得」や「快楽」にとらわれて、「今の生活を変えられない」などということには、決してならないはずだ。

つまり、人間の「欲望」とは、「知識では変えられないもの」なのだ。
だからこそ人間は、その「動物的な欲望」にしたがって、愚かな生活を続けてしまうのだし、同じ意味において、「差別」を再生産してしまうのである。

だから、少しでも「差別」を減らすために、私たちが、しなければならないこととは、私たち自身「差別が大好き」だという事実を、まず認めることなのである。
その上で、その度し難い欲望を、すこしでも好ましい方向へと、どのようにして振り向けるのか、コントロールすればよいのか、ということしかない。

またその意味で、「私は差別なんかしない」と、そう安易に思い込んだまま、無邪気に「差別反対」を叫んでいる者ほど、度し難い「差別者」もまた、他にはいないのである。

「差別に反対する」と言うのであれば、まず、自分の胸に手を当ててみるべきなのだ。
それこそが、本物の「良心」というものなのである。


(2024年10月16日)


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