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晴佐久昌英 『福音宣言』 : 権威主義者の保証する 〈愛〉

書評:晴佐久昌英『福音宣言』(オリエンス宗教研究所)

ヤグザや半グレ、タチの悪いヤンキーや悪質セールスマンなどの世界では、どんな手を使おうと、やったもん勝ちであり、勢力を伸ばしたり、実績(数字)を上げたりした者が、勝者となる。

成り上がることが目的なのだから、「目的は、手段を正当化する」のであり、仮に「1対1の勝負」を申し入れておいたとしても、子分に加勢させたり、飛び道具を使ったりすることだって許される。
要は、結果として勝ち残れば、それが彼らの「正義の証し」だと、むしろ勝ち誇ることさえできるのだ。

映画に登場するチンピラなどが、よく、馬鹿正直にも正々堂々の勝負に応じてきた相手のことを、ヘラヘラ笑いながら、愚か者呼ばわりして、自身の「利口さ」を自慢しさえするシーンなどがあるけれど、こうした性格類型は、どんなジャンルにも必ず存在していて、いつでも自分の、手段を選ばない「実績」を、「勝った勝った」と、ことさらに自慢したりするものだ。

企業だの役所だので、時に汚職や不正が蔓延ったりするのも、こうした「目先の実績主義」に走る者がおり、またそんな人間が、その「数字的実績」だけで、上から評価されたりするからである。

仮に、中身のない、くだらない人間であっても、「なんだかんだ言って、彼は実績を上げてるんだから、数字の上がってないこちらが、あれこれ言うことはできないよ」といった、及腰の常識人が多いからこそ、組織の腐敗が止められないのだ。

そして本書も、そんな悪しき現実の「カトリック教会における、わかりやすい一例」だと言えるだろう。
その意味で、本書や著者から学ぶべきことなら、大いにある。一一無論、「反面教師」としてではあるのだけれど。

 ○ ○ ○

本書を手に取ったのは、先ごろ刊行された、ノンフィクション作家・最相葉月によるインタビュー集『証し 日本のキリスト者』に登場する「135人の日本のキリスト者」の一人として、本書『福音宣言』の著者・晴佐久昌英神父も登場していて、私からすると「悪目立ち」していたためだ。

ご自分でおっしゃっているように、著書まであるようなのだけれど「若くもないのに、ずいぶんイキってる神父だな」という印象だったのだ。

そんなわけで、同書からそのあたりを引用しつつ論評を加えていくと、次のような具合になる。

(1)『 ぼくはのちに『福音宣言』という本を書くんだけど、宣言することのすごさに確信を持てた一つの出来事だった。(※ 癌で闘病中だった)父は(※ 息子の、神父になるという言葉を聞いて)嬉しかったと思うし、見舞いのお客さんが来るごとに、うちの息子は神父になるんだよといって、喜んでくれたね。(P561)

孝行息子であったことをアピールしつつも、自著の宣伝を噛ませてくるところが、なんともちゃっかりしていて、カトリック神父としての重みや品位など、まったく感じられないというのは、そここそが、晴佐久神父の「素の顔」だということである。

(2)『 洗礼を求めて、プロテスタントも含めていろんな教会を右往左往していた若い夫婦がいました。旦那がすごく純粋な人で、疑問を持ったら質問しまくる。教会の現場では嫌がられるんです。あっちじゃうまくいかない、こっちじゃ嫌われる。
 それで(※ 晴佐久神父が司祭を務めていた)カトリック高幡教会に(※ かの夫婦が)来た。旦那は入門講座で質問しまくるんですが、それを私が返す刀で次々と切り倒していく。みんなおもしろがって聞いてくれたけど、このタイプはみんな(※ 神父や牧師)に嫌われるだろうなあって思ったね。でも、ここでぼくが嫌がったら同じ穴の狢です。俺は違うよって、きっちりやっていったら、参りましたと。それで洗礼を受けたんです。』(P567)

海援隊「あんたが大将」を聞かせてあげたいほど、露骨に「自慢話」をする人である。
これは、自信過剰で自分が見えていない証拠だと言えるだろう。

(3)『 教会は惨憺たる現場です。どこの教会もだいたいゼロから始めないとだめです。
 私がある教会に赴任したとき、今はもう亡くなった前任者の神父が引き継ぎでいいました。先輩だから呼び捨てなんですけど、「晴佐久、この教会は死んでるよ。ここじゃ、いくらきみでも洗礼を授けるのはむずかしいよ。場所も悪いし、信徒はみんな頑固だし、死んだ教会だよ、ここは」って。
 耳を疑いました。燃えたよね。次の年に八四人、洗礼を授けました。やるだけやったよね。あれだけのことはもうできない。だって一人ひとりと何度も面談したんですから。一年中、ずーっと面談してたよね。
 面談がつらくてしんどいとか、自分のケアが必要になるくらいなら、そんな面談はやめろと聖職者にいいたいですね。面談は感動なんだって。そこから力をもらわないような面談だったらやめなさいといいたいね。おかしいでしょ、嫌々される面談なんて。』(P568〜569)

「死人に口無し」で、先輩神父を出汁にしての「教会批判」である。
この信者が増えない時代に、自分は1年間で、なんと『八四人、洗礼を授けました』よ。つまり、やる気があったらできるはずなのに、どいつもこいつもやる気がないんだから。一一と、実績を上げている晴佐久神父の、鼻息は荒い。

きっと、周囲の神父からは面倒くさがられているのだろうが、実績を上げているのだから、注文はつけづらいし、そもそも同じ神父に対して、衷心から注意しようなんて気もしない。ニコニコしながら「さすがは、晴佐久神父ですねー」などと言いながら、晴佐久がズッコケるのを心待ちにしているのだろう。晴佐久神父を見ても分かるように、神父だって「人間だもの」。

(4)『 十字架を立てて看板挙げたら教会かって、そんなんじゃないです。そういうものを再生産してきたのが悪霊の働きだということに、そろそろ教会も気づき始めているんじゃないか。
 だって、圧倒的に民衆が支持してませんもん。消えていきますよ、教会は。自分たちの妄動に合わないものは排除して、妄動をさらに深めていく。あれだけ排除しておきながら、信者が増えない、増えないって、もう意味がわからない。ぼくのところにも来るんですよ、あっちで来るなといわれ、こっちで来るなと排除された人たちがね。
 イエス様が水の上を歩いたなんておかしいでしょうといったら、あとで、そんなこといっちゃだめよと牧師夫人(※ つまり、プロテスタント)に諭されたってね。それから怖くなって二度と行かない。二度と行かない人がどれだけいるか、教会も気づかないといけない。
 普通の店だったら、もう一度来てもらうためにどれだけ努力しているか。それもしないで、そりゃあ、店はつぶれるでしょう。
 異端でもいいんですよ、救われるなら。でも、異端てなんなの。ぼくの教会にもたまに来ますよ。でもね、それはそれで微笑ましく受け止めるのが(※ カトリックの)普遍主義の凄みなんでね。
 (※ プロテスタントである)牧師が右と言えば右、(※ カトリックは)聖書に左と書いてあるなら左。それって楽ですよ。悩む必要がない。いわれた通り、書かれている通りやっていればいいんだから。でも楽にはまって、本当の勉強も修行もしないで、ひとかどのものであるかのように十字架を立てて、看板出して(※ つまり、神父や牧師になって)みんなを惑わしている。
 あれ、なんか、言いたい放題だね。だって被害者がいっぱいいるんだもん。かわいそうでしかたがない。』(P572)

晴佐久神父自身も、自分が熱狂的な信者を持ちながらも、周囲の神父からは疎まれており、「あれは一種の異端だ」なんて陰口されていることも薄々感じてはいる。
しかし、何しろ、自分は「実績を上げている」のだから、口ばっかりで、宣教については動きの鈍い「頭でっかち」なんか、引っ込んでいろと、そうお腹立ちなのである。
この気持ちもわからないではないのだけれど、やはりちょっと、アレなのだ。

以上(1〜4)は、前述のとおり、最相葉月の著書『証し 日本のキリスト者』から、本書『福音宣言』の著者・晴佐久昌英へのインタビューパート(P556〜572)の一部抜粋して引用したものである。

まあ、晴佐久神父としては、自分が知ってるくらい有名な「小説家」や「思想家」などならばともかく、よく知らない(当然、読んだこともない)ノンフィクション作家で、しかも「年下の女」だからと、そう甘く見て気をゆるしたのであろうが…、それにしても、一一最相葉月もそうとう意地が悪い。

聞き書きなんだから「仕方がない」とは言え、晴佐久先生の口調を、遠慮なく「忠実に」再現したのだろう。
その結果、これを読んで、眉をひそめるカトリック関係者が少なくないだろうことくらい、最相葉月ほどのベテラン作家なら重々承知していたはずなのに、晴佐久先生の「おしゃべり」を、ご丁寧にも「そのまま再現」したんだから。

無論、晴佐久神父のこの「語り」に端なくも表れているのは、仏教で言うところの、「増上慢」である。

カトリック関係者なら「晴佐久のやつ、調子に乗って、また自慢話や、無用の批判なんかを吹きやがって」と眉をひそめるだろうし、晴佐久神父に「心酔していない」平信徒なら「そうそう、あの神父さんは、いつもこんな調子だよね」と大笑いし、プロテスタント関係者は「カトリックさんも、いろいろ大変そうだな。こんなにすごい神父さんを抱えているんだから」と、皮肉な笑みでも浮かべていることだろう。

もちろん、晴佐久神父だって、まんざら馬鹿ではないのだから、自分の著書では、こうした「うぬぼれ屋」ぶりを丸出しにはしないよう、心がけてはいるのであろうが、それでも、ある程度の長さの文章を書けば、いやでも著者の人間性というのは出てしまうもの。

だからこそ、こんな「神父」さんが書いた『福音宣言』なる本は、いったいどんなものなのかと、私は興味津々、いささか下世話な興味を持ってしまったのである(だって、無神論者なんだもの…)。

 ○ ○ ○

簡単に言えば、本書『福音宣言』で語られているのは、「つべこべ言っていないで、宣教(布教)しなさい」ということである。

「やる気があれば、自分(晴佐久昌英)のように、受洗者数を上げることができるんだから、受洗者が増えないのは、つべこべ「理屈」を並べてばかりで、「福音」を語る努力をしない、神父や牧師が悪いんだ。
無論、平信者だって同じで、心からの信仰を持っているんだったら、難しい理屈をこねる必要なんかないんだから、身の丈にあった言葉で「私はイエスを信じています」「この信仰は素晴らしい」「あなたを救いたい」と、そんなふうに、外に向かって語るだけでいいんだよ。

ところが、平信徒はおろか、神父だって、この信仰がいかに素晴らしいものかというのを、求められて初めて「説明」するくらいのことはするけれど、その素晴らしさを、外に向かって積極的に語る(宣教=晴佐久造語で「福音宣言」)ということをしない。

「福音とは何かを説明」することと「福音を告げる、語る」ってことが、ぜんぜん別物だってことがわかってもいなければ、それを外に向かって語る勇気もない。その勇気を与えてくれる信仰自体が、そもそもいい加減なものだから、自分たちの小さな世界の中だけで、保身的に満足してしまっている。
でも、そんなんじゃダメなんだよ。原始教会が、イエスの命を受けて、使徒として世間に討って出たように、われわれも、信仰の喜びを積極的に語っていかなくてはならない。つまり、「福音」を語っていかなくてはならないんだ。

だが「福音を語らなければならない」というような言い方で忠告すると、「いや、私も自分の信仰を語ってはいるよ」みたいな、へなちょこな言い訳に逃げる奴も少なくないから、私は「福音宣言」という断固たる言葉に言い換えたんだ。わざわざ造語したんだよ。
「宣言」という言葉なら、外に向かって敢然と語っていくというニュアンスが、わかりやすいはずだ。だから「福音宣言」なんだし、この、福音を「宣言する」という表現こそ、むしろ「福音宣教」の本義を言い表した言葉なんだよ。」

一一と、おおむねこういう話である。

これを、多少オブラートに包んで、露骨な身内「批判」にならないように、いかにもカトリックらしく「外面似菩薩内心如夜叉」で語ったのが、本書『福音宣言』。

昔の話だが、最後はお縄になった、商売宗教の典型である法の華三宝行」の福永法源などは「頭、取ってください!」とか「最高ですか〜!」とか言っていてが、要は「考えることをやめて、元気を出して動けば(勧誘すれば)救われる」という理屈で、それと似たような「実績主義」だ、ということである。

(福永法源)

何はともあれ、晴佐久神父は、とにかく「理屈屋」が嫌いなのだ。

それは単に、「理屈で、宣教はできない」という「タテマエの正論」だけではなく、この人には、知的な部分で「コンプレックス」があるので、小難しい「神学理論」を振りかざすような「学のある神父、牧師」が大嫌いであり、そのせいで、「数字的実績論」を掲げて「悔しかったら、理屈ばかりこいていないで、受洗者数を上げてみせろ」と言っているのである。

この人に「学識コンプレックス」が窺えるというのは、例えば、前記のインタビューでも、自身の神学生時代の思い出話の中で、当時は「ニューアカ」ブームで、『吉本隆明とか浅田彰』が読まれている時代だった云々、といった話が出てくるし、以下に紹介するとおり、本書の中でも「学識コンプレックス」を丸出しの箇所が、山ほどあるためなのだ。

けれどもまた、その程度のことすら読み取れずに、知ったかぶりでしかない晴佐久神父の「レトリック依存」の言葉に感心する信者読者というのも、それほどまでに「不勉強」であり「無知」であり「思考停止している」ということになろう。要は、読者として「レベルが低い」のである。

(5)『 イエスは、天上の原福音宣言の地上での実現である。神の愛の宣言はこの宇宙を創り続けてきたし、それがイエスにおいて完成して、永遠の福音が人間のことばで宣言され、このわたしはその宣言を受けている。このイエスの福音宣言こそが、宇宙万物と人類の歴史とわたしの存在を解き明かすみことばなのである。天文学が見出そうとしている宇宙の構造も、物理学が追い求めている物質の構造も、生物学が解明しようとしている生命の構造も、脳生理学が覗き込もうとしている意識の構造も、すべてはみことばの文法のうちに成立しているのだ。』(P46)

「天文学」だ「物理学」だ「生物学」だ「脳生理学」だと言っても、当然のことながら、晴佐久神父は、これらの専門科学について、入門書の1冊くらいは読んだかどうかという、まったく「無知」である。
にも関わらず、こういうことを言いたがるのは、

(a) 学識コンプレックスがあるために、かえってそこに触れてないではいられない。
(b) その一方、学識コンプレックスによる反動として、「世俗学問なんて、大したことないよ。我々には神がついている」と、無内容に強がってしまう(学問に対する謙虚さを持つだけの、真の自信がない)。
(c) カトリックの平信徒を読者として想定しているため、その読者は、神学に無知なばかりか科学についても無知だというのは、十分に推定しうるところなので、このように「学問」の名を挙げておけば「晴佐久神父、すごい!」と感心してくれるだろうと、ここではそんな下心を持って、「学問の権威」利用を行なっている。

つまり、これらはすべて、わかりやすい「俗物根性」に発するものなのである。

(6)『(※ 略)福音宣言とは、天の文法の中で、みことばを語ることである。
 言語哲学者ヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の中で、ことばで語ることのできる範囲を厳密に定義した上で、「言い表せぬものが存在することは確かである。それは自らを示す。それは神秘的なものである」(6・522)と、ことばを超えた啓示の世界を暗示し、後には「言い表せないもの(わたしにとって秘められていると思われ、表現できないもの)が、わたしの語ることに意味を与えてくれる背景となっている」と、人間のことばがその啓示によるものだと語っている。究極の言語学者の言う「背景」こそは、至高のみことば、「原福音宣言」のことにほかならない。』(P50〜51)

『究極の言語学者』ねえ…。でも、こういうのを「薄っぺらい言葉」と言うんですね。
しかしまあ、こんなわかりやすい「学識コンプレックス」があるからこそ、「世俗学問なんて」と強がりながらも、結局は、世俗の著名学者の「権威」にすがりたがる。「俺の知識は、教会内止まりではないぞ」と。
しかし、こうしたことは、「権威主義」が基本姿勢であるカトリックには、よく見られる心理ではあろう。

無論、ヴィトゲンシュタインその人は、上の引用部分で「キリスト教における啓示」の話などしていないというのは、わかりきった話である。
だが、晴佐久神父の読者は、ヴィトゲンシュタインなど読んでいないし、読んでいる信徒なら、晴佐久神父の著作など、馬鹿馬鹿しくて読まないに決まっているから、晴佐久神父は「知的レベルの低い読者」を想定して、ヴィトゲンシュタインの言葉を「意図的に曲解」し、自分の言葉に「権威づけ」をしたのだ。

(7)『 ラーナーの言う「神の自己贈与」とは、神が自分自身を人間に与えたという了解である。ご自分の存在を与えるとはつまり、ご自分のことばを与えるということであろう。イエス・キリストが神のみことばであるとは文字どおりそうなのであって、キリストこそは、神が人に語りかけることばの完成形なのである。』(P51)

いきなり、紹介もなく、カトリック神学者カール・ラーナーについて、『ラーナーの言う』などと書くのも、それは「私にとっちゃ、第2バチカン公会議を主導した、リベラルなカトリック神学者であるラーナーの神学なんかは、お馴染みのものだからね」という自慢をしたいだけ。

しかし、ラーナーの著書をまともに読んでいれば『ラーナーの言う「神の自己贈与」とは、神が(中略)ご自分のことばを(※ 人間に)与えるということであろう。』などという、そのまんまの「無内容」な話などではない、ことくらいは分かる。

ここで、晴佐久神父の言う「ことば」とは、無論「聖書のことば」でもあれば「ことばとしての神」でもあり「イエス・キリスト」だとも言い換えられるだろう。
要は、融通無碍に何とでも言い変えられるがゆえに、キリスト教における「ことば」とは、便利な「マジックワード」ではあるのだが、その実態は「何も語っていない、空疎な言葉」でしかない、ということだ。

なお、ラーナーの方は、さすがに、こんな「無内容」な話などしてはいない。
「神の自己贈与」というのは、神がその愛において、人間を統治するのではなく、人間を信頼して、その身を委ねてくださった、というほどの意味だろう。
だからこそ、人間はその神の信頼に応えて、謙虚に人間のできることを精一杯やらなければならないし、その中で、見せかけだけではない、神への本物の信仰が証しされるのだ、といったほどのことである。

ラーナーが「リベラル」神学者と呼ばれ、時にカトリック保守派(例えば、先代の法王ベネディクト16世など)から圧力を掛けられたのも、彼がそれほどまでに「リベラル」であったからで、口では「第2バチカン公会議」を褒めて「リベラル」ぶって見せても、その「わかりやすい権威主義」からして露骨に「保守主義者」である晴佐久神父が、ラーナーを引用すること自体が、筋違いの、誤用であり悪用なのである。

(8)『 むろん、「神の国」や「永遠のいのち」ということばもメタファーであるから、当然、時代と文化の制約をうけているので、わたしたちはこの「神の国」や「永遠のいのち」を、さらなる生きたことばへと啓いていかなければならない。本来関係がないと思われる二つのものを共通の始原によって結ぶ本物のメタファーには、本物を啓示する力がある。その意味でも、メタファーを単なる修辞に閉じ込めることがことなく、まるでメタファー自体が世界を造っていくかのように生き生きと宣言するべきだ。福音自体が生きた宣言になっていくように。そうして生きたメタファーを信じて語り続けることこそ創造のみわざへの参与であり、神と結ばれる王道なのである。
 神と人を結ぶイエスの宣言はいつも、離れている天と地を一つに結ぶメタファーに満ちている。それは、メタファーという恩寵で福音を宣言し現在化することでこそ、その場に新しい世界を創造し得るからである。それこそが、「今、ここで」苦しんでいる私たちへの「今、ここで」の福音であろう。』(P55〜56)

メタファー』とか『今、ここ(で)』っていう「批評文でよく使われる言葉」を使いたかったというのが、見え見え。『メタファー』なんて言わずに、「比喩」って言えば、誰にでも分かるのに。

それにしても、これも、ひどい議論である。
『「神の国」や「永遠のいのち」ということばもメタファーであるから、当然、時代と文化の制約をうけているので、わたしたちはこの「神の国」や「永遠のいのち」を、さらなる生きたことばへと啓いていかなければならない。』というのは、「神の国」や「永遠のいのち」などというものは、所詮は、実体を持たない言葉であり「喩え(比喩)」でしかない。
したがって、おのずと『時代や文化の制約』をうけて、その「意味するところ(意味内容)」が変わっていくし、それで宣教に好都合(宣教の実績が上がる)なのであれば、それで良い。たとえ、実体を欠いた「例え話=絵空事」に過ぎなくても、そうした「夢想」を信じることのできた人は、そのことによって「救われた気分」になるのは確かなのだから、それで良いのだ。
要は、「事実(実体)」が問題ではなく、「気持ちの問題」なのだから、「その昔に考えられたのとは違って、天国に実体は必要ない。私は救われたって思えば、それすなわち天国(の境地)なのだ」という認識こそが、カトリック信仰の『王道』なのだ。一一ということを、レトリックを駆使して、ムニャムニャと語っているだけなのである。

(9)『「三位一体」や「聖霊降臨」、「福音の宣言」などの神学的な用語は、どちらかと言うと、「知恵ある者や賢い者」向けであって、聖霊の働く現場での喜びは実際の感動体験を語るには幾分観念的に過ぎるかもしれない。聖霊体験の本質は、ことばを超えた恍惚体験にある。本来は弟子たちも、天の父の愛を知ったときの心震える感動や、自らの語る福音宣言が誰かの心に響く瞬間の感動を、もっと素朴に語っていたことだろう。』(P141)

無論、『「三位一体」や「聖霊降臨」、「福音の宣言」などの神学的な用語』を、神学学校で学んで、「ある程度」は理解している、晴佐久神父ご自身は、「知恵ある者や賢い者」の一人だというのは、自明の前提である。
その立場から、学識のない「平信徒」に「どうせあなた方には無理なんだから、難しいことはわからなくても良いんだよ。ただ、その確信(じつは盲信)を、外に向かって、自信満々に福音宣言していけば良いんだ」と、そういう話である。

(10)『 十九世紀ごろから、「史的イエスの探求」なる研究が広まり、科学的に歴史的イエスを同定しようとする試みが注目を集めた。「史実」と認められないものはすべて取り除いて「真実」のイエスを探るその試みは二十世紀に入って興隆を極め、それなりにいくつかのイエスを描き出して神学界に刺激をもたらしたものの、いずれもあまりに限定的で奥行きに欠け、ちょうど理論ばかりで感動につながらず一般のクラシックファンから敬遠されてしまった現代音楽のように、袋小路に入ってしまった。よい実を結ぶのが良い木という聖書的原則から言うならば、それらが福音宣言においてどのような実を結んでいるかという、検証をしなければならない時期に来ている。史的イエスについて言うならば、おそらく、「イエス」という完全なるお名前に、「史的」という不完全な探求を冠することに初めから無理があるのではないか。イエスはキリストであり、キリストから離れたイエスなどは、この世界内に存在しない。存在しているのは、イエスの宣言によって救われ、復活のイエスの宣言によってキリスト者となり、キリストとひとつになって福音宣言を続けてきた現実のキリストの教会の歴史であり聖伝であって、言うなれば我々が信じているのは「史的キリスト」なのである。』(P161〜162)

これも、「現代音楽」は無論、「学問」というものの意義や意味をまったく理解できていない晴佐久神父から、同類である平信徒へ向けられた、「詭弁」である。

(日本の現代音楽を代表する巨匠・武満徹)

この議論の大前提となっているのは、「神はすべてであり、絶対の真理である」という、根拠を必要としない「信仰」、つまりは「盲信」である。

しかしながら、学問というのは、この不確かな世界において「真理」を求める、地道な営為なのだ。
まずは足場を踏み固め、その上に、確からしい事実を一つまた一つと積み上げていく作業であり、「宗教」のように(晴佐久神父のように)、自分勝手に「我々は真理を知っている。真理の神の側にあって、真理を確信している」などと言っても、そんなものは「客観的には、何の意味もない」という、そんな立場から始めるのが、「学問」であり「科学」なのである。

例えば、仏教徒からすれば「イエスは絶対である(それ以外の神は、偶像に過ぎない)」などという「無根拠な断言」は、とうてい納得もできなければ、理解のしようもない。これは、逆もまた真であり、仏教徒が「釈尊こそ、本仏であり、キリスト教など外道(道を外れた迷妄)でしかない」と断言するだけでは、キリスト教徒も納得のしようがなく、「そう言うのなら、客観的根拠を示せ」と言いたくなるだろう。

つまり「宗教盲信者」たちに任せていては、無根拠な水掛け論の応酬と、そのあげくのケンカにしかならないから、科学が「私たちが、第三者的な立場から、この世界の真理を探求しましょう」と言っているに過ぎないのだ。

言い換えれば、「真理は我にあり」という信仰者たちの「無根拠な盲信」のぶつけ合いに任せておくと、やれ「ゴジラの方が強い」「いや、ガメラの方が強い」といったレベルの話にしかならないので、面倒でも、「結論ありき」ではなく、確実な地べたから、ひとつひとつ堅実に積みあげる探求しかない、というのが、「学問」や「科学」の立場なのだ。
だから、「学問」や「科学」の持つ知識が限定的なのは当然で、「宗教」が「真理(ぜんぶ)」を知っているというのは、そう言っているだけで、根拠など無い「放言」に過ぎないのである。

したがって、ここで晴佐久神父が言っているのは「われわれは全てを知っているが、学者は部分的にしか知らない」という、学問や科学に対する、「無根拠な決めつけ=盲信」に基づく悪口でしかないのだ。

(11)『 神学も聖書学も、この史的キリスト(※ ここでは、本来の意味での「実在したイエス」のことではなく、「歴史的に現に語られてきた、聖書の中の、お話としてのイエス」)の宣言(※ 語ったこと・すなわち福音)に奉仕することにおいてのみ、意味を持つ。(※ にもかかわらず)非神話化された史的イエスを極めようとしたR・ブルトマンが自身の信仰を問われた時に、「自分はケリュグマがあれば十分」と言ったという逸話があるが、わざわざ言わずとも初めからキリスト者は、「ケリュグマがあれば十分」な存在なのである。ケリュグマとは福音の(※ カトリックによる正統の)流れの中で生き続ける、史的キリストの宣言なのだから。(※ 聖書を読んで、そこに書かれた)「真のキリスト」の宣言を聞いて信じる者だけが、「真のイエス」を味わうことができるのである。』(P162)

前の引用部(10)に続く部分である。
ここに登場する「R・ブルトマン」というのは、当然のことながら、プロテスタント神学者であり、もちろん、晴佐久神父などには、洟も引っ掛けないほどの、有名な神学者だ。

だが、すでに故人だし、プロテスタント神学者を貶すのなら、身内であるカトリックには喜んでもらえるので、よく知りもしないのに、知ったかぶりで批判しているのである。
これはちょうど、ヴィトゲンシュタインの「世俗的権威」を悪用したのとは裏返しの、やはり「学識コンプレックス」に由来する、「権威利用」だと言えるだろう。

ちなみに、事実かどうかは別にして、ブルトマンが「自分はケリュグマがあれば十分」と言ったというのは、「私は、語るべき神を自分の中に持っているので、(外の世界の)何を疑うことも恐れはしない。私は、神のよって、自由にされた人間なのだ」というほどの意味である。

そしてこれに、晴佐久神父が激しく反発するのは、個人主義のプロテスタントに対し、カトリックには「権威主義的階級組織」の「不自由さ」があるからに他ならない。

口では「私は、自由だ」と繰り返して自己正当化して見せても、下手に「個人的意見」(※ 例えば「神は四位一体だと思う」なんてこと)を公けにできないのがカトリックだからこそ、最相葉月のインタビューでは、他人の話に言寄せて『異端でもいいんですよ、救われるなら。』などと、カトリックの、組織的「干渉」の不自由さに、不満を漏らしたりもするのである。

(12)『 近年取りざたされる「宗教多元論」というものもあるが、特権的な座で宗教を相対化し、客観的にキリストを論じようとしている点で、史的イエスの探求と同根である。いかにも新時代の包括的神学のような顔をしているだけに混乱を招きやすい。しかもそれが正統なる宣言の座から離れているのは、例えば「キリスト中心から神中心へ」などというキャッチフレーズを見ればよく分かる。一度でも真のキリストから福音宣言を受けたキリスト者ならば、そのようなことは決して口にしないはずだ。キリスト者は、キリスト教が本質的に言えばこの世の「宗教」などではなく、福音そのものであると分かっているからだ。すべてを相対的に俯瞰しようとする欲望は、結局は「神のようになれるぞ」という悪の誘惑であり、人間の経験と観念ですべてを支配しようとする傲慢であり、神から恩寵として人間へ贈られる福音宣言の聖性を損なうものである。実に、そのような誘惑から救いの歴史を守るためにこそ、カトリック教会は機能しているのではないか。』(P162〜163)

『宗教多元論(宗教多元主義)』というのは、プロテスタント系の宗教学者であるジョン・ヒックが、キリスト教の「ドグマ(絶対教義)」を否定して、「宗教」の目指すところは「ひとつ」であり、その「方法論が違うだけ」なんだから、排他的になる必要などない、とした「リベラルな宗教論」である。

『さまざまな宗教が同じ社会に存在することを認め、お互いの価値を認めながら共存していこうとする宗教的態度、思想である。』

 (Wikipedia「宗教多元主義」

こうした考え方は、「他宗教との対話」の推進を促した、カトリックの「第2バチカン公会議」のリベラル路線とも重なる部分があるものの、やはり長年にわたって「我こそが唯一、普遍で不変の真理を所有しているのだ」と威張ってきたカトリックとしては「対話には応じてやるけれど、お前らと対等ではないからな」という姿勢に止まってしまった結果である。
「第2バチカン公会議」主導した、若きリベラルな神学者たち(前述のラーナーを含む)は、もっと先まで進みたかったのだが、保守派の頑強な抵抗に遭って、そのあたりで妥協せざるを得なかったのである。

で、話を「宗教多元論」に戻すと、「我こそが唯一の真理だ」と威張っているカトリックとしては、これは許しがたい「平等論」ということになるのだけれども、世界が繋がり、世界各地にいろんな宗教がある、という「現実」が見えてきた二十世紀の世界において、それでも、てんでバラバラに「自分たちが本物で、他はぜんぶ偽物だ」といった「根拠の示せない、独りよがりな自己主張」を繰り返しつづけて、「宗教」間で排他的な揉め事ばかり起こしていると、「宗教」自体が丸ごと、世俗社会からどんどん見放されていくしかない、という「危機感」があり、そこでおのずと「宗教多元論」は生まれてきたのである。

言い換えれば、「科学」の発展に取り残され、「宗教なんて、所詮は知能が原始人の段階で止まっている人間の自己慰撫のための幻想でしかない」として、全部まとめてゴミ箱行きにされかねなかったので、「宗教」どうし連帯して「宗教の本質はひとつであり、その表れ方が違うだけなんだ」という線で、「宗教」の生き残りを図った立場なのだ。

だが、長らく西欧において「絶対権威」を誇ってきたカトリック(も中でも、保守派)は、そうした対処療法すら受け入れられなくて、「自己満足の権威」という「幻想」と、心中しようとすらしているのである。

もちろん、それではまずいと考えているカトリックも大勢いるのだが、晴佐久神父のような「権威主義的な保守派」は「あんな奴らと同等になるくらいなら、滅んだ方がマシだ」という感じなのである。

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以上のような具合で、晴佐久神父の「理屈」は、カトリックという「タコツボ」の中の、しかも「知的レベルの低い人向けルーム」の中でだけ通用する、独りよがりで無根拠な断言に過ぎない。

そこでは、知的な会話など成立しないからこそ「理屈はいらない。説明など無用だ。ただ、信じているところを、説明抜きで語れば、それでいいんだよ。それこそが福音宣言なんだ」と、そういう話であり、さらには「私はそれで実績を上げてきたんだから、文句はないだろう」というのが、晴佐久昌英神父の言い分なのである。

だが、レベルの低い神父が、知的レベルの低い人を、その「無根拠の断言」による「勢い」だけで受洗させて、にわかに「数字」だけを上げたところで、そんなものは所詮、私のような「無神論者」から見てさえ「程度の低い盲信」の製造、以外の何物にも見えない。

私は「宗教」を否定しているけれども、しかし、宗教者・信仰者の中には、知的かつ人格高潔であり、尊敬に値する人がいるという「事実」までは、否定しないし、否定できない。

だが、端的にいって、晴佐久昌英神父というのは、「信仰は、必ずしも人を成長させない」という事実を、端的に象徴した人(実例・証拠)だと言えるだろう。

「宗教」というのは、「立派な人をさらに立派にする反面、ダメな人間をさらにダメにする」という「善悪強化装置」的な側面があり、それが「人間の現実」には「危険なもの」であるからこそ、私は、「宗教」という「インチキな近道」を否定して、人間は人間らしく、自分たちにできる範囲で、地道に進んでいくべきである。
それをしていれば、「十字軍」だの「宗教戦争」だの、「異端審問」だの「魔女狩り」だのといった「狂騒」にとらわれて、大勢の命を奪わずに済んだのだからと、そういうことなのだ。

本書を、ざっとでも読んでいただければ、晴佐久神父が「イエスは絶対の真理である」「イエスを信じて、福音宣言していけば、必ず救われる」などと連呼するばかりで、キリスト教の「負の面」については、一切、なにも触れていない事実に気づくだろう。

なぜそうなるのかといえば、晴佐久神父のような「非論理的結果主義」の場合、「ひとまず、自信満々に断言した者勝ちだ」という、「勝てば官軍」的に無責任な思考に陥ってしまいがちだからである。

たぶんベテランのインタビュアーで(あり、取材者で)あった最相葉月は、晴佐久神父の話を、ウンウンなるほどと「聞きだし」ながら、腹の底では「うえっ…」なんて思っていたことだろう。

しかし、インタビューを受けた135人の「日本のキリスト者」の全員が、自分を「真摯で誠実な人間」に見せようとしたにも関わらず、こんな人が入ってしまい、しかもそれも「授洗実績を上げている神父」だというのだから、日本のキリスト教の「幅」と同時に、その「レベル」も、推して知るべしなのである。

ともあれ、晴佐久昌英さん、どうぞ遠慮なく、ご意見をお聞かせください(お寄せください)。

「科学」に敬意は表さずとも、ネットもなさっているそうだし、「自分だけは、誰ひとり見放さないで相手にする」と、そう豪語なさっていたのだから、是非とも私に、その「愛の手」を差し伸べてください。噛みつく野犬にも「愛の手」を。

日本のカトリック界を代表する「剛腕神父」のお出でを、心よりお待ちしております。


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(2023年3月18日)

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