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【日本音楽史】①古代~上代
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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まえがき も是非お読みください。
また、過去には西洋音楽史編(クラシック史+ポピュラー史)もまとめておりますので、そちらも是非チェックお願いします。
●クラシック史とポピュラー史を繋げた図解年表 (PDF配布)
●分野別音楽史
●メタ音楽史
日本音楽史は特に幕末以降、西洋音楽史の動きとの関わりが非常に深いため、常に同時期の世界の音楽状況を念頭に置いていなければ理解の解像度が全く違ってきます。その意味でも、前提知識として上記の「クラシック史+ポピュラー史」のほうを是非頭に入れてからお読みいただけると良いかなと思います。
もちろん、日本音楽史の記事中でもその都度、世界の音楽状況の復習も織り込みながら書いていこうとは思っていますし、日本史の前提知識も触れるようにしたいと思います。
それでは、はじめます!
◉「古代」― 日本固有の音楽文化
◆縄文時代
歴史において、文字資料が無い時代は先史時代といい、文字が発明されて文明と呼ばれるところからが有史時代になりますが、文献の記録が出現する前の歴史は出土物などを手掛かりとして推測することになります。
音楽に限らず日本史のお勉強では、まず縄文時代における縄文土器や磨製石器などの道具の存在で当時の生活スタイルを説明するところから始まりますが、遺跡から出土したものの中には音を鳴らすための道具とみられるものも含まれており、縄文時代には既に楽器が存在したことがわかります。
特に土鈴(粘土を焼いて作った鈴)など、楽器として使用されたとされる土製品は、装飾的な縄文土器とともに祭祀に用いられていたとみられています。
縄文時代の出土楽器としては、土鈴のほかに石笛なども見つかっています。
◆弥生時代の出土楽器
弥生時代に入ると、土笛の一種であるオカリナのような「塤」や、青銅器の「銅鐸」が出土楽器に登場します。
日本史のお勉強のトピックとしては鉄器や青銅器の登場が挙げられ、青銅器の代表例として銅鐸は重要キーワードとなりますが、楽器史としても銅鐸は重要なのです。
鉄器は農具などの実用的な目的、青銅器は祭祀用の呪術的な目的とされており、銅鐸も儀礼用に使用されたとみられていますが、打ち鳴らす部分が摩耗したものが多数発見されているため、単なる装飾ではなく、音を鳴らす「楽器」としての使用だったであろうことがわかります。
さらに、筑状弦楽器と呼ばれる板状の弦楽器、弦を張ったコト(和琴)とみられる楽器も出土しています。
(※「コト」は古くからの日本の大和言葉で、木製の弦楽器すべてを指す語でした。のちに大陸から伝わる「筝」や「琴」とは本来意味する範囲が異なる語になります。)
塤や銅鐸は古墳時代には使われなくなりましたが、コトなどの弦楽器は古墳時代まで使用されていたとみられています。これらは形の似たものがアジア大陸には無いことから、日本固有の楽器であると考えられます。
◆弥生時代~古墳時代の祭祀・習俗
水稲耕作が始まった弥生時代では、集団生活による共同体社会が形成され、「国」とされる集落へと発展。多数出現した国々をまとめて、大陸からは「倭」と呼ばれていました。
日本では、特定の一人の神様が存在するのではなく自然界の万物に神が宿る(八百万の神)というアミニズムの信仰が文化の特徴となり、日本特有の神道へとつながっていきます。人々は外界の自然に対する畏怖の念を持ち、生産の豊穣を祈念するため、超人間的な力を神として祭りました。これが「祭り」の起源であり、村落共同体の統治者の権威に儀礼が付随していました。
春の農耕開始時の「祈年祭」、秋の収穫時の「新嘗祭」の二季の農耕儀礼が特に重要なイベントで、一定の場所が反復使用されるにつれて神聖な地域として特別に取り扱われるようになり、やがて神社が建築されるようになります。
有史以前から大陸との交流は確認されてはいますが、音楽面では積極的接触は無く、祭祀などでは日本固有の民族的歌舞を主として行っていたと考えられています。
3世紀末の中国の歴史書『三国志』の中の「魏書」で日本について書かれた部分、通称「魏志倭人伝」には、「死者が出ると、十数日のあいだ喪をとどめ、その間肉を食わず、喪主は号泣し、他の人はその周りで歌を歌い、舞を舞って、酒を飲む」という、葬儀についての記述があり、当時の音楽実践を知る手がかりとなります。
「魏志倭人伝」での日本の宗教文化に関する記述は、のちの時代に書かれた『古事記』『日本書紀』『風土記』の記述とも符合する部分が多く、古代の民間信仰のすがたがわかります。
邪馬台国の存在したこの時期(3世紀中頃)からは古墳が出現する古墳時代へと続いていきますが、4世紀になると中国そのものが戦乱期に入り、日本についての記録が途絶えてしまい「空白の4世紀」と呼ばれる時期になります。その間に日本では奈良県(ヤマト)から巨大な墓である前方後円墳がつくられて全国へと広がっていきました。大和王権の統治体制の拡大かとみられます。
そして5世紀になってみると、大和王権が各地の王の上に立つ大王(天皇)を頂点とする統一政権を確立していたのでした。中国側の文献では5世紀初頭『宋書』などに「倭の五王」が現れます。讃・珍・済・興・武 と漢字一文字で書かれていますが、このうちの「武」が、日本側の史料でいうところの 雄 略 天 皇 = ワ カ タ ケ ル 大 王 のことであると判明しています。
邪馬台国は実は「大和国」のことであると一見考えられそうですが、邪馬台国の勢力が大和王権を築いた勢力に滅ぼされたという説もあり、邪馬台国の位置もよくわかっておらず、邪馬台国が大和王権の前身なのかどうかは定かではありません。
ただ、大和朝廷が「先住民族」と見做していた人々のことが、のちの『古事記』『日本書紀』『風土記』に記されており、そこでも音楽文化について伺い知ることができます。
例えば、ヤマト王権・大王(天皇)に従わなかった「国栖(土蜘蛛)」と呼ばれる人々が、「酒を奉る時に歌を歌い、歌い終わると笑う」という記述や、「暑い時期に男女が川に出向いて、おいしい酒を飲み、都の歌を楽しむ」という記述などがあるのです。
当時、男女が山や海浜、市などに"聖所"を定めて集まり、互いに求愛の歌を歌い合い、踊って遊び、飲食に興じた、現代でいうコンパのような「歌垣」という集団行事があり、『万葉集』や『古事記』『日本書紀』に収められた歌謡の大半が歌垣の歌だったという推定があります。
歌垣などの場で民謡が発達した一方、宮廷儀礼にも「うた」が取り入れられ、宮廷歌謡としても伝承されていきました。これらの民謡や宮廷歌謡を総称して古代歌謡と呼び、音楽史だけでなく詩歌として日本文学史の大切なルーツとなります。もっとも、当初は口頭による伝承であり「音楽」的側面が濃かったといえるでしょう。大陸から漢字が伝来し、異国の文字で書き留める困難を克服する過程で、万葉仮名の考案を経て、のちの片仮名・平仮名の誕生へとつながっていきます。
◉「上代」― アジアからの大陸文化伝来
※時代区分について
世界史の時代区分では、476年に西ローマ帝国が滅亡するまでが古代であり、それ以降は中世に分類されますが、日本史の時代区分では、平安時代の後期(武士の出現)までが大きく古代と分類されてしまっています。
世界史で中世が開始する5世紀末は、日本史で言うと古墳時代の末期~飛鳥時代が開始する頃であり、このとんでもないズレが説明されないまま学校で教えられていることは、本来並列で理解していくべき日本史と世界史の認識の分断を招くどころか、「日本のほうが世界(西洋)よりも文化的に遅れていたのだ」という誤認すら与えてしまう悪質な分類法でしょう。
実際には、古代ギリシャやローマの文化が忘れられて閉鎖的なキリスト教社会へと荒廃してしまった中世ヨーロッパよりも、同時期のアラブ~アジア地域のほうが文化的に発展していたのにもかかわらず、です。
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なぜこのような事態が起こっているのかというと、西洋人が自分たちの歴史を一方向的な進歩史観で認識して分類していただけの区分を、明治維新時の西洋学問導入時に日本人が日本史にも無理やり当てはめた結果、ヨーロッパ中世の封建社会を平安末期~鎌倉期以降の武家社会に「封建制」として適用させたため、このようなズレが発生してしまったのでしょう。
このズレた分類法に僕は共感しません。ズレによる混乱を解消するためにも、本当は世界史と同じ年号基準で日本史でも飛鳥時代以降を「中世」と呼びたいところですが、一個人が勝手にそのような「学術的に誤った」分類を発信するわけにもいかないし、この部分の議論を深めることは音楽史の本筋からも離れてしまうため、ここではひとまず、文学史などで飛鳥~奈良時代に対して用いられている「上代」という言い方を採用したいと思います。
◆飛鳥時代前半(6~7世紀)
さて、「倭の五王」の活躍した5世紀が終わり6世紀に入っていくわけですが、この時期までが前方後円墳の時代でした。ヤマト政権はこの時期、朝鮮半島まで勢力を伸ばし、諸国に対して権勢を強めていました。
朝鮮半島の国の中でも友好関係を構築していた百済から、中国の孔子の影響を受けた思想である儒教が日本に伝わるなど、この時期からはアジアの国々との文化的接触が高まり、日本の文化に大きな影響を与えます。5世紀半ばに允恭天皇の葬儀に新羅の楽人が楽を献じたことや、6世紀半ばに百済の楽人の交代要員が来日した記録もあります。
そして遂に538年、日本に仏教が伝来します。ここで、積極的に仏教を信仰する人と、従来の日本の神々への祈りを重視すべきとする人に分裂してしまいます。この時期、朝廷内で有力豪族だった蘇我氏が親仏教の立場、物部氏が反仏教の立場を取り、激しい政治闘争へと向かいました(崇仏論争)。
激しい争いののち、587年に蘇我氏が物部氏を滅ぼして大和政権の実権を握ることに成功し、反仏教派の勢いは急速に衰えていきました。これにより、仏教の国内浸透が本格化していき、豪族にとっては古墳に代わって寺院を建立することが権威を誇示する手段となりました。
593年には蘇我氏が支援した推古天皇が即位し、聖徳太子(厩戸王)と協力して仏教的道徳観に基づいた政治が遂行されていきます。
蘇我氏・推古朝の仕事のうち、音楽に関係するものとしては、日本史のお勉強でよく出てくるトピックと同じく、遣隋使の派遣と冠位十二階の制定が挙げられます。推古朝から派遣された遣隋使によって、朝鮮を通さずに中国から制度や文物を得ることができるようになり、大陸文化の流入が促進されました。そして冠位十二階が制定され、宮廷に所属する音楽家たちもその制度に組み込まれていったのです。
さらに、こうした7世紀前半の推古朝時代には百済人によって伎楽という中国南部の仮面劇が伝えられたことも重要です。
◆飛鳥時代後半(7世紀後半)
四代にわたって政権を掌握していた蘇我氏に対し、大王家(皇室)へ権力を取り戻したいと考えていた中臣鎌足は、中大兄皇子と接近。645年、彼らによるクーデター(乙巳の変)によって蘇我氏は討たれ、大化の改新と呼ばれる政治改革が始まります。都が難波に移され、新たな時代の始まりとして、日本で初めての元号「大化」が定められました。
朝鮮半島では、新羅が唐に接近し、日本の伝統的な友好国であった百済を滅ぼそうとしていました。663年、白村江の戦いで日本・百済は唐・新羅に敗北し、百済は滅亡してしまいます。日本は朝鮮半島への足掛かりを失ったうえに、大国である唐の脅威に晒されることとなったため、これ以降日本ではさらに国内制度の整備が注力されていくことになり、仏教で国の安泰をはかる国家仏教の考えが広がります。ただ、天皇や都が何度も変わるなど、7世紀後半を通じて政情不安は続きました。
そうしたのち、8世紀に入った直後の701年、音楽史上の重要な出来事が起こります。大宝律令による雅楽寮の設置です。
701年に制定された大宝律令は、唐の律令を参考に組まれた法律であり、冠位十二階の制度から約百年ほどの間に蓄積した中国文明への理解によって、朝鮮半島経由ではない最先端の唐の方式に倣う準備が可能になったことが意義として挙げられます。
大宝律令で定められた八つの省のうちの一つに、儀礼や外交を担当する「治部省」があり、その中に文化庁のような行政機関である「雅楽寮」が置かれ、国の行事で必要とされる音楽のための教師と生徒が集められました。いわば国立の芸能学校としての機能を持ったのです。
雅楽寮には、和楽(日本古来の音楽)と外来音楽(唐の音楽である唐楽、朝鮮半島の三国それぞれの楽舞である三韓楽 <高麗楽・百済楽・新羅楽>、伎楽)の各部門あわせて400人近い教師・生徒が配されます。
最初期の和楽中心の人員配置は、奈良時代にかけて次第に唐楽・三韓楽などの外来音楽中心へと推移していき、外来音楽が浸透していったことがわかります。
◆奈良時代(8世紀)
710年には平城京へ遷都され、奈良時代が開始。奈良時代の文化(= 天平文化)は、最盛期と言える当時の唐の影響が強い文化になりますが、当時の唐は特に周辺国との交流も盛んなエキゾチックな国家だったため、インド人やペルシャ人までもが日本にも往来するなどコスモポリタン的性格が強かったようです。
アラビア地域ではイスラム王朝のウマイヤ朝が権勢を振るっていた時期ですが、8世紀は「西のウマイヤ、東の唐」と言われるほど、大陸での2大勢力となっていたのです(ヨーロッパの中世キリスト系諸国は、ウマイヤの進撃を何とか食い止めるほどの力しかありませんでした)。
このような時代にあって、奈良時代の平城京は「シルクロードの最終地点」としても知られる、世界有数の国際都市になります。周辺地域との交流や文化の交換が進み、当時のアジアの主要都市として繁栄したのでした。
西洋音楽史編でも触れましたが、当時は中東で楽器が発展しシルクロードによって世界各地へと広まった時期で、例えばササン朝ペルシャで生まれたバルバッドという楽器がアラビアではウード、ヨーロッパではリュート、中華ではピパ、そして日本では琵琶へと発展しました。
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https://saisaibatake.ame-zaiku.com/gakki/history/history_barbat.html
※[関連]過去記事 → 楽器史
奈良時代に伝来した楽器は正倉院に献納・収蔵されるようになり、18種類・75点の現存が確認されています。当時唐では50種の楽器が使用されていたといい、日本にわたってきたのは30種ほどではないかといわれています。正倉院にはそのうちから選ばれた名品が保存されたのです。
現在の雅楽器とほぼ同じものもあれば、このあと雅楽が日本化する過程で途絶えてしまった正倉院にしかない楽器も多くあります。さらに、西域から中華を経て伝来したハープの残欠やパンパイプ(排簫と呼ばれた)などまで残っています。また、天平19年(747年)の日付がついた琵琶の楽譜もあり、「天平琵琶譜」と称されています。
さて、そんな奈良時代の音楽史上での重要な出来事は、何といっても東大寺大仏開眼供養でしょう。天平文化では、仏教で国を鎮める「鎮護国家」の考えのもとに国分寺・国分尼寺が建てられたほか、743年に発願された「大仏建立の詔」によって、約9年かけて完成したのが、現在でも「奈良の大仏」として知られる「盧舎那仏」の大仏です。
752年にこのオープニングセレモニーとして「開眼供養」が盛大に行われ、仏教の一大イベントとして空前の規模での開催となったのでした。「汎アジア芸能総動員」といえる形で、仏教音楽・伎楽・日本の歌舞・アジア各地の楽舞が上演された史上最大の出来事だったのです。
イベントでは聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らをはじめとする多数の要人が臨席し、さらに一万人を超える僧侶と、雅楽寮の音楽家やさまざまな寺に所属する音楽家が参加したとのこと。そのプログラムは『続日本紀』『東大寺要録』に記録されています。
文武百官が礼服姿で参列し、南門から1000人の僧が参入したのち、開眼の作法を勤めたのはインドの僧・菩提僊那(बोधिसेन', Bodhisena)。開眼作法の後、唄、散華、梵音、錫杖という4曲の梵唄(= 仏教の宗教歌、のちに声明と呼ばれるようになる)が唱えられ、東西の高座に上った講師と読師が『華厳経』の講説を開始。その後さらに9800人ほどの僧が入場し、「万僧供養」が実現。
さらにここから大芸能大会の様相を呈し、楽人舞人が次々と入場。「大歌」「大御舞」といった宮廷に伝承された古来の歌舞や、「久米舞」「楯伏舞」などの日本のさまざまな地域に伝わる歌舞に加えて、「女漢躍歌」「跳子」「唐古楽」「唐散楽」「林邑楽」「高麗楽」「唐中楽」「唐女舞」「高麗女楽」などの外来の楽舞が演じられました。これらは中国・朝鮮・ベトナムのものが含まれる、アジア文化のフルコースだったのです。各演目それぞれ数十人から百人を越える出演者によって、質・量ともに豊富に演じられたことになります。
また、当日は鐘と太鼓が地面を震わせました。開眼供養の直前に完成していた直径2.7m、高さ3.9mの大きな鐘は、新しい楽器として人々に強い印象を与えたことでしょう。鐘を吊るすための竜頭の部分が中世に修理されたといわれますが、本体は当時のものが東大寺に現存しています。「鐘」はもともと中国や朝鮮半島から伝えられた梵鐘が、日本の技術者たちによって日本式の鐘となったものです。「鐘」は仏教寺院に不可欠な楽器である同時に、上代から現代まで途切れずに使われてきたことで「日本の楽器」になったといえます。
こうして、6~8世紀の日本には仏教とともにアジアの楽舞が大量に流入し、日本古来の舞とともに雅楽寮や寺院を通じて宮廷音楽に取り入れられていったことで、「雅楽」へと発展していきます。雅楽はこの次の平安時代に整理されて日本化し、保存されていくことになります。
一方で、やはり西域から唐を通じて、曲芸、奇術、幻術、物まねなどの雑芸も大陸から流入しており、これらは「散楽」と呼ばれ、雅楽や正楽に対する「俗楽」として広く行われるようになりました。こちらはもう少し先の室町時代の「能」へとつながるルーツとなります。