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人質・竹千代(徳川家康)

【通説(江戸幕府公式『徳川実記』「東照宮御実記」による)】 織田信秀(織田信長の父親)に攻められた松平広忠(竹千代=徳川家康の父親)は、今川義元に助けを請うと、今川義元が人質を要求してきたので、竹千代(徳川家康)を駿府(静岡県静岡市)に送ることにした。
 天文16年(1547年)8月2日、竹千代(徳川家康)一行は、船で吉田港(愛知県豊橋市)まで行き、そこから陸路(東海道)を往くと、白須賀(静岡県湖西市)で戸田康光(松平広忠の後室・真喜の方の父親)が待っていて、「陸路は敵が多いから船で」と言われ、船に乗ると、着いた先は駿府ではなく、熱田(愛知県名古屋市)であった。織田信秀は、一行を熱田の加藤順盛屋敷に閉じ込め、松平広忠に「降参しないと竹千代(徳川家康)を殺す」と伝えると、松平広忠は「好きなようにしろ」と返した。その心意気に感じた織田信秀は、竹千代(徳川家康)を殺さず、名古屋の萬松寺の天王坊に閉じ込めた。

 此ほど道閲入道殿もうせ給へば、織田信秀よろこび大方ならず。「今は三州を侵掠せむこと心やすし」とまづ安祥を責落し。其子・三郎五郎信廣をこめ置。淺理筒針に砦をかまへ、上和田に三左衛門忠倫、上野に酒井将監忠尚を置て椅角の勢を張れば、もとの信定が子・内膳清定、山中の権兵衛等もこれに応じ、岡崎孤城となりて甚危し。國中大に乱れて、あけても暮ても互の争戦やむ時なし。この時、筧平三郎重忠は、岡崎の御家人なりしが、偽て忠倫に降参し、したしみ、よつて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長・忠倫うたれしかば、岡崎がたは大に悦び、織田方は援助を失ひしに、信秀大に怒り、「さらば、みづから大軍を率し、三州に出陣し、岡崎をせめぬかん」と、用意する由、聞えしかば、岡崎にも是を防がむとすれども、衆寡敵しがたく、今川がもとへ援兵をこはる。義元、聞て人質をこひければ、竹千代君、わづかに六歳にならせ給ふを、駿州に質子たるべしとの事にさだまり、石川與七郎数正、天野三之助康景、上田萬五郎元次入道慶宗、金田與三右衛門正房、松平與市忠正、平岩七之助親吉、榊原平七郎忠正、江原孫三郎利全等、すべて廿八人、雑兵五十余人、阿部甚五郎正宣が子徳千代(伊予守正勝なり)六歳なりしをあそびの友として、御輿に同じくのせてつかはさる。
 こゝに田原の戸田弾正少弼康光は、廣忠卿、今の北方の御父なれば。此御ゆかりをもて、「陸地は敵地多し。船にて我領地より送り申さん」と約し。西郡より吉田へ入らせ給ふ所を、康光は、其子・五郎政直とこゝろをあわせ、御供の人々をいつはり、たばかり、船にのせて尾州熱田にをくり、織田信秀に渡しければ、信秀悦び大方ならず。熱田の加藤図書順盛がもとへ預置しとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て、「幼息・竹千代は、我膝下に預り置たり。今にをいては、今川が與國をはなれ、我かたに降参あるべし。もし又その事かなはざらんには、幼息の一命たまはりなん」と申送りたり。卿、その使に対面したまひ、「愚息が事は織田がたへ質子に送るにあらず。今川へ質子たらしむるに、不義の戸田、婚姻のよしみを忘れ、中途にして奪とりて尾州に送る所なり。廣忠一子の愛にひかれ、義元多年の旧好を変ずべからず。愚息が一命は。霜臺の思慮にまかせらるべし」と返答し給へば、信秀もさすがに卿の義心にや感じけん、竹千代君をうしなひ奉らんともせず、名古屋萬松寺天王坊に押し込め置きて、勤番、厳しく付け置きしとぞ。

『徳川実記』「東照宮御実記」

・名古屋の萬松寺の天王坊は、織田信長の学問所であったので、織田信長と竹千代(徳川家康)が会った可能性は極めて高い。

・徳川家康には「船に乗ると、どこかへ連れて行かれる」というトラウマが生まれた。そのため、「本能寺の変」の時、堺にいた徳川家康に「船で三河国へ」と言ったが「嫌だ。陸路で」と伊賀越えになったというが、結局は伊勢湾を船で横断した。「桶狭間の戦い」後も、徳川家康は船に乗って大高川を下って伊勢湾に出て海岸線を南下し、上陸して陸路で知多半島を横断し、成岩浜から再び船に乗って大樹寺に入ったという伝承がある。(ただし、この伝承は、「神君伊賀越え」ルートとの混同だとされる。)

                  正室・於大の方
                     ‖─松平元康(徳川家康)
                  松平広忠        
正親町三条実興─戸田宗光        ‖─市場姫(徳川家康の異母妹)
(戸田実光?)  ‖─憲光┬政光─宗光┬継室・真喜姫
      松平信光の娘 │      ├堯光
             │      └宜光…康長【松本戸田氏】
            └氏一(家光?) …氏鉄【大垣戸田氏】

・松平広忠は、兄が織田方に寝返った正室・於大の方とは離婚したが、父が織田方に寝返った継室・真喜姫とは離婚していない。本当に戸田宗光は織田方に寝返ったのか?

【新説】 織田信秀(織田信長の父親)に攻められ、岡崎城を取り囲まれた松平広忠(竹千代=徳川家康の父親)は、降参し、竹千代(徳川家康)を人質として熱田に送った。

・天文16年(1547年)9月22日付の日覚の書状に「三州は、駿河衆、敗軍の様に候て、弾正忠先以一国を管領候」(三河国では今川軍が負け、織田弾正忠信秀が三河国を支配した)とある。日覚はその目で見た事ではなく、伝聞を書いたものと思われる。実際、織田信秀が西三河を支配した時期があったかもしれないが、東三河は今川領だったと思われる。


【『どうする家康』】 赤い着物を着た織田信長直属の部下が、従者を矢で射て、竹千代を奪った。(これでは、従者である石川数正、天野康景、上田元次、金田正房、松平忠正、平岩親吉、榊原忠正、江原利全等、全28人、雑兵50余人は全員死んだことになってしまう。)
 また、小舟が着いたのは、熱田ではなく津島とされた。

天文 3年(1534年) 吉法師(織田信長)、勝幡城で誕生。
天文 4年(1535年) 吉法師(織田信長)、那古野城へ。
天文11年(1542年) 竹千代(徳川家康)、岡崎城で誕生。
天文16年(1547年) 竹千代(6歳)、織田信秀の人質になる。
天文18年(1549年) 竹千代(8歳)、今川義元の人質になる。

 織田信秀は、松平広忠に「降参しないと竹千代(徳川家康)を殺す」と伝えると、松平広忠は「好きなようにしろ」と返した。そこで織田信秀は、竹千代(徳川家康)を殺そうとするが、先見の明がある織田信長は「使い道がある」から生かしておくよう、父・織田信秀に進言した。(実際、織田信広との人質交換に使えた。)


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