本能寺の変 1582 上総介信長 1 177 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 1 信秀の死
織田信秀、没。
天文二十一年(1552)
三月三日。
織田信秀、末盛城にて死す。
享年、四十二。
壮年、真っ盛り。
「尾張の虎」
と、畏怖された男。
卓越した統率力。
尾張は、一つに纏まったかに見えた。
そこに、無情の風、一陣。
信秀は、病に斃れた。
加持・祈祷、霊験、灼(あらた)かならず。
手厚い治療の甲斐も無く。
終に、不帰の人となる。
早すぎる死。
呆気ない最期。
志、半ばであった。
法名、萬松院殿桃厳道見大禅定門。
一、備後守殿、疫癘(えきれい)に御悩みなされ、
様々の祈祷、御療治侯と雖も、御平愈なく、
終に、三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。
生死無常の世の習ひ、悲しきかな。
颯々(そうそう)たる風来たりては、万草の露を散らし、
漫々たる雲色は、満月の光を陰(かく)す。
(『信長公記』)
信長、この時十九歳。
今であれば、高校三年生(満十八歳)。
信長は、戦国の荒海に抛り出された。
本能寺の変の、ちょうど30年前のこと。
十九歳 + 30年 = 四十九歳。
信長は、この30年を駆け抜けた。
⇒ 次回へつづく
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