『分からない』を楽しむ旅👒エッセイ
夏の日差しは明るいを超えて鋭い。ぬるい目薬は刺激が少なくてあまり入れた感覚がしない。
明日の分も…と選んだおやつは今日の分と一緒に平らげてしまった。さて、これから何をしようかなと思い、『何もしなくてもいい』んだった、と思い出しては、いつものごとく変わらずそよそよと風に揺られる洗濯物を眺めている。
今週はずっと天気が良くて、太陽のチカラも相まり、洗濯物は困ることなく数時間ですぐに乾くのだけど、乾いても次の洗濯物を干すタイミングまでそのままにしている。これが習慣になった。
昔、風はどこから来ているのだろうと考えたことがあった。答えはいまだ、わからない。分からないことが分かるのは楽しいけれど、分からないままにしておく良さというのも確実にあるなと思うようになって来た。この『分からずじまい』は生きる楽しさや光にもつながっている気がする。
たとえば『将来』のこと。これからの人生の話。
それらが全て分かり切ってしまっていたら、無論人生は、とてもつまらないものになってしまうだろう。
『分からないこと』は感情の動きを与えてくれる。分からないから『知りたい』と興味関心を持てて、『こうかもしれない』と自らの推測で想像する。その自分の描いた想像と実際はどれくらい違っているのか?またもや合っているのか?そんなことの憶測やイメージを勝手に走らせ、考えることを無限に楽しませてくれる。
さらに『分からないこと』を“知っていく過程”がまた面白い。行く先で『分かった』にたどり着ける楽しみもある。
これまでのあらゆる節目といった“オワリとハジマリ”から、体感としておおよそどのくらいの期間でそれがやって来るのか?といった目測を体感として得られたりする。
決っして、『全貌は見えていない』のだが、『何かが動き出す感覚(予感)』みたいなものがあるのだ。
起承転結の“起”の部分の感覚は、大まかに外れることはなく、何かが始まってしまえば“承”の波に乗り物事は発展していく。“転”は外側からの影響が内側への変化を促し行動を切り替えてみて、見えていなかったものが見えるようになって来た時、気づけば“結”にたどり着いている、といった運びが多かったように思う。もちろん、長いスパンの中での「細やかで小さな起承転結」や、大きな月日の視点から見た「緩やかで大きな起承転結」が存在する。
自分が何かを始めた時に、この“結果”の部分まで見え切っているパターンはとても少ない。つまりは、『ゴールが見えていなくてもルートを間違えていなければ、時間とともに展開していく』ということ。そのため自分が物事を起こす(起こる)タイミングと、自分の望む方向が見えているとどの段階だろうと『特段焦ることはない』のだ。
これが、私が今無職でも全く焦っていない理由でもある。
実際に、この無職生活の中でも「起承転結」は起こっている。
そして、今のままの生活はそろそろ「終」を迎えそうな感覚がしている。
新しい『起』が始まるからだ。だが、「無職」をやめるのではなく、『何か新しいことを始める』ことによって「今の生活ルーティン」に何かひとつ区切りがつく気がするといった感覚。
ちなみになのだが、どこかに勤める「労働」といった感覚がする形で収入を得ることは、今後もしていないと思う。
なぜ?と問われても明確な理由は“分からない”。ただ、今の自分は『そんな気がする』だけなのだ。
これから“見えて”くる景色を楽しんでいけばいい。過程の道のりに、心を動かせながら楽しむ時間そのものが人生なのだから。
全てが分かっていない。分かっていることと、分からないことがある楽しさ。生きる人間に与えられた素敵な特権だと感じる。
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