天文18年(1549)11月9日は松平竹千代(家康)が信長の兄・信広との人質交換で一時的に岡崎へ帰った日。元々は今川氏の駿府へ送られるはずが味方の裏切りで織田氏の人質に。今川義元の家臣・太原雪斎が安祥城を攻め信広を生け捕りにして交換が実現した。竹千代は駿府へ送られ10年を過ごす。
不思議に思っていることがある。 それは明智光秀と羽柴秀吉のこと。 ふたりを登用したのは織田信長とされているが、その割には彼等の名前に信長の「信」も「長」も付かないのは何故だろう? ふたりに共通する「秀」の字から、彼等を見出したのは信長の父・織田信秀だったのではないだろうか?
天文17年(1548)3月19日は太原雪斎率いる今川軍が織田信秀を第二次小豆坂合戦で破った日。この勢いで翌年織田方の安祥城を攻略し織田信広と人質交換で竹千代(家康)を取り戻し西三河の掌握から尾張侵攻へ繋がっていく。後になってわかるものでしょうが転換点となる勝負だったのでしょうね。
天文16年(1547)9月22日は稲葉山城下の加納口の戦いで織田信秀が斎藤道三に敗れた日。信秀は敗北後に重臣・平手政秀の働きで和睦を図り嫡男・信長と道三娘・濃姫(帰蝶)の縁組が成立。信秀と道三ともに他にも敵を抱えており望むところ。厄介ごとは同時にいくつも抱えず絞りたいものです。
天文4年(1535)12月5日は三河の松平清康(家康の祖父)が尾張守山(森山)にて家臣阿部正豊に暗殺された日。清康は織田信秀と戦うため守山に着陣。正豊の父定吉に謀反の噂が流れ陣中で馬が騒いだのを父が謀殺されたと正豊が勘違いしたといわれる。守山崩れにより松平氏は弱体化することに。
天文18年(1549)11月27日は人質交換で岡崎に戻った松平竹千代(家康)が人質として駿府の今川義元のもとへ送られた日。2年前から尾張の織田信秀の人質となっていた。この月に信長の兄信広との人質交換で岡崎へ戻ったばかりであった。3月には父広忠を亡くし再び人質となった8歳の竹千代。
天文18年(1549)11月23日は今川義元の家臣・太原雪斎が三河・上野城を攻略した日。上野城の酒井忠尚は今川氏傘下の松平氏から織田氏に乗り換えていた。この月、雪斎が安祥城攻略し信長の兄・信広を捕らえ人質交換で松平竹千代(家康)を取り戻すなど西三河での今川氏勢力が強まっていった。
永禄元年(1558)11月2日は信長が病を装い弟・信勝(信行)を清須城に誘い出し殺害した日。信長と家督を争った信勝は家老・林秀貞や柴田勝家らと挙兵するが稲生の戦いで敗北。二人の母・土田御前が仲介して和睦をした。再び信勝が謀反を企てたため見限った勝家が信長に通報して起きた出来事。