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【日本音楽史】③室町・戦国・安土桃山
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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過去には西洋音楽史編(クラシック史+ポピュラー史)もまとめておりますので、そちらも是非チェックお願いします。
●クラシック史とポピュラー史を繋げた図解年表 (PDF配布)
●分野別音楽史
●メタ音楽史
【概観 日本音楽史】
ここまでの記事 ↓
まえがき
①古代~上代
➁平安時代~鎌倉時代
<今回> ③室町・戦国・安土桃山
◉「能楽(能・狂言)」の興隆
前回紹介した通り、平安時代中期から鎌倉時代にかけては、貴族や支配者層が享受していた上代の文化とは別に、民衆発の芸能が数多く生まれていました。例えば白拍子、今様、早歌、平曲などが挙げられますが、これらに加え、農村での田植えの農耕儀礼として演じられていた田楽や、散楽から発展した滑稽な物真似や曲芸などを主とする猿楽は、鎌倉時代に各地の寺社での祭礼などとも結びついて武士・庶民の生活に根付いていました。
田楽と猿楽はともに、やがて歌舞を伴う短い対話劇を演じるようになり、これが「田楽の能」「猿楽の能」と呼ばれるようになります。近畿地方一円では、専門の芸能者たちが「座」という集団をつくり、有力な寺社に所属しました。
中でも、鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて奈良の興福寺に所属して人気を誇っていた円満井座、結崎座、外山座、坂戸座の4つの猿楽の座が、大和猿楽四座と呼ばれました。そのうちの結崎座に所属していたのが、鎌倉幕府滅亡の年に生まれた観阿弥(1333~1384)です。観阿弥は、それまでの猿楽の能を大きく作り変えて、芸術的な演劇としての新しい能へと発展させていきます。
観阿弥は大和猿楽の座に属しながら、田楽や当時の他の流行芸の要素、さらにテイストの異なる近江の猿楽などまでを貪欲に吸収し、物真似中心だった大和猿楽に取り入れることで、芸術性を大きく高めました。たとえば、同時期に出現した複雑なリズムとまとまった形式を持つ白拍子系統の遊芸である曲舞と、旋律主体の猿楽能の小歌節とを融合させたことにより、音楽的な面白さと演劇表現の両立・充実が可能となったのです。
猿楽の座の中では次第に、猿楽の本芸(翁)を演じるメイングループと、娯楽的な能を演じるサブグループが分かれるようになっていました。能を演じるグループは神事以外でも様々な場で活動するようになり人気を集めます。その結果立場が逆転していき、能を演ずる有力な役者が座を代表するようになり、もともとの大和猿楽四座が単に「大和四座」として観世座・宝生座・金剛座・金春座という新しい名称が生まれたのでした。観阿弥とその子である世阿弥(1363~1443)が代表したのが結崎座から発展した観世座です。
こうした「能」の発展に大きく影響を及ぼすことになった出来事が、室町幕府の第三代将軍・足利義満と世阿弥との出会いでした。
父・観阿弥は京都への進出を図り、応安年間(1368~75)には醍醐寺での上演を成し遂げて人気を拡大していました。そうしたのち、1375年に行われた新熊野神社でのイベントで、来賓として見学に来ていた室町幕府第三代将軍足利義満が、能を演じる当時12歳だった世阿弥に一目惚れしてしまいます。
将軍足利義満は、結崎座のオーナー的立場となって観阿弥・世阿弥の父子を庇護しました。つまり一座は将軍お抱えの団体となったわけです。このことから、芸能としての地位が一気に向上し、大和猿楽が能の中心となっていったのでした。
絶世の美少年だった若かりし頃の世阿弥は、足利義満の虜だったそうです。当時の役者は相当に低い身分とされていたにもかかわらず、義満は世阿弥に一流の教育を受けさせました。周囲は反対したものの、何せ将軍のお気に入りであったため、世阿弥に貢物をして機嫌をとる者もいたそうです。
宮廷のアイドルとなった世阿弥は、父のつくり上げた能のスタイルをさらに発展させ、「幽玄の美」を追求するという独特の演劇スタイルを確立。優美な歌舞中心の能をつくり上げ、能を芸術として大成させました。一流の教育を受けた世阿弥は文学の深い教養を以て深い物語を構成し、完成度の高い作品を多く書いたのです。
その一方で、『風姿花伝』をはじめとした多くの優れた芸術論も残しています。『風姿花伝』が書かれた1400年ごろといえば、ヨーロッパではルネサンスの初期であり、まだオペラも生まれていません。そんな時期に書かれた『風姿花伝』は、世界的に見ても先駆的な上演芸術論だったといえます。
このように、芸術性の高い上演芸術としての「能」が発展した一方で、猿楽が持っていた笑いの要素を中心として演じられた部分が「狂言」として独立しました。現在は「能」と「狂言」を合わせて「能楽」と総称されます。
世阿弥以降も隆盛は続き、音阿弥、元雅、金春禅竹、観世信光、観世長俊、金春禅鳳・・・と、脈々と受け継がれていきました。戦国時代になり京都が灰燼に帰し、幕府や神社の力が衰退していったことは猿楽や田楽にとって大打撃となってしまいましたが、そこから一般大衆に向けてさらに見た目が派手でわかりやすく工夫されていきました。
そんな後、天下統一を果たして戦国の世を終わらせた "太閤" 豊臣秀吉も能に熱中し、自らをシテ(主役)とする「太閤能」を作らせたほど能を愛好しました。豊臣秀吉は大和四座に領地を与えて保護しました。
負けず劣らずの能好きであった徳川家康も秀吉の政策を踏襲。続く江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠~第三代将軍・徳川家光によって能は正式な江戸時代の「式楽(典礼用音楽)」となっていきます。こうして役者たちは身分と地位が安定し、芸に専念することができるようになった一方で、厳しい保護・管理下に置かれることになります。能は洗練されていくと同時に固定化・伝統芸能化の傾向を見せていき、新作の創造という点では退潮していきました。
◉室町時代のその他の庶民芸能
鎌倉時代に流行していた「早歌(宴曲)」は、今様の流れを汲む七五調の長編の歌謡でしたが、室町時代に入ると、七五調を基にしながらもより自由な詩型の「小歌」が流行しました。室町時代後期、1518年に成立した歌謡集『閑吟集』には、当時流行した小歌が多く収められました。
舞踊としては、能の発展にも寄与した「曲舞」や、鎌倉新仏教の念仏踊りから派生した盆踊りの定着が挙げられます。
また、文学史としてはこの時期、「一寸法師」などに代表される読みやすい短編の物語である「御伽草子」がつくられるようになりますが、その中に『浄瑠璃姫物語』という作品がありました。
この「浄瑠璃姫物語」は、平家琵琶と同じように「語り物」として目の見えない盲僧たちに弾き語られて広まり、人気を博します。さらには、この物語以外の新しい節回しによる語り物も「浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。このあと江戸時代に、全く新しい「浄瑠璃」が正式に確立されることになるのですが、それまでの黎明期の浄瑠璃は「古浄瑠璃」とされています。
◉三味線の伝来
室町時代、中国の「三絃」という楽器が、琉球王国で「三線」となり、さらにその三線が1560年ごろ、琉球から戦国時代真っ只中の大坂・堺に伝わったとされます。それを日本の音楽に合うように琵琶法師などの盲目僧らが自由に改良・発展させたものが「三味線」となったといわれています。
約半世紀ほどで三線は、旋律楽器でもあり打楽器的要素も併せ持つ、日本固有の弦楽器「三味線」として生まれ変わったのでした。先述した「古浄瑠璃」も、はじめは三味線が伝来する前であり、琵琶による弾き語りだったものが、三味線での語りへと発展しました。琵琶の演奏に慣れた音楽家らは、三味線を用いて平曲も弾き語りました。こうして定着していった新楽器「三味線」はこのあと、江戸時代の音楽の中心的な存在となっていきます・・・。
◉筑紫筝の確立
13本の弦を持つ「箏(そう/こと)」は、奈良時代に唐から伝わり、雅楽の中で用いられてきました。雅楽で用いられる箏を「楽箏」と呼びます。一方で、平安時代末期から室町時代までにおいては、歴史的な記録が明らかでないものの、寺院歌謡として箏伴奏の歌曲が伝承されていたようです。
戦国時代~安土桃山時代のころになり、九州地方・久留米(筑紫)の善導寺の僧である賢順(1534~1623)は、寺に伝わる寺院雅楽および寺院歌謡を整理して、箏伴奏の歌曲を編集しました。これが「筑紫箏」と呼ばれ、主として佐賀藩に伝承され、江戸時代以後の「筝曲」へと繋がっていきます。
ちなみに、伝来楽器である「箏」と「琴」、さらに日本古来からある「"コト"/和琴(やまとごと)」はそれぞれ別モノの概念です。大きな違いは、「柱」という部位の有無です。
「箏」・・・現在「コト」として一般的に知られている楽器で、十三本の絃を持ち、「柱」という可動式ブリッジを動かして音の高さを決める。
「琴」・・・古代中国の「柱」の無い楽器。日本に伝来した「一絃琴(須磨琴)」や「二絃琴(八雲琴)」も「柱」は無い。
「"コト"/和琴(やまとごと)」・・・大和言葉では弦楽器全般を「コト」と言った。日本古来から存在する「和琴」は「琴」という漢字を用いているが「柱」がある。
さらに現在では「筝」のことも漢字として簡単なほうの「琴」で指し示される場合もあり、概念が非常にややこしく、注意が必要です。