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経済(物流)で見る織田政権①
戦国時代を終わらせた武将・・・織田信長。
彼の天才的な政策は、現代でも高く評価されていますね。
しかし、どんなに才能があっても、お金がないと物事を進める事はできません。
しかし、どんなにお金があっても、周りが付いて来ないと何も進みません。
そのために必要なのが、出自と出身地です。
これらの事が加味されて、織田信長という武将が誕生したんですね。
どういうことなのか、これから詳しく話していきたいと思います。
まず、織田家について、見ていきましょう。
織田家は尾張国(おわり・のくに:今の愛知県西部)を治めていました。
と言っても、本当の支配者は斯波家(しば・け)です。
織田家は、その代行者(守護代)として尾張国を管理していたに過ぎませんでした。
更に、信長が生まれた頃、尾張国は分裂状態で、織田家同士で争っていました。
信長のお父さん、織田信秀は、代行者の織田家の分家という立場で、尾張全体を治める事も出来ていない状況でした。
しかし、そんな分裂状態の尾張国で、織田信秀は、頭角を現していきます。
彼の才能が、そうさせたのでしょうか?
いいえ、違います。
彼にはお金があったのです。
彼の治める地域には、津島と呼ばれる港町があり、そこには津島商人という人々が暮らしていました。
商人たちの財力が、信秀政権を支えていたのです。
更に、知多半島も信秀の領地でした。
ここも交通の要衝として、重要な地域でした。
交通の要衝という事は、様々な物資が運ばれるという事です。
物流において、欠かせない地域だったのです。
京都などの畿内から、東海・関東地方に物資を船で運ぶ時、どうしても知多半島を経由しなくてはなりません。
逆の場合も然りですね。
ここを抑えているだけで、信秀は東の勢力(今川家、北条家)などに対して、有利な立場にあったわけです。
このことが気に入らない今川家は、たびたび、織田家に合戦を挑みます。
桶狭間の戦いも、知多半島と津島という港町を巡る争いだったのです。
さて、財力のある織田信秀政権は、その力を有効に使って、尾張国を統一していきます。
その事業は、息子の信長に引き継がれました。
そして、信長はついに尾張国を統一。
さて、当時の兵力は農民兼足軽の人たちによって構成されていました。
そんな中、信長は常備軍を設置する事に成功します。
彼の才能がすごかったから?
いいえ、違います。
お金があったからです。
合戦がない時は、何もしていない(訓練を除く)人たちを養うだけの財力があったのです。
もうお分かりかと思いますが、津島と知多半島の財力ですね。
三か国を治める今川家と尾張一国の織田家が争えたのも、経済力で見た時、あまり差がなかったからだったのです。
と言っても、兵力となると、動員数の多い方が有利です。
そこで今川義元は、大軍で津島と知多半島を抑えようと動きます。
ここで桶狭間の戦いが発生するんですね。
このとき、信長の常備軍が活躍します。
農民兵の今川家と常備軍の織田家の差が出た戦いでした。
どこに差があったかと申しますと、機動力に差があったのです。
今川義元が奇襲によって討たれたのは、織田家の進軍速度が予想を超えていたからに他なりません。
結局、桶狭間の勝因は、織田家が、津島などの地域を治め、財力も豊富にあったからだと言えるでしょう。
ただ、出自が低ければ、そんな事もできません。
信長が、津島を治める代官の家に生まれていたら、例え、津島を抑えていても、今川家と争う事などできなかったでしょう。
知多半島の豪族に生まれた場合も同様ですね。
信長が、尾張国の支配代行者の家に生まれたからこそ、そして、父親の信秀が、ある程度の地盤を築いていたからこそ、今川家に勝利する事ができたのです。
今回はここまで・・・