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信長公記(8)犬山勢の謀反

 そうこうするうちに、信秀は古渡の城を取り壊され、末森(名古屋市千種区城山町二丁目)にあったとされるというところへ山城をこしらえてお住まいになった。
末森城の外観
 天文18年(1549年)正月17日、上の郡の犬山・楽田より軍兵を出し、春日井原(愛知県春日井市)を駆け抜け、竜泉寺の下、柏井口かすがいぐちへ出陣、あちらこちらに旗を挙げた。
犬山・楽田勢との合戦の図
 信秀はただちに末森からご軍兵とかけつけ出会い、一戦に及んで敵方を切り崩し、数十人を討ち取られた。犬山・楽田衆は春日井原を逃げ崩れていった。何者かが落書きで、
 やりなはを 引きずりながら ひろき野を
  遠吠えしてぞ にぐる犬山
遣縄やりなわ(牛・馬・犬などにつけて、引き操るのに用いる縄)を引きずりながら広い野原を戦に負けて、負け犬のように遠吠えして逃げる犬山勢よ。遣縄は犬の引き縄のことである
 と書いてあちらこちらに札が立てられてあった。
 信秀の弟・孫三郎(信光)は一段と優れた武者であった。この方は守山(名古屋市)という城にお住まいになった。

この時期は、信秀が亡くなる年と同年でした。
病に伏している信秀を狙って進行を進めたが、敗退した、ということなのでしょう。

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